NPOジャーナリズムの可能性

2010年 1月 26日

米国では、ジャーナリズムが企業から相対的に独立した「プロフェッショナリズム」として存在している。少なくとも会計士や医者・弁護士やシステムエンジニアと同じ程度には「公共的価値」を扱う職能として認められているわけだ。新聞の崩壊が言われて数年、その国で「非営利ジャーナリズム」が注目を集めている。この分野のシンクタンクやブログでの情報をもとに可能性を考えてみたい。

新聞ビジネス:バリュー・プロセスの再構築か分裂か

印刷と配布、あるいは放送というシステム設備から出版が自由になったことで、多くの可能性が生まれ、同時に旧システムを優位の源泉としてきたメディア産業に深刻な影響を与えている。メディア産業は情報の「大量配布」のネットワークを保有することにより、「価値ある情報」の提供者としての権威を維持し、それにより「マス広告」を収入源とすることができた。デジタル化により、メディア産業の「メディア」性が問い直されることになった。「価値ある情報」とは何か、それを誰が決めるのかということだ。

これまでで最も影響が大きかったのは、やはり新聞だろう。高速輪転機と配送ネットワークという高度に完成されたシステムが、大都市圏における「価値ある情報」をほぼ独占してきた米国の大新聞だが、「読者×情報=広告」という公式を、Webの検索エンジンというメタなロジックを駆使する異星からの侵入者Googleによって簒奪されることで一気に揺らぎ始めた。皮肉なことに、Webにおいても大新聞の情報は大いに活用されており、「価値ある情報」の座が、Demand MediaAnswers.comのような、いわゆるファストフード(ジャンクフード)メディアやブログなどに奪われるといったことはないのだが、広告という最大のキャッシングメカニズムと結びつくチャネルを横取りされたことで、ビッグビジネスとして窒息しような思いをしているわけだ。このままでは情報の価値を保つことも困難になる。とくに印刷の経済的優位が完全に消滅するのが時間の問題であるとすればそうだ。

この事態に対し、いまわれわれが目撃しているのは、新聞をWeb上のプラットフォームとして再構築することにより、検索エンジンにインターセプトされずに「読者×情報=広告」のサイクルを取り戻そうとする動きであり、そちらは日本のメディアも固唾を呑んで見守っている。2世紀を支配した恐竜たちの反撃で見応えがある。しかし、もう一つの動きがあり、これは別の意味で無視することはできない。

ジャーナリズムにおける非営利の力

非営利ジャーナリズム (non profit journalism) という新しいタイプのメディアが登場しつつある。こちらは「価値ある情報」を、その配信手段(とそれにまつわる副業)から独立させようというもので、ジャーナリストあるいは「ジャーナリズム」の価値の信奉者によって進められている。「非営利」を侮るなかれ。米国では大富豪が支援するリッチな非営利の財団がいくつもあり、企業にはできない活動を行っている。ビル・ゲイツ氏やウォレン・バフェット氏が個人資産の1%を寄付しただけで、とびきりのジャーナリストを多数擁するプロフェッショナルなチームが編成できる。もともと欧米の大新聞は、社会 (政治・文化・教育) への貢献意識の強い都市富裕層によって支えられて成立した。ジャーナリストは貴族的専門職でもあったのだ。再出発を期して原点に回帰する動きかもしれない。

どれほどリッチか。Bay Area News Project (BANP)のCEO、ライザ・フレージャー女史 (Lisa Frazier)のサラリーは40万ドル。ProPublicaのポール・スタイガー氏 (Paul Steiger)は57万ドルを得ている。これはメディアでも話題にはなっているようだが、そもそも貧乏ではジャーナリズムは続かないし、取材対象からも軽くみられる。金と暴力から身を守るには先立つものが必要だと考える方が自然なのだろう。だから、非営利ジャーナリズムを(筆者のような)貧乏ジャーナリズムと混同すると間違うことになる。

BANPの編集長には、NewsWest.net のジョナサン・ウェバー氏 (Jonathan Weber)が就任したが、このことが話題になっている。ウェバー氏は1年ほど前、非営利ジャーナリズム、いやそもそも新聞が「情報」の価値を決定する時代は終わったのではないか、という問題を提起していた。雑誌や書籍、ブログ、Webサイトが提供するデジタル情報の中で、何が「情報」であるかを決めるのは読者でしかないのではないか、というのだ。ウェバー氏が非営利ジャーナリストに転向」したのはなぜだろう。

原理的にジャーナリズムは「公共善」のために機能することになっている。日本で言う「社会の木鐸」というものだ。しかし、営利か非営利かということで言えば、非営利のほうは、「公共善」の側から情報価値にアプローチし、営利のほうは「市場」の側からアプローチすることになる。どちらも「独善・私利」の弊害から免れてはいない。非営利モデルはイデオロギー的に社会を観る可能性があるし、営利モデルは、読者の覗き趣味やスポンサーの意向に左右される。少なくとも、政治、企業、技術、教育、芸術といった分野については、「公共善」がきわめて重要で(いくら編集が経営から独立していると言われても)大手新聞に公と私、真と利の判断をすべて委ねていられる時代ではない。それどころか、記事と広告との関係を明示することが義務化されつつある(「家電芸人」はアウト)。他方で、スポーツやエンタテイメントでは営利=広告モデルが十分に有効で、非営利のジャーナリズムへのニーズは多くない。

非営利ジャーナリズムはに直面すると、新聞ビジネスはさらに厳しい問題に直面するだろう。ビジネスとしての新聞は年6%の株主配当を期待される事業であり、そうした立場と「公共善」を代表する立場との矛盾を抱えたまま持続するエネルギー(あるいは慣性モメント)が衰弱しているからである。記者のクビを切って野に放てば、非営利ジャーナリズムやファストフード・ジャーナリズムが受け皿となって彼らを苦しめる。それでも、米国の新聞には、ビデオニュース事業という新規事業が可能だ。Wall Street Journalのビデオニュース・サイトはかなり充実している。やがてTVが代表していた放送ジャーナリズムの座を脅かすことになるだろう。

いずれにせよ、デジタル化がもたらした「価値」と「ビジネス」の流動化現象は10年単位では止まりそうもない。 (鎌田、01/26/2010)

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