デジタル時代のメディア世界のマップを描こうという試み。前回は確認の意味で、デジタル情報世界の性質を総括し、人間がこの世界と付き合い、振り舞わされることなく使っていくために、デジタルに表現されるものよりはその意味が重要であると述べました。メディアはコンテンツとコンテクストとユーザー3つの要素の関係で成立します。そこに「生きた意味」(つまり価値あるいは体験)が生じるのです。今回は意味について、いくつかの面から考えてみます。
意味論的歪曲が支配する悪夢(?)のデジタル世界
前回は変幻自在、融通無碍な「意味」こそ価値の源泉であり、デジタルに振り回されないための、人間の唯一最大の武器であるとお話ししました。情報はものごとの意味を発見するための手段であると言うこともできます。しかし、意味というものは、もちろん人間にとっても厄介なものです。専門的には言語学や数理論理学で扱います。これらは計算機の世界とも大いに関係しており、Webの検索エンジンやeコマースのレコメンデーション機能など、応用領域は(Webとともに)どんどん拡大しています。つまりITにおける「意味市場」は少なくとも数兆円を稼ぎ、最大の成長分野だということです。勝てる自信がなくなってきた?
いや心配はいりません。ITで捕まえられる意味などは、ごくわずかなもので、私たちが「疑問」を呈する能力があれば、すぐに無能ぶりを露呈するていのものです。説明責任は向こう側にあります。唯一の問題は、私たちのほうになお“コンピュータ崇拝”があり、このオズの魔法使いが出すものを素朴に受け容れることが習慣となっていることです。いま一度確認すると、デジタルは (1) 利用可能な、量化されたデータのみを扱い、(2) 人間が、ある目的のために単純化した世界モデルに基づき、(3) 制約の中で人間が考えたロジックで計算した結果でしかありません。さらに (4) 誰かのための「結果」を鵜呑みにする必要はないのです。上の4つは、デジタルを自分のために操作するハンドルと考えてください。(図は意味のネットワークとクラスタリング)
アルフレッド・コージブスキー(写真)という20世紀前半の人が考えた「一般意味論」は、言語学の意味論とはまったく異なり、今日では“トンデモ科学”とも揶揄される理論ですが、A. E・ ヴァン・ヴォークトや ロバート・A・ハインラインらのSF作家を魅了・刺激して、知的刺激に満ちた仮想世界、並行世界を生みだした不思議な魅力があります。筆者自身は、観念化や常識の罠(意味論的歪曲)が生んだ集団狂気の時代(両大戦間)に、素朴ながら力強い健全な知恵を多く提供し、なお思想としての可能性を秘めているのではないかと考えています。彼が最も強調したのは、現実 (の多く)は表現主体と表現方法によって破棄され、歪められる、ということの自覚と自衛でした。中途半端な量化によって「省略され歪曲された」情報が「仮想現実」として浸透し、通用しつつある現在、再考に値すると思われます。
これもSFですが、フィリップ・K・ディックの初期長編『虚空の眼』(1957)は、主人公の電子工学者を含む8人が、陽子加速器の事故によってそれぞれ他人の心的世界を体験することになる奇想天外な、しかし悪夢的な物語ですが。その幻想世界たるや、宗教的迷信が作用する世界であったり、病的に潔癖症の女性がすべてに干渉し書き換える世界、あるいは隠れ共産主義者の世界であったり…。主人公は、なんとか幻想世界のロジックを読み解くことで現実に戻れるわけですが、それまでの苦闘の連続で、読者は恐怖と笑いを同時に体験できます。21世紀は、多かれ少なかれデジタル「世界」に支配されています。私たちは小説の主人公ハミルトンのように、つらくても知恵と力を合わせて闘わなければ、人間らしく生きることは難しいでしょう。
21世紀に文字がなぜ重要か:文字は意味を意味を扱う最高の言語記号
デジタルは意味以外の情報を扱うのは非常に得意です。かつてマルチメディアは不得手とされてきましたが、むしろ動画や音声ほど扱いやすい、したがって様々なCODECのフォーマットによる改変を受けやすいのです。では、デジタル化されても影響を受けない情報は何でしょうか。不思議かもしれませんが、それは文字です。これはもともと記号なので、粘土板や石板に刻まれようが、紙に書かれようが、ディスプレイに表示されようが、内容はまったく(正確にはほとんど)影響を受けないのです。文字(言葉、テキスト)はデジタルの支配を受けない唯一のメディアと言えます。それどころか、木簡、巻物、書物、Web、といった媒体の変化のたびに、知識の空間表現の可能性を拡張してきました。
