ブロガーの池田信夫氏が、1月6日のASCII.JPのコラムで「日本は電子ブック戦争になぜ敗れたのか」を論じ、今年が「電子ブック元年」という重要な節目であるのに、ハード、コンテンツともに日本が立ち遅れていることを指摘した。「電子ブックで鎖国する日本」という刺激的な表現で、本の流通機構と出版社の対応を批判してもいる。もちろん『希望を捨てる勇気』を書いた池田氏一流の反語的表現だが、逆効果になっては困るので、蛇足ながら駄文をものした。
たんなるビジネスではない
池田氏は、出版業界とともに「企業に戦略がなく、既得権を守ろうとしているうちにプラットフォームを海外のメーカーに取られてしまう」メーカーも俎上に乗せられている。筆者もまったく異論はない。気になるのは「なぜ敗れたのか」と過去形で語っている点だ。せっかくの「元年」に、皆さんに諦められても困るので、焦ってしまった。
もちろん、負けてはならない理由はある。電子ブックが出版の未来であるとすれば、この敗北は(一世代を経ないうちに)日本の出版活動が衰退し、あるいは「グローバル」な企業にコントロールされることを意味する。つまり短期的な市場価値ですべて決定される可能性が強いということだ。これはすでに日本人の手によっても起きていることだし、逆に外国人の眼で、新しい価値が発見される可能性はある。外国出版社や外国の流通プラットフォームが日本で自由に活動できることは望ましい。しかし、日本の企業が国内市場やグローバル市場で活動することは、さらに望ましい。出版は文化の根幹(知識の継承)に関わることなのだから。出版は市場的にはたかだか数兆円の産業だが、様々な価値を扱う特殊なビジネスで、日本にとっての意味は(後述するように)はるかに大きい。
出版が負けていない理由:ゲームは始まったばかり
負けを認めるのは早すぎると考える理由もある。池田氏は「再販制度」という価格カルテルのせいで「アマゾンが電子版を紙の半分以下の価格で売ることはできない」と書いておられるが、価格カルテルは電子版に及ばない。したがって、電子本については別のゲームが可能だ。在庫リスクが解消された世界では、池田氏のようなアクティブな著者と、編集者・デザイナー、版元、書店と読者が新しい社会的・市場的関係をつくることが可能だ。これに検索広告プラットフォームや広告主をプレーヤーとして加えれば、多様で創造的な価格設定を行うことができる。期間によって価格を変えられるのはもちろん、日本では未発達の「ブッククラブ」をSNSとして育てることもできる。出版社が在庫コストや資産課税のリスク、再版の増刷コストから自由になる意味は大きい。
「自費出版」もこれまでと違う意味を持つ。たとえば、連日、活発な執筆活動を行っておられる池田氏は、毎月のように新刊を出すことも出来る。紙ならあり得ないが、出版社が1,000円の書籍を10,000部刷って毎月出しても印税は100万円。1,000円の電子本を50%の著者マージンで2,000人に売ったのと同じだ。しかもこれは書店から返本されて消えることはなく、著者の望むままに販売を何年でも(価格を変えて)継続することもできる。必ずしもアマゾンに頼る必要はない。バイラル・マーケティングが有効であったり、読者の顔がある程度見えるのならば、電子決済で直接販売すればいいからだ。電子書店を使うのはプロモーション効果に期待したり、販売保証してくれる場合に限ればよい。著者も出版社も「電子ブック」戦争の勝者になれる。中身と読者に集中できるからだ。
書店は電子ブックに対応できるだろうか。紙の本は生き残り、新刊書は一時期に大量複製の需要が見込まれるものに限られるようになるから、点数は激減するだろう。しかし、もともと新刊書は点数が過剰で回転が速く、単位面積当たりの売上には影響しないとみられるので、書店がそれによって失うものは少ないのではないか。そして新刊と古書を同じ店が扱うことで、利益率は高められると思われる。デジタル時代への対応としては、電子的な古書流通市場を整備することがあげられる。また、DPEのように、電子本のオンデマン印刷・製本という、本好きのための新しい需要が生まれることが期待される。
