出版におけるコンテンツ、本、E-Book

印刷と不可分だった「出版」がデジタル化したことで登場した「コンテンツ」という言葉は要注意だ。欧米の出版社は「ハードカバー→ペーパーバック→E-Book」という順序の階層を考え、二級市民であるE-Bookが上級市民=ハードカバーの邪魔をしないように発売時期と価格設定を操作しようとしている。E-Bookを同一コンテンツの劣った姿であるとしているわけだ。しかし、出版を付加価値を提供するプロセスとして考えると、印刷製本で実体性を付与された本と、再生装置に依存する電子データに過ぎないE-Bookとは、映画とビデオ、コンサートとiPodくらいに違うように思われる。

文化装置としての製本から本を考える

本とE-Bookの位置関係を考える上で、物理的な本のほうをいま一度考えてみる必要があると思われる。手掛かりとなるのは、書店にある大量複製された普通の本とリーダで読むE-Bookの中間に登場してきたEspresso Book Machineのようなオンデマンドの製「本」機 だ。これはE-Bookをダウンロードし、数分で印刷本に変えてくれる。

多くの人は印刷 (ink on paper)と製本(book binding)を一緒に考えるが、これは一面的な見方だ。機械的な製本 でない製本工芸をフランスではルリュール (reliure)と呼び、60の工程が定義されている。古くなった本を解体して再生するのが主な仕事だ。 出版と印刷は兼業できても、製本はできない時代があったのは、本の再生・保存に関わる専門技能を保護するものだったのだと思われる。E-Inkによって印刷は電子化されても、「本」そのものが電子化されることはない。小林龍生氏(スコレックス)は、本の解体と再生という実験を通して、このことを発見し、「複製を困難にする制約と物神性の担保という異なる側面を併せ持つ《製本》という行為は、こう考えてみると、実に巧妙な文化装置だったわけです。いやはや。」 と述べている (『書物の解体新書』10/18/2007、出版学会・デジタル出版研究部会・発表資料)。昨今、本をバラしてスキャンすることが一部で流行っているようだが、物神性を奉じて育った筆者などは、“生体解剖”のように響く。こんな蛮行が不要な世の中に、早くなってほしいものだとつくづく思う。

こうしてみると、デジタル化によって浮上した「コンテンツ」というものを理解していない出版社や学者の存在が気になってくる。本はコンテンツと再生装置が一体になったものなのだ。それは印刷され、製本されることで生命を得て本となる。この再生装置は、オーディオと同じように、高級品もあれば普及品もある。普及品はコンテンツを消費する道具で、高級品は器という違いだ。iPodもKindleも、再生装置をユーザーに負担させる以上、付加価値のないナマのデジタルデータが安いのは当然、という理屈が成り立つだろう。しかもE-Bookは消費すべき情報ではあっても保有すべき本ではない。E-Bookは知識情報の消費を加速化させながら市場を拡大する。そうした意味では出版社にとってじつに有り難いもので、数年もすればデジタル化に反対したことすら忘れてしまうだろう。だが消費財となれば「物神化された知識」としての本のアウラを失ってしまう。筆者はそのことの方を恐れる。

本とE-Bookの創造的共存:所有と消費

音楽産業は消費財化を加速させることでアウラを失い、市場をも荒廃させて失速した。市場(金銭)になじまない部分こそが創造性の源泉なのだが、高度な市場化方法論(マーケティング)とデジタルネットワークがキャッシングを高速化したためだ。本は工業製品でもあるが、アウラを持った工芸品でもある。複製されたページを「製本」することで、一つの完成品にも生き物にもすることができていたからである。じっさい、本の歴史は印刷の4倍は古い。くどいようだが、ページは本ではない。本の「コンテンツ」というのは一種のイデアとしての本であって、印刷されたページでもなければ、ましてデジタルデータでもない。だから本とE-Bookとはまったく別のメディア、別の商品として考えるべきだ。そうすれば、両者の共存が見えてくるのではないか。

21世紀の出版とは、次の2つの方向で提供されるように思われる(下の図を参照)。すなわち、

  1. デジタルデータとなったコンテンツを、E-Readerに流し込んで「電子ページ」として表示し(静的ドキュメント)、あるいは対話的な操作を行うもの (動的ドキュメント)として消費可能にする方向
  2. 紙に印刷し、製本によってページを一体化することで、多少とも情報を超えた物神性を有する「アウラを放つ実体」として構築するという方向。簡易製本からルリュールまでの幅がある。

という2つがあり得ることになる。乱読・多読の人はデジタルのままで十分だろうが、愛書家は(アレクサンドリアプトレマイオス2世ではないが)価値ある本を自分のものとして所蔵できないことには我慢がならない。多くの人はその中間で、「コンテンツ」をその軽重と用途で分類し、かつ消費し、かつ所有することになるのだろう。 (鎌田、02/15/2010)

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