それなのに「活字メディア」の人々がデジタルの躍進に泣き言を並べるのを聞くと、結局この人たちは活字情報よりも活字「印刷物」で生きてきたのだなと考えてしまいます。たしかに文字と印刷との結びつきは、粘土板や石板、パピルス、亀甲などとの付き合いよりは遥かに浅いとはいえ、その物量が圧倒的なだけに「活字印刷物」へのフェティシズムを広めるには十分でした。しかし、モノではなく知識を扱う自身のある人は、むしろデジタルが意味の王者としての文字(テキスト)の優位を確立するものと考えるでしょう。それは文字が意味と知識の複雑性を(かなり)正確に扱えるからです。
さて意味とそれがもたらす価値について考えてみたいと思うのですが、言語学や論理学には立ち入らず、古代の寓話から入ってみましょう。『荘子』の逍遙遊篇にこんな話があります。荘子が、彼の議論を無用と決めつける論理学派(名家)の恵施をやりこめるためにした話。粗筋はこんなものです。
<宋の国によく効くあかぎれの薬をつくる人がいました。綿を水でさらす仕事のために使っていたのですが、客がこれを聞いて、その製法を百金で買いたいと言います。宋人は一族で集まって、綿をさらして商っても稼ぎは数金だから、ということで、この技術を売ることに衆議一決しました。客はこれを越の国との戦争を準備中の呉の王に売り込みました。王は彼を将として冬の水戦に臨み、越に大勝。客はこの功で領地を与えられました。>
ポイントは、軟膏の製法という知識情報の「価値」が、宋の人の日常の暮らしの中と呉の非常時とではまるで違っているということ。価値相対論の荘子は、ほかに大小、美醜、貴賎などの区別も相対的なもので、視点や状況によって評価は変わる、ということを説いて友人であり論敵の恵子を凹ませています。敢えて要らざる詮索をすれば、この場合に意味を持つ情報は、(1) 呉の戦争準備、(2) 冬期の水戦の課題、(3) あかぎれ薬の入手可能性、(4) 呉王とそのブレーンの性格などで、こうしたコンテクストを組合せて「バリューチェーン」を構想・実現した「客人」はタダ者ではなかった。アイデアは薬の製法というより、国際情勢から薬の使い途を発想したことにあったわけです。
モノや情報が価値を持つためには、クロスワードパズルを解くように、数多くのポイントで「意味」を成立させることが必要で、そのことは2500年前も現在も変わっていません。ITは不器用にロジックを組み立て、データを解析して「意味」に迫っていますが、人間は一足飛びに勘を働かせ、最低限の情報から多くを読み取って、相手に合わせたロジックを組み立てることができます。言葉の裏にある多様な意味を知識として保持し、適切に応用できるのも人間です。Googleやアマゾンが百億円、千億円をITに投じてマーケティング上の「意味」を読み取り、応用しているのは、もちろん数千億、数兆の売上を求めてのことですが、個人やグループは、より安価なITとデジタル情報を使って、局地的にはもっと効率的に成果を上げることが可能です。
意味はTPOに依存し、その妥当性を厳密に検証するためには5W1Hを考えることが必要になるでしょう。翻訳というものをやってみると分かりますが、著者の個性・生活・文化・対象読者によって様々な「解釈」の余地があります。17文字の俳句にも、季語や切れをはじめとするかなり複雑な規則や技法があり、古典作品を含めてそれらを知っていることが鑑賞の条件にもなっています。コンテクストを扱えるという能力は、どんどん研ぎ澄ましておくべきでしょう。答を検索エンジンに求めることは危険です。5W1Hの思考を身に着けていなければ、意味のある情報すら探せないでしょう。
そうした意味で、最強の質問はつねに「なぜ」です。問題とその解決を考える上で、これほど強力な武器はありません。これが思考の出発点です。知恵は他人から与えられるものではなく、自分で発見し獲得するものですが、「なぜ」はいつでもその鍵となるでしょう。 (12/25/2009、鎌田博樹)
次回は、メディアにおける「意味」を考えたいと思います。
No related posts.
English
日本語 








