『キンドルの衝撃』(毎日新聞社)の著者、石川幸憲氏のインタビューが J-CASTニュースに載っている。石川氏は在米のジャーナリストで、AP通信記者、TIME誌特派員などを経験し、Web登場前後の米国の新聞業界の変化を内と外から見てこられた。「ジャーナリズムの王国」であった米国新聞界が、地域広告モデルの崩壊によって経営危機に陥り、逆にWebでの再建を模索する段階で Kindleや iPadという「オンライン・キオスク」ガジェットが登場してきたわけだが、その「衝撃」の先は見えていない。畢竟、それはジャーナリズムの外にある。
参照記事
「米国の新聞が『読者離れ』を起こした理由」-石川幸憲氏に聞く『キンドルの衝撃』」 (上) J-CASTニュース、3/24/2010
「2010年はメディア大変革の入り口」-石川幸憲氏に聞く『キンドルの衝撃』」 (下) 3/25/2010
とても参考になったが、ややズレたインタビューでもある。テーマは<新聞 and/or ジャーナリズム>で、石川氏はそれを聞く相手として申し分ないのだが、『キンドルの衝撃』とはあまり関係がない。いまのところKindleと新聞との関係はきわめて薄いからだ。iPadは現行世代の Kindleより大きな可能性があるが*、それは(巷間言われるように iPad にではなく)記事の価値を最大化するアプリケーション、記事にアクセスする人間の広告価値を最大化する仕掛けに依存しており、秘密裏に研究開発されている技術やノウハウが簡単に出てくるはずもない**。だから、石川氏の話で興味深いのは「衝撃」のほうよりも、それ以前のほうとなるのはやむを得ない。つまり新聞だ。
“世界遺産”としてのジャーナリズム
米国の新聞ジャーナリズムは建国神話の一部であり、一種の世界遺産といえる。神話は神殿があり祭司がいて、祭祀を絶やさず社会のために祈りを捧げ、信者を再生産することで生き続ける。神話の真の敵は商業主義だが、神殿はお布施だけでは維持できない。一方で商業主義は神話を利用することで唯一のゴールである利益を最大化できる。神話を侮っては罰が当たる。「社会」という、人間にとって不可欠な非市場的価値は、神話がないと維持できない。ジャーナリストは、医師、教育者、弁護士、会計士などとともに、市民「社会」の維持に不可欠な職業(profession あるいは vocation)なのだ(と思う)。彼らが利益を第一に考え始めたら、「社会」は確実に崩壊する。「孟子曰く、王何ぞ必ずしも利を曰わん」*** である。(写真は、印刷工、記者、新聞発行人、図書館長、郵便局長、発明家、政治家にして合衆国独立宣言起草者の一人、ベンジャミン・フランクリン氏を刻した100ドル紙幣)
いずれにせよ、神話性と商業性という2つの対立する原理を、米国の新聞業界はじつにうまく制御してきた。人材供給のために大学にはジャーナリズム学科があり、ここでは技術だけでなく、奉仕すべき非市場的価値について教えられる。新人はまず通信社で鍛えられ、新聞社で一人前となり、その後「フリーランサー」として独立して新聞や雑誌、放送など、ジャーナリストを必要とする業界と契約して活躍するが、それはさながら中世の騎士のようだ。長弓隊や足軽鉄砲隊が登場する以前の。この合理的であり理想的でもあるシステムが崩壊したのは、新聞の多くが「上場企業」の傘下となって年6%以上の配当を要求される立場となったこと。そして新聞のビジネスが、じつは神話性と関係の希薄な、印刷と配布による地域広告という非常に脆弱な基盤の上に成り立っていたことだ。広告なしで新聞は(商業的に)成り立たないが、広告は新聞でなくてもできる、ということは新聞の中にいると理解できないことだったのだろう。
石川氏の言うように、米国の新聞は、むしろ自信を持ってWebの波に身を晒し、そして壊滅的打撃を受けた。このあたりの事情は、日本とまるで違うためにあまり理解されてこなかっただけに(残念ながら未読の『キンドルの衝撃』で語られているようだが)とても価値がある。有力新聞ビジネスによる共同のニュースアグリゲータ (NCN)のような先進的モデルが1995年に構想・実験されたように、アイデアはすべてあったが実行できなかったという指摘は、日経新聞が同じ轍を踏んでしまっただけに貴重だ。
崩壊したのは伝統的広告モデルであってジャーナリズムではない
しかし新聞の凋落は、社会がジャーナリズムを必要としなくなったからでも、信じなくなったからでもない。Webでは相変わらず新聞はよく読まれている。新聞を読まずにリーダーとしてまともな仕事はできないだろう。しかし広告収入は新聞社にはあまり集まらない。少なくとも彼らが必要とする額は。現在のWeb広告手法では、という但し書きを付けるべきだが、多くの人がパニックに陥って、「編集権の独立」とか「調査報道」など時代遅れだと叫ぶのは心が痛む。彼ら誇り高い騎士たちは、ファストフード・メディアの足軽たちに仕留められたのではなく、GoogleやClaigslistのような網や馬防柵で馬が突進できなくなったために馬を下りざるを得なくなったのだ。網や柵を恨んでも仕方がない。(写真は「言論の自由」の父にして合衆国第3代大統領トーマス・ジェファーソンを浮彫した5セント硬貨)
