11月5日、日立目白クラブという、旧学習院昭和寮(寄宿舎)を継承する由緒ある建物で、メイリオ書 体の主要なデザイナー、河野英一氏の講演を聞く機会を得た。河野氏の講演では、メイリオを開発する上での様々な課題と解決を順を追って解説されたが、それ は興味の尽きないものだった。お伝えすべきことはいろいろあ るが、ここでは、印刷されない表示媒体を対象にした文字組版におけるメイリオのデザイン・アプローチとその意味について、講演に触発されて筆者が 考えたことを記してみたいと思う。〔鎌田博樹〕
文字フォントや 文字組版については、筆者もまだ若い時分に、先輩の編集者やエディトリアルデザイナーから厳しく指導されたので、関心と多少の予備知識を持ち、また20年 前の電子出版の黎明期には、仕事でも関係があったから、好きなテーマの一つではある。また、メイリオについては、それによってWeb出版への意欲を大いに 刺激されたので、ご本人に感謝を述べておきたい気持ちもあった。
知識空間の土台としてのページ
活字印刷技術が文化・社会に大きな影響を及ぼすようになるには、ヨハネス・グーテンベルクによる可動活字の発明では足りず、彼の半世紀あまり後にイタリアで生まれたアルド・マヌツィオ (Aldus Manutius)が、複数の書体とページ番号によって、本というものを工芸から工業デザインとして完成させるのを待つ必要があった。思うに、可動活字は機械による 「行の制御」を可能にしたが、神ならぬ人間の「知識」を構造として表現するには、多様な書体と「頁の制御」を通じて3次元の「本」とすることが不可欠だっ たのだと思われる。
グーテンベルクの「革命」が、もっぱら<記述された情報の複製作業>の生産性に関係していたとすれば、マヌツィオの業績は<著者と読者の知的活動>の生産性に関係していた。これをコンテンツの付加価値としての<読書体験>と 置き換えてもよい。ページの可読性、そして情報探索、思考におけるユーザビリティとして評価されるものだ。ページという二次元空間を三次元的な本として構 成することで知識空間を構築する技術は、古代から現代に至る、編集における最も重要なテーマだと思われるが、不幸なことに、あまり意識されてはいない。マ ヌツィオ以降、ハイパーテキストの誕生まで、このような知識情報のコミュニケーションに関連した生産性革命は起きていない。
書体が実現した高度なページ構成とページ番号(→目次、索引)を得て、知識は(機能・構 造・美を実装する)表現手段を獲得し、安住の地を得た。本は知識空間となったのだ。著者・編集者や印刷技術者は、このインタフェースを操作することで、知 識を視覚的な構造体として表現し、それによって読者も新しい体験を発展させることができた。知識空間としての本の爆発的成長において何が決定的だったかと いえば、文字組版であったように思われる。そして、ページとして構成された文字組のアーキテクチャ(機能・構造・美)は、紙だけでなく、電子的な情報のインタ フェースであるディスプレイにおいても決定的な役割を果たす。メイリオ (2007)以前と以後でのWebの日本語環境の変化は、そのことを示していると思われる。
Web における日本語“組版”環境
印刷が本を生み出すまでに時間を要したように、インターネットあるいはWebで日本語が 扱えるようになってからも、画面上で構造と表現を自在にコントロールできるようになるまでに、かなりの時間を要した。ページ(画面)の情報量と訴求力は、 画面解像度だけではなく、文字と文字を中心としたレイアウトの技術に大きく依存するが、つい最近まで、10年以上にわたって、日本語のWebサイト(とく にWindows系)は見るに堪えないほど醜いものだった。綺麗な写真と汚い文字。見出しは画像貼り付け。テキストがグラフィックと対等の力を発揮してい る欧文のサイトと比べて、悲惨というしかなく、画面では読む気がしなかった。
1980年代に16ドット漢字で日本語を始めて以来、アウトラインフォントやワープロによるWYSIWYGなど、OSやGUIのもとで改善される一方だった文字技術の流れが逆転したのである。ナビゲーションが使えるようになった代償としては、あまりに大きい。読書家がインターネットに背を向ける原因にもなったと思われる。2001年以降、WindowsではClearTypeと いうグレースケールフォント処理技術を提供して可変解像度での画面表示を大きく改善したのだが、日本語の標準フォント(MSゴシック・MS明朝)では対応 できず、そのことが欧文環境との表現力の差を大きくしていた。日本語組版に適した画面用書体のセットを新たに開発するという、単純かつ困難な解決に取り組 むしかなかった。
しかし、Webでの画面表示に最適化されたフォント・ファミリーのデザインというのは、ほとんど前例がなかったと思われる。例えば、以下のような制約・要求がある。
(1) 横組専用書体である
(2) 漢字、カナ、アルファベット、記号4種類が混在(和欧混植)
