新聞有料化の可能性:情報と広告の間
2010年 1月 29日
新聞は、紙でもWebでも、情報でも広告でも収入を得たいと考えている。しかし、そんなことは可能だろうか。広告における「スペース」価値が崩壊し、読者とのコンテクストは検索エンジンに吸引される。他方で感度の高い読者はユニークな情報だけを求める。そうした時代にメディアとしての一体性を維持するのは可能だろうか。
記事リンク
「米紙サイト有料化大コケ? 日経『電子新聞』不安な門出」 J-CASTニュース、1/28/2010
ビジネスとしての新聞の矛盾と統合力
上記の記事に見られるように、米国で新聞有料化の苦戦が伝えられている。ニューヨーク(ロングアイランド)の日刊紙NewsDayは、スタートして3ヵ月間でWeb購読者わず か35人という数字に衝撃を受けているが、それはどこでも同じだろう。Wall Street Journal など、他紙と違う専門的情報源と分析力を持つメディアは別として、全体としての漠然としたブランド価値を売ってきた新聞が料金を取ることなど不可能なよう に思える。ビジネスとしての新聞が持つ矛盾(情報と広告)に対する新しい回答が必要になっている。なぜ読者は(広告の多い)新聞を購読する必要があるの か。なぜ広告主は、無意味となった広告スペースを購入する必要があるのか。こうした問いに答えられないと、ビジネスとしての明日は見えない。
Webの有料化が問題になっているが、そもそも紙の新聞にしたところが、購読 (情報の販売)と広告 (スペースの販売)が矛盾なく「両立」していたとは考えられない。単純に言って、購読モデルは読者にとって有用な情報を販売することを意味し、広告モデルは、広告主が読者にアクセスし、メッセージを届けるスペースを販売することを意味する。その限りでは何も問題は生じないかに見えるが、新聞が販売する情報 (報道)は広告主のビジネスに大きな影響力を持つから、広告主はスペースを購入することにより、報道をも間接的に購入したい動機を持ち続けることになる。読者数に上限のある新聞が利益を最大化するためには、スペース収入を最大化しなければならず、潜在的に「報道」が広告において市場化するのは避けられない理由があった。
報道を「市場」化しても、ただちに問題が生じるわけではない。競争的市場では、広告主が社会の利益に反する行為に走る可能性は多くないし、選挙で選ばれる政府にしても同様だ。だが、真実に迫る報道を怠り、リスクを取りながら真の問題を発見し解決を議論する場を放棄するなら、発信する情報は意味を失っていく。最も広告の多かったトヨタは、膨大な広告費で得た成功の「ツケ」をいま自ら払わされている。苦い報道は、短期的にはマイナスだが、長期的な企業の健全性を確保するためには役に立つ。そうした報道が機能しなくなった社会は、警報装置を外したプラントのようなものだ。日本の「大企業」社会が、全体として一気に没落したのは、理由のないことではない。
Webにおいて「発行部数」は意味を持たない
Webの登場によって新聞が直面したのは、たんに有料読者を無料のWebに奪われたことではない。メタ広告プラットフォームとしてのGoogleが登場したことで、情報の販売と広告の販売を同時に行うモデルの根本的矛盾が表面化したことだ。Webではレスポンスを伴わない「発行部数」など無意味であり、広告主は「効果」を求める。Web広告では新聞はほとんど利益を得られない。読者とGoogleを利用する広告主が利益を得る。しかしWebで手を抜いて情報の価値を落とせば、忠実ではない多数のWeb版読者の離反を招くことは確実である。
新聞にとって次に深刻な問題は、Webにおいて情報は容易に比較・評価されるということだ。筆者はかつて20年余りの間、10紙あまりを購読して比較能力が身に着いたが、Webではさらに簡単にできるようになった。比較可能世界では、同じ情報は意味を失い、ユニークなものだけが価値を持つ。情報源も論調も同じなら、有償で購入すべき動機はまったく生じない。皮肉なことに、有料の紙ではなく無料のWebにおいて、読者はメディアのブランドではなく「情報の価値」で選択できるようになったのである。少なくとも、紙とデジタルの差の少ない米国では、読者は情報に対する感度を自然と高めることができた。ジャンクフード・メディアで満足できる人々は、もともと新聞など読んでいない。
で、新聞の有料化は可能だろうか。これまで新聞は安定した「発行部数」で表現される読者の購買力を比較優位の源泉としてきた。ブランド価値といってもいい。しかし、デジタル時代はメディアよりも個別の情報価値のほうが重視される。しかも、読者も広告主もそう考える。読者は情報を個別に評価し、評価情報を共有することでそれを広めるから、媒体を問わず、独自性のある記事にアクセスが集中する。読まれた記事と無視された記事は一目瞭然になっている。メディアはこうした透明性にまったく慣れていない。ほとんど2世代にわたって「ブランド」で商売をしてきたからだ。Webで新聞が利益を上げることは「ラクダが針の穴を通るよりも」難しいかもしれない。
ブランドではなく情報価値 (独自性+立証可能な品質)
まず、従来のビジネスモデルとの両立は不可能だろう。これからの読者は、基本的に3つに分かれる。新聞がニーズを満たすことができなければ、「新聞」としての形態は必然性がなくなる。
A. 質の高い情報に選択的にアクセスする読者
B. ジャンクフードで用が足せればよい読者
C. 特定分野について質の高い情報を求める読者
多くの人間は Cに属するだろう。他方で、広告主にとっては、情報に関して具体的な指向性を持つAとCが最も重要で、B層の読者より高い価値を持つことになるから、ここでも売れる情報はどちらからも歓迎される。記事に対する広告主の影響を一部読者が懸念すれば、購読を忌避する可能性が強い。NPOモデルが有効なのは、こうした読者に対してだろう。
単純には専門メディアが最もよく対応するわけだが、総合性、網羅性、一覧性を売り物にしてきた新聞にとっては適応困難な環境と言える。長所が短所に変わり、マイナーな専門メディアが高い効率性を発揮できる。新聞はそれらをシンジケート化することで対応できるが、いずれにせよブランドより「情報価値」が厳しく評価される。Webによるジャンク情報の氾濫の先には、「情報価値」による一定の秩序が生まれる、というのが現在のところ成り立つ仮説ではないか。
日本のWeb情報環境は、米国とはかなり異なる。ジャーナリズムというものがプロフェッショナリズムとして未成熟な中で、新聞=TVがメディアビジネス複合体として総合性を発揮し、報道・娯楽を支配して批判無用の閉鎖的環境を成立させてきたからである。単純にWebへの進出はマイナスにしかならないから、Webを軽視してきたことは正しい。印刷物という実体を伴わないデジタルコンテンツの有料化は、比較にならないほど難しい。Webの世界では自己宣伝は効果が薄い。
- 何が情報なのか(何を伝えないのか)
- 何を情報源とし、どのように伝えるのか
- その情報によって何を求めるのか
これらのことに対する「説明責任」を果たせないと、読者はお金を払ってくれない。結局、消費者が新聞を離れ、印刷と配送を維持することで両側から取る<購読+広告>のビジネスモデルが維持不能になるまで、新聞は本気で動くことはないだろう。それでも読者は構わない。情報へのニーズがある限り、そのうち専門のメディアか外国メディアがそれを満たすことになるだけだから。 新聞がビッグビジネスとして継続できるかどうかよりも、その社会的役割がどのように継承されていくかのほうが重要なことは確かだ。 (鎌田。01/29/2010)





