デジタル時代の「自費出版」の意味
2010年 1月 25日
「日本は電子ブック戦争でなぜ敗れたのか」と書いた池田信夫氏が、ご自身のブログ(1/19)で「自費出版の時代」を書いて、電子「自費出版」によって著者と出版者の関係が変わる可能性を述べておられる。ここでは、筆者が指摘した、再販制度が電子出版には適用されない点や、著者の経済的メリットなどがそのまま「採用」されており、池田氏もこの戦争に参戦の意志を持たれたようで慶賀に堪えない。しかし、出版において印刷や書店が前提ではなくなった時代に自費出版の意味もまた問い直されている。この際考え直してみるのも無駄ではないだろう。
池田氏は「自費出版の最大の問題は、ブランドである」という。そして、玉石混交のタイトルが並んでいても買い手は判断できないので、「これを審査するレフェリーをつけた電子出版プラットフォームができれば、手数料を20%とるだけでも十分ビジネスになる」として、「問題は技術でもコストでもなく、出版業界の秩序に挑戦するベンチャーが出てくるかどうかだ」と勇ましく続けるのである。思いつきとは思えないので、検討に値する。筆者の見るところ、さしあたって問題は3つ。(1)「自費出版」とは何か、(2)「レフェリー」とは誰か、(3)「ブランド」とは何か。
出版とはどういう行為か?
(1) 出版 (publish)が何を意味するか、ということは、デジタル時代にあっては必ずしも自明ではない。仮に出版とは「知識・情報を社会的に共有するために、出版物の形態にパッケージ化し、公衆が入手できるようにすること」としておこう。このプロセスの主体が奥付に印字された「発行人」だ。著者が誰であれ、出版においては発行人が出版物についての公的責任を著者と連帯して負う。つまり、それが社会にとって何らかの意味を持つと信じ、そこに表現されている知識が新規性を持ち、内容も正確であることなど (品質保証)を、職業的良心にかけて表明するということだ。内容に新味がなかったり、自説の根拠を示さず、検証を怠っていたら、出版者も恥をかくだけでは済まないかも知れない。製造物責任は出版者にもあり「自費」出版の場合は、著者自身が発行人となって全責任を負う。
紙の場合は、商業出版と自費出版は(著者買取などを除けば)かなり画然と分かれており、自費出版とは、執筆以降の<編集・デザイン・印刷・製本・販促・流通>で構成されるプロセスの費用を著者が負担することを意味する。デジタルでは、印刷・製本の代わりに、オーサリングという作業が入るが、編集・デザインを含めて、コンテンツの作成までは自分でできないこともない。販売は自分のサイトに置いてもいいし、アマゾンなど販売代行の第三者に任せてもいい。自費出版において「発行人」たる著者の費用負担は、主として編集作業ということになる。そして編集も自分で行うのであれば、自分の時間以外にコストは要らない。ブログのように(あるいはその上で)金をかけずに出版し、アフィリエイト広告や寄付、代金を回収してもよい。しかし、商業出版では、著者と読者との間に出版社という経済行為の主体としての第三者が介在することで暗黙の前提としてよかった「社会性」の担保が、そこには欠けている。だから、実績のない著者=出版者が自費出版物の商品価値を認めてもらうことは簡単ではない。では「レフェリー」にそれができるのだろうか。
出版物の価値を判定する「レフェリー」とは誰か?
(2) 「レフェリー」はおそらく査読者のような役割が期待されているのだろう。それは著作物の評価に関する一定のルールが共有され、レフェリーの見識と中立性に疑問の余地がない場合であれば成り立つかもしれない。学術論文などの場合には、理系・文系を問わず一定の審査ルールがあるが、それでも何の新規性もなく、挙証責任を果たさず、参照文献の選択と利用もいい加減な、つまり「社会性」において問題のあるものが少なくない。人間が審査を行う限り、ルールよりは情実、社会よりは「世間」が優先されるのは通例だ。まして、たとえば経済学などにおいては、立場が違った出版物に関して「客観的」な判断を示せる人はきわめて少なく、「ゴミ」扱いしかねない。
「レフェリー」は発行人のような責任をとれないし、粗削りだが光るものがあると思われるものを丁寧に読む時間もない。たいていは書評のような「印象批評」的なものとなるだろう。するとそれは新聞の書評と変わるところが少ない。とても20%の手数料を主張できるようなものではないだろう。結局20%の「審査料」よりタダの「人気ランキング」を選ぶ自費出版者のほうが多いのではないかと愚考する。ナマの人間が絡むと市場は複雑だ。市場原理は部分的にしか成立しない。
出版は社会を相手に知識・情報を広げようとする行為であり、その「意味」を問う行為である。それは「当為」つまり一種の自己実現でもあるので、出版は市場とは別の原理で動かされる部分が大きい。池田氏の著書より「細川ふみえ」さんの写真集が高価で多くの価値を実現したとしても、その「意味」は違うものだ(と思う)。
出版は編集者が設計し、発行人が監督するプロジェクト
(3) 出版という行為におけるブランドは「発行人」以外のものではあり得ない。「レフェリー」がブランド化するとすれば、それが「発行人」としての責任を負う場合だけだ。出版とはたんに情報を公表する行為ではなく、社会化する行為だからである。レフェリーがブランド化するならば、それは出版社と変わらない。世に出すべき著者を選び、テーマについての対話を繰り返し、内容を磨き上げ、進捗を催促し、励まし、ミスや勘違いを正し、読者に配慮したデザインを行い、図版や索引を整備し、完成品に仕上げる。そこにおいてしか20%の手数料は正当化されないだろう。
忘れてならないのは、自費出版でも商業出版でも、紙でも電子でも、編集が決定的に重要だということだ。とくにデジタル時代においては、編集者とは、出版という社会を相手とした知識工学的なプロセスを完成させてくれるエンジニア、そしてプロジェクト・マネージャーでもある。編集という重要なプロセスを省いた出版はブログと変わらない。
編集を社会化するために、例えばオライリーの著者たちは、草稿を公開し、読者の疑問や注文、提案、訂正、補足などに答えながら完成させていくという透明性の高い方法を実践している。cloud (雲)の上のレフェリーではなく crowd (衆)の知恵を集めながら仕事を完成させていくという方法は、確かに読者の知的水準が高くないと成立しないかもしれないが、そもそも知識を社会化するということの基本は、コンテクストを共有し深化させていくことであり、オライリーはそうした自覚を持っているということなのだろう。筆者は、出版のテクノロジーを、社会のコミュニケーションを改善するために使っていきたいと考えている。もちろん、商行為として行うビジネスも「ベンチャー」も市場も重要な役割を果たすが、それは手段以上のものであって欲しくない。 (鎌田、01/24/2010)
参考
「日本は電子ブック戦争になぜ敗れたのか」 by 池田信夫、ASCII.jp、1/6/2010
「日本は『電子ブック戦争』に勝てる」 拙稿、本誌、1/11/2010
「自費出版の時代」 by 池田信夫、ブログ、1/19/2010