石川氏は「読者が忙しくて新聞を読む時間がなくなり、読む人や興味が変わっているのに、新聞が変わっていない」というワシントン・ポスト紙のウォルター・ピンカス記者の言葉を引用しているが、それは違うと思う。読者が変わったのではなく、
- 新聞を読む時間を「惜しい」とは思わない階層(つねに少ない)の広告市場での評価が毀損し
- <情報の価値を評価できる読者> and/or <少数読者の価値を重視するシステム>が失われ
- Webの情報世界の中で流れる情報の価値と広告との関係が切断された
のだ、と筆者は考えている。かつては少数読者は知識人あるいはエリートとして影響力を持っていた。現在は専門家となり、さらに市場経済の中で職業的能力の<市場価値>を実証しなければならない存在となっている彼らが、市場からの相対的自由を獲得しない限り、ジャーナリズムも復権もない。<市場価値>には四半期決算に敏感に反応する株式相場以外に有効な評価手段がないからだ。
新聞ビジネスの課題はWeb上の高度な広告モデルの開発のみ
現在の広告はまだマス時代の発想のもとにあって「数」の論理を重視するが、ジャーナリストが「数」の論理を重視したらもはやジャーナリストではない。彼らが祭祀を止め、神殿を使った広告業と不動産業に変われば、存在価値などない。石川氏は「2010年がメディア大変革の入り口」にある、という。筆者も賛成だが、以下には少々異論もある。
「新聞は「マス」の世界、だれでも読む新聞、不特定多数を対象とした媒体から、「読者の質」の世界に変わっているのではないでしょうか。」(石川氏)
もともと英米の高級紙は「読者の質」を重視してきた。だから「高級」なのだ。そうした読者が読む新聞だからこそ、彼らを尊重する「不特定多数」が読んできた。New York Times や Washington Post、Wall Street Journal が同じ「事実」を報道し、同様の分析を載せ、同じ主張をすることなど考えられない。質を求めれば「異」を求める必要があり、数的成長には限界がある。読売新聞は「世界一」の新聞だが、世界一の影響力を持っているわけではない。米国の新聞が変わっていくとすれば、情報における「数から質へ」ではなく(それを今やっているのはCNNやAOLなどWebのほうだ)、広告モデルの転換(読者の質に応じた価値最大化)なのである。ジャーナリストの石川氏は、あまりにジャーナリズムの側面からのみ見ていると思う。筆者は門外漢だから、社会の医者たるジャーナリストが「情報で金儲け」の心配をしなければならない事態こそ心配している。(図版は竜を退治する騎士として描かれたゲオルギウス=15世紀ボヘミア派の絵画)。
ジャーナリズムの社会的価値は、このかんの(詐欺的経済の拡大による)金融恐慌と不況によって(逆方向で)証明されている。新聞は「エンロン」も、「対テロ戦争」も、「サブプライム・ローン」も止められなかった。とくに後の2つを止められたら、世界人類にとってどれだけの損失を止められたかを思わずにはいられない。違法建築を見逃した「建築士」や「検査機関」と同じように、「ジャーナリズム」をそのままキャッシングすれば自殺行為になるだろう。「数」の力によって、時に市場も国家も暴走する。それを止めたり、崩壊しかけた社会を再建するのは、情報とコミュニケーションの「質」しかない。日本は現在、ジャーナリズムが必要な時代を経験しているし、中国やインドもいずれは知るだろう。やはり米国のジャーナリズムは「世界遺産」なのだと思う。(鎌田、03/27/2010)
注:
* Kindleは本に最適化され、iPad は新聞や雑誌に最適化していると考えがちだが、新聞の場合、PCやネットブックは捨てがたい。WSJやFTはすでにガジェットを超えたビジネスモデルを掴みつつあると思う。いずれにせよ、ガジェットに新聞の未来がかかっていると考えるのは愚かである。
**米国のWSJと対をなす英国のFinancial Times紙のManaging Director、ロブ・グリムショー氏は、下記のインタビューで、信じがたいほど自信に満ちた調子で好調な現状を語っている(Sakakibara さんに感謝)。おそらくFTはそうした「情報の質(差異)×読者の属性=広告価値」を実証するノウハウを発見しつつあるのだろう。同氏が、ウォーリック大学という英国では新設の国立大学出身の新しいテクノクラートで、入社10年で経営幹部に抜擢された非ジャーナリスト系の人物である点にも注目したい。
「新聞の電子化、課金で攻めるFTに不況なし-FT.com発行人が語るメディアの明るい未来」 by 川嶋 諭、Japan Business Press、3/15/2010
*** 「何ぞ必ずしも」は “must not” (強い禁止)の語調。筆者も若い頃は孔孟を軽んじ、老荘流や法家流を受け売りしていたが、年をとるにつれて「社会」とか超時間的「価値」が意識されるようになってきた。最近では放任やムチやニンジンでは価値ある創造はできないと信じている。
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