重要なことは、ゲームがリセットされることで、勝者になれる可能性は誰にも開かれるということだ。日本に知識情報の蓄積があり、需要がある限り、出版は必ず成長することができる。明治大正、いや高度成長期までのの出版人なら必ずそう考えたはずだ。
幻の「電子立国」にとっての「電子ブック戦争」
エレクトロニクス産業はどうだろうか。昨日はテレビのことを書いたが、出版にとっての再販制度と取次システムは、電子産業にとって最大のコンテンツ流通機構であった「テレビ」と「携帯」に相当すると思われる。インターネットによってこれらの絶対性が消失しても、意識は変わっていない。グローバルな「電子ブック」元年に参加するという責任も果たせなかった。しかし負けをあっさり認められても困る。
第1に、E-Readerはまだ生まれたばかりであって、性能も機能もビジネスモデルも、いわば幼児段階にある。本という「知識情報」のコミュニケーションに関わるデバイス(サービス)としては、実用性は十分にあるが「電子」としてのポテンシャルを生かすところまではいっていない。これ以上のものを考えられないとすれば、勉強が足らないのであって、現実に世界は「次」を目ざして動いている。電子ペーパー系の表示体もまだ伸びる余地があるし、タッチスクリーンなどの入力系も進化できる。Web動画の高速処理に最適化した半導体は最も期待される分野だろう。しかし、ユーザーと向き合わないで部品の供給だけに徹していては付加価値の高い技術の開発は困難だ。日本製のE-Readerは、すくなくともチケットとして不可欠なのである。
第2に、E-Readerは基本的に知識情報を修得し、操作するためのインタフェースでありクライアントである。それはWebサービスとコンテンツによって無限の用途が広がる。それには知識処理技術の標準もレベルアップしていかなければならないが、プラットフォームを狙うテクノロジーはこれから登場するだろう。ビジネスも、教育、医療、福祉、交通、防衛、そして研究開発も、知識情報のコミュニケーションを支援するインテリジェントドキュメント環境が21世紀の技術の中核となろうとしているのだ。これらの分野の競争はまだ始まったばかりであり、日本が参加できない理由も、無条件で敗北を認めねばならない理由もない。
第3に、公的需要が市場を牽引することができる。昨今、日本の「成長戦略」が問われているが、これが21世紀日本の最大の技術的挑戦ではないだろうか。まだ日本には人材も技術もあり、それに失業や人口減など、取組むべき「問題」にも事欠かない。欠けているのは、複合的な問題を解析し、総合的に解決するためのシステム設計とエンジニアリング。高度なチームコミュニケーションを可能にする知識情報環境だ。「電子ブック」はその鍵を握っている。もちろん、これまでの「電子政府」や「スパコン」など、技術とも政策目的とも無関係な破滅的浪費に終わらせないとしての話だが。
むすび
市場に関する池田氏の卓見はいつも傾聴しているつもりだが、筆者は市場(競争)を社会にとって有効に機能させるためには、規制と自由化を使い分ける政府の役割が重要だと考えている(さもないと規制緩和も一部の利権屋を潤わせるだけに終わる)。ただ、この劇薬の使用法を多数決に任せ、政治家に委ねるのは、池田氏が懸念されるように、非常に危ういことも事実だ。金融や教育、医療のように、本質的には工学的、専門的である問題に関して、主権者である一般市民が極端に誤った判断をしないようなコミュニケーションができるかどうかが問われている。筆者が「電子ブック」に期待するのもそこだし、その意味でこれはたんなる一産業の問題ではなく、日本の再生がかかった戦略的テーマだと思う。 (鎌田、01/10/2010)
関連リンク
「日本は電子ブック戦争に敗れ『た』のか?」 by 立入勝義、意力ブログ、1/13/2010
紹介:米国LAでE-Book事業を展開する立入氏から見ると、日本はやるべきことをやらずに、恐怖のあまり現実から目を背けている状態に映るようだ。まだ勝てる可能性はいくらでもあるし、まずは「開国」すべきことを説いている。黒船が見えただけで「負けた」というのはみっともない。
No related posts.
English
日本語 
(7 votes, average: 4.86 out of 5)







