米国のE-Book論争:(2) 紛争回避への模索
2010年 1月 16日
米国での既刊本の電子化権をめぐる論争を紹介した本連載は、すでに多くの人に読まれており、日本でも関心が高いことがうかがえる。著者と出版社の間で、契約すら交わされずに出版が行われることもあったほど「相互信頼」が常識化されていた日本では、いったん紛争化すると米国より厄介かもしれない。重要なことは「未来志向」で出版の「社会的・経済的な価値」を高めるために、協力関係を再構築することだ。出版社の仕事も変わらなければならない。
寄稿への反響と「著者 vs.編集者」論争
エスポジト氏は「デジタル化権交渉を避ける方法」と題する小論で、まずギャラッシ氏への敬意を忘れていない。ラトガース大学出版で駆け出し編集者だった頃、同氏が『パブリシャーズ・ウィークリー』誌に寄せたエッセイ「煽動的行為としての出版」を読んで感激し、出版人として進むべき道について助言を請うたエピソードも紹介している。出版者はビジネスがどうであれ、出版する価値のあるものは何としてでも出版すべきだ、という趣旨だった由。エスポジト氏はその後、1990年代前半に Encyclopaedia BritannicaのCD-ROM版およびオンライン版を指揮し、出版社でのデジタル化プロジェクトの現場を経験した。
彼はギャラッシ氏の主張の道義性を認める。完成した本は編集という特殊な創造的技能が必要で、電子版を出す場合には、オリジナル版に多大な貢献をした印刷版編集者が何らかの形で参加するようにすべきだ。しかし、それを強く主張するほど、著者がそれに耳を傾けることはない。本の「謝辞」ではあらゆる外交的賛辞を惜しまなかったとしても、作品の最終形態に対する編集者の貢献までは主張されたくない。感情を害されることもあるだろう。ギャラッシ氏の言い方は、まるで作家はボーキサイトの鉱石で、それを製錬しアルミ加工品にまでしたのは出版者(編集者)であると主張しているように聞こえる、と彼は言う。
これはまったくその通りで、事実、この記事へのコメント欄では、「編集者 vs. 著者」で激しい議論が戦わされている。日本ではやって欲しくないと思うが、自分たちの仕事の価値を再認識する意味で、一度はガス抜きが必要かもしれない。難しいところだ。米国では「ライティング」の教育が徹底されており、さらに論争の参加者は修辞の達人たちだから、巧妙な比喩や効果的なデータなどを使ってやり取りすることになる。T.S.エリオットの『荒地』に手を入れた編集者で詩人のエズラ・パウンドの書き込みを見たことがあるかとか、去年出版された40万点の新刊の大部分に対し、出版社はどんな価値ある仕事をしたというのか、とか。高見の見物をする分にはおもしろい。もっとも、あまりにもエピソードが豊富な世界なので、比喩やレアケースをネタに使うのは止めよう、というルールがすぐ生まれたりもするので、理性的な議論の枠内で収まっている。けっして危ないところまではいかない。
エスポジト氏は、ランダムハウスは別の方法を選べたはずだ、という。問題となっているのはオンライン・マーケティング、オンラインコミュニティの形成、著者専用Webサイトの商品化、トラフィックの監視、ユーザーのアクティビティ(から推定されるユーザー体験)、その他オンラインバリューチェーンの管理など、原出版社なればこそできるベストエフォートがあるはずだ、と述べている。
この指摘は、過去の因縁をつらつら持ちだすよりもずっと建設的だ。この辺りは、本サイトがいちばん関心を持っているところで(それが Ebook2.0 と名づけた所以だが)出版関係者もオンラインビジネスに目を開いてくれると信じている。本稿は話題を提供するのが目的ではないので、次にこれまで目にした中で論争の論点を整理してみたい。論争を通じて、偉大な編集者の仕事が再確認されたことはよかったと思う。編集者は、時に創造者でもミューズでもあり、パートナーであり、助手でもあり、時にたんなる読者でもある。しかし、編集者なしにまともな本ができるとは思えない。それどころか、オンライン時代にはより重要な役割を果たせるし、果たすべきだと考えている。(つづく)
余談だが、筆者も駆け出しの編集者だった大昔、先輩に「編集者は、天を翔けるような仕事も、地を這うような仕事も、芸者のような仕事もできなければ勤まらない」と諭されたことを覚えている。これってどういう付加価値だったんだろう。
参考記事
How Not to Negotiate for Digital Rights by Jeseph Esposito, the scholarly Kitchen, 1/12/2010
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