(3) 使用頻度が多いものから極めて少ないものまで、文字数が膨大
(4) 低解像度での最適な省略形を考える必要がある
(5) 自動化可能なもののほか、手作業が必要な部分が残る
(6) 省略形と文字サイズの扱い
(7) 組んだ時の自然なバランス
これらについて、一から方針を決め、作業を設計し、プロジェクトを管理しなければならな いということだ。日本語組版、欧文組版と活字デザインにおける知識とセンスのほかに、エンジニアとしての工程設計と管理能力も要求される。そんな人間は世 界中探してもいるものではない、と思われた。
文字のデザインとエンジニアリング
日本人にとって、河野英一というデザイナーがロンドンにいたことは、じつに幸運であった というほかはない。なぜならば、日本語組版中の和欧混植の扱いと欧文、カナ文字デザインの方針は、欧文と本格的に取り組む機会に乏しい日本のタイポグラ ファーにとっては容易に決め難いからだ。河野氏は、英国においてタイポグラフィの歴史に残る2つの仕事を残している。可読性に影響を与えずにページ数を1 割減らした電話帳のデザイン、そして高い評価を得たロンドンの地下鉄駅の表示用文字である。いずれも数百万人が目にするもので、限られたスペースの中での 最高度の視認性、可読性とそれを助ける審美性が要求される。
欧文フォントの視認性は、個々の文字ではなく、ワードとしてタイプされて評価の対象とな る。文字間、単語間の微妙なスペース、Xハイトやキャップハイトが適正かどうかは、用途によって異なる。その点が欧文組版の難しさであり、また日本語と混 植する上での課題でもある。高級な日本語DTPシステムでも、欧文の組版や日本語とのバランスは必ずしも良くはないのはそのためだ。メイリオの欧文フォン トは、Verdana書体の開発者で英国人のマシュー・カーターが担当した。ベースラインの調整、プロポーショナルな欧文部と等幅の和文部(カナ・漢字) の「自然な」マッチングなどが、メイリオの成功の基本だと思われる。
日 本語では、極小フォント用のビットマップをやめ、すべてのサイズにClearType技術を適用した。そのためには膨大なヒンティングデータを盛り込む必 要があり、開発生産性の面で別の課題に直面することとなったが、河野氏と(株)シーアンドジイは、漢字に通暁している台湾人スタッフの参加を得て解決して いったという。ビットマップをやめることでデータ量は大幅に減るが、ヒンティング作業にはかなりの「割切り」が必要で、まったくの素人考えだが、極小文字 /低解像度表示のヒンティングは、日本人には向いていないのではと思われる。
河野氏によれば、メイリオの開発には2年(方針確定まで半年、作業に1年半)というタイ ムリミットが課されており、当然にもすべてを満足する形で仕上げるには足りない。作業の設計では優先順位を設定し、細部の調整作業を残すという選択をし た。だから、メイリオも2007年以来、数字の改訂を経ているという(昔のものをお使いの方は、ダウンロードし直したほうがいい)。
結語
河野氏と彼に「メイリオ」開発の仕事を依頼したマイクロソフトは、本のデザインの礎を築 いたアルド・マヌツィオに匹敵する歴史的・文化的な仕事をやったのだということは、これからもっと評価されなければならないだろう。なぜなら、可読性は情 報活動の生産性における最大の要素の一つであり、バランスの良い文字がなければWebデザインも成り立たず、ナビゲーションの足場も弱々しいものとなるか らだ。2006年までの日本語環境はそうしたものだった。それは紙のために開発された素材を自動的にアレンジするのでは足りず、独自に再設計し、困難な作 業を通じて解決する必要があった。
Webは、文字画像データを表示するたんなる情報媒体ではない。構造化された知識やイン テリジェンスを表現する可能性を持った多次元空間であるが、それを人間が使うには安定した二次元環境(組版)が不可欠だ。知識は意味を扱うが、文字は単語 となり文章として「組まれ」て初めて人間にとって意味を持つ。それは日本語でも英語でも変わることはない。日本語表示に適さない環境は、数千万人の日本語 利用者のWebでの知的活動を制限し、非日本語圏では日本語学習意欲に水を差す。欧米とのハンディを金額にすれば気の遠くなるほどのものだろう。しかしそ のことに気が付いていた人はどのくらいいたろうか。
タイポグラフィのデザインは最も地味だが、まさに地の塩、世の光というべきだろう。
P.S.
この講演会は、「河野英一さんを囲んで旨いものを食べる会」としてお誘いをいただいたもの。会を主宰された日立製作所 ソフトウェア事業部の大場みち子氏、河野氏とは旧知で畏友であるスコレックスの小林龍生氏、楽しく懇談させていただいた錚々たる参加者の方々に感謝申し上げたい。(11/11/2009)
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