タブレットのビジネスモデル (3):マジックを解く

2010年 1月 25日

PC Worldのビル・スナイダーは、アップルのタブレットをビジネスに使いたいというユーザーに冷水を浴びせた。OSは iPhone 4.0 で、MacBookのようにWindowsアプリケーションを使えず、ビジネスが要求するセキュリティ標準を満たしていない。サイズも非効率。ネットブックを2台買った方がいい、と。いまやすべての状況証拠は、ジョブズがビジネス市場を一顧だにしていないことを示している。「ファミリーとキャンパス」。それも特別な体験としての意味を持ったもの。それがどうやってビジネスになるのか。

ガジェットのマーケティングにおける「体験」

ガジェットのマーケティングでは、ターゲットのライフスタイルと使用環境、必要とする機能、UIを考えていくのがふつうだ。もちろん、Web時代になって機能やサービスはサーバ側とデバイス側に分かれ、コンテンツはライブラリ化されてサービスの一部となることで、デザインにおいてWebサイトとガジェットを一貫するUIの比重がかつてなく重要なものとなり、そうして実現される「体験」に注目が集まりつつある。これはコミットメントでもあり結果(評価)でもある厄介なものだ。もちろん、トランジスタラジオもラジカセも、ウォークマンも、すべて「体験」を価値としていた。しかしそれらはあくまでガジェットの機能やデザインに対応していた。日本の工業デザインが最も冴えていた時代である。Web時代の「体験」は少し違った様相を見せる。

「体験」は個人のものであると同時に、時に共有可能なものでもある。それどころか、共有されることによって体験は違った「意味」を持つようになる。ラジカセは世界中の街頭で鳴らされて貧しい青少年に共有体験を与え、それがストリートミュージックを生みだし、体験を再生産していった。音楽産業は新しいコンテンツと市場を得たと思われる。それはラジカセの設計者も想像しなかったことで、もちろんメーカーのビジネスモデルには入っていなかった。それに対して、スターバックスは「体験」から発想した。コーヒーを飲むという日常行為でさえ「体験」化が可能であり、それが付加価値を生み出すことを実証した。もちろん、レストランで食事すれば「体験」があるし、人々は喫茶店でも「体験」は得ているわけだが、ハワード・シュルツはそれを工業化し、ビッグビジネスに押し上げたのである。この構想力は凄まじい。(左の図は、Peter Morville によるuser experienceの構成概念)

商品としての体験をデザインするには、モノを入口とするのではなく、出口とする発想が必要だ。なぜモノから入るのがいけないかといえば、モノの持つ「非商品的側面」を見落とすからにほかならない。ユーザーにとっての「商品体験」などは、より大きな「生活体験」の一部となって意味を持つのだが、そこが見えなくなってしまう。ふつうメーカーは売れた後のことには関心を持たない。次の製品のデザインに忙しいからだ。売れた後に起こる「体験」は、次の設計に役立つ限り重要であるにすぎない。現代世界で最高の“体験デザイナー”であるアップルのジョブズ氏が凡人と異なるのは、ガジェットとその売行き以上に、ユーザーの「体験」に関心を持つ点だ。ほとんど宗教者なのだ。

所有せずに支配せよ:進化した<ガジェット+プラットフォーム>モデル

アップルのタブレットをガジェット・デザインとして評価しようとするのは、3分の1しか見ないことになる。Webビジネスのプラットフォームとして評価しても、やはり3分の1だ。ここまでは、どんなマーケッターでも考える。問題は残りの3分の1だ。ガジェットがそのままプラットフォームとなって体験を届けられた時代は、ウォークマンくらいで終わった。今日ではこれらは別のもので、別々のビジネスとして存在している。日本ではガジェットより通信をボトルネックとして押さえる会社がプラットフォームを兼ねているが、これは前近代的な姿と考えるべきだろう。

ガジェット+プラットフォームは、ゲームなどを例外として通常は成り立たない。かつて日本メーカーは<ガジェット+コンテンツ>モデルを追求し、コンテンツ企業を買収することでそれが可能になると考えて失敗した。所有したコンテンツのDRMを優先すれば、ガジェットの力は発揮できない。「ハードとコンテンツの相乗効果」など生まれず、どちらも重荷になって、その中間にメタなプラットフォームが、次々とWeb上に成立してしまった。最大のものが iTunesであることは言うまでもない。コンテンツを所有すれば、それによって上げられる利益は、当然ながら売上からコストを差し引いたものにしかならない。管理コストも膨大にかかる。だから新聞・雑誌や出版社などの「コンテンツ」ビジネスは(とくに不況期には)儲からないのだ。恐竜たちが喘いでいるのに対して、プラットフォーム・ビジネスは、コスト負担や景気変動の影響を極小化して相変わらず利益を上げている。

アップルは、iTunes でガジェットとWebプラットフォームという、通常ではあり得ない組合せを実現した。それは音楽産業を相手に成功し、ゲームでも成功しつつある。では映画、ビデオ、TV、ニュースコンテンツや雑誌、書籍というより広汎なパブリッシングの世界でそれが再現できるだろうか。1点のコンテンツをも独占的に所有することなく、メディアプラットフォームとなることは可能だろうか。メディア産業は巨大なビジネスであり、規模においても影響力においてもアップルと遜色ない存在だ。それにもともとメディア・プラットフォームとは彼らのことだった。まともなら協力してくれるはずもない。

不可能を可能にするジョブズのマジックは成功するか?

アップルにとって有利なのは、コンテンツを保有し、生産するメディア企業が不況によって打撃を受け、さらにGoogleというメタ広告プラットフォームによって痛めつけられ、ヒステリックになっていることだ。いつもの傲慢な彼らなら無視されるような提案でも呑む可能性は十分にある。とくに音楽産業の変化をみればなおさらだ。

アップルはメディア企業に対し、すべてのコンテンツにアクセスする必要はなく、ベストコンテンツのみをライブラリ化して流通させ、有料コンテンツ販売の手数料を受取りたいという提案をしたと伝えられている。だが、これはメディアにとって必ずしも嬉しい話ではない。マスメディアというものは、何がニュースであり、何が価値あるコンテンツであるかを決定する権力を持つが故にマスメディアなのであり、“ベスト”をアップルが選択するということは、アップル自身が仮想メディアになることを意味する。この仮想メディアはユーザーと強く結びつき、様々なコンテクストを共有する。つまりネット経済として考えれば巨大な時価総額ということになる。メディアにとっては、一部商品の扱い量が増えるだけで、売場面積が増えて収入が確保されるわけではない。メリットは少ない可能性が大きい。

しかし、ここに「ファミリー」というコンセプトが登場する。これは市場にとって価値は大きいが、市場を超えた伝統的な価値の源泉でもある。基本的に「贈与経済」で成立する集団であるだけに、市場からのアプローチには限界がある。前回 (2)で書いたように、これまでの「パーソナル化」技術はファミリーに敵対的であり、これを放置し、あるいは解体してきたものだ。「市場」の万能性が否定されたことで、現在あらためて見直されていても、複雑化し、部分化された人々の生活の中では、いくつかのイベントでしか体験することが難しい。タブレットは、ファミリーのメンバーの間のコミュニケーションの媒体となり、そのためのコンテンツを提供する。従来のメディアが「世界」と「個人」の間に介在したのに対し、iSlateはファミリーの中のメディアということだ。だから、在来型のメディアに対して決定的な違いを主張できる。iSlateはマスメディアとは無関係な家族の「神器」だと。

製品・サービス・ビジネスを一体化したアップルのデザインは、イコノロジーのような手法でないと読み取ることができないのではないかと、最近考え始めている。エルヴィン・パノフスキーのイコノロジーは、作品を、自然的主題 (視覚表現)、伝習的主題 (寓意)と内的意味という3つのレベルで分析する。アップルの製品に対して、多くの人は視覚デザインに惹きつけられ、使ううちに寓意に夢中になる。そして「価値観と文化」を受け容れていく。ガジェットにおけるライバルは、あくまで「商品」を対置するしかないので、不利な立場に立たされる。市場で競争するしかないからだ。 (鎌田、01/25/2010)

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