『週刊ダイヤモンド』が60ページの4月6日号大特集「電子書籍と出版業界」(仮題)の制作を中止したという情報は、かなりショッキングな話題だ。池田信夫氏のブログなどによると、編集はもちろん、営業でもなく、純粋に「経営」の判断で中止が決定されたとのことで、どんな「経営」なのかと思ったら、大手銀行の広報マン出身とのことだった。これはこれで「フタをする」ほうのプロではあったわけだ。差し替え先は同社の定番「ドラッカー」のようだが、泉下のドラッカー氏が知ったら何とおっしゃるか。
「電子書籍と出版業界」(仮題)大特集中止事件
同誌は『週刊東洋経済』と並んで好調を続けていた。これは不振の雑誌業界の中にあって情報の価値を評価されていたもので、非常に貴重なことと言わねばならない。その編集部が取組んだ大テーマを潰されたのだから、関係者の想いは察して余りある。日本のメディア史に残る今回の大事件は、先に発足した「電書協」の設立に出席した鹿谷社長が、何かに過剰反応して暴走したようだ。それが何だったのかを詮索しても始まらない。それを止められなかったことで、同社の歴史に汚点を残してしまったわけだ。今回の事件の意味は、次の疑問を提起した点で、日本全体の問題でもあると思われる。ダイヤモンド社でさえ起きたことが、他のメディアで起きていない保証はないからだ。
- メディアに対するジャーナリズムは、日本において成立しえないのか?
- 自己について客観的になれないメディアが、社会を客観的に語れるのか?
- 出版社において「読者=社会の関心」以上の価値とは何なのか?
- 「編集権の独立」がないところで「言論の自由」は存在するのか?
- メディアは「説明責任」を持たないのか?
メディアビジネスとジャーナリズムというのは、そもそもかなり矛盾を抱えている。とくに現在のように、メディアビジネスの経済的基盤が揺さぶられている時に、社会的判断よりも業界的配慮を優先したことを非難できる業界人は(それがこの国の平均的行為であるとすれば)そう多くないだろう。ただ、こういう時こそ「ジャーナリズム」が問われているわけで、その真価を立証すべき機会を葬ったことは同社にとっても残念なことだった(過ちを改めるのにまだ遅くないかもしれないが)。
鹿谷社長は何に怯えたのか?
鹿谷社長の判断は、ある意味で典型的な「小役人(広報マン)風」発想だ(以上は差別的発言です)。彼らが畏れるのは伝統的な「世間」であって近代に発明された「社会」ではない。編集部の渾身の「電子書籍と出版業界」特集は、現代の社会的要請に応えるべく企画され、取組まれた。他方で「世間」の人である鹿谷社長は、社内的に泥をかぶることを覚悟で、これを阻止することが「会社」のためになると勇を鼓して判断しされたのだろう。社長の判断が異常ではない証拠には、この問題を正面から取り上げたメディアがほとんどなく、『週刊東洋経済』の「新聞・TV」特集でさえ発行部数(「押し紙」)問題にはついに触れられなかったように、ジャーナリズムの業界においてさえ「社会」は軽く「世間」は重いのだ。ふだんは「日本的あいまいさ」でバランスをとっているが、歴史的転換期には、原則がないと対応できなくなる。
もう一つ、「電書協」の何か(誰か)が鹿谷社長を怯えさせたかが気になる。問題になったのは「電子書籍」部分ではなく「出版業界」を扱った約30ページであったという。取次も取材に協力しているということなので、取次もシロとすると誰だろう。影に怯えたのか。それとも「言論封殺」事件なのか。信頼できる情報を待ちたい。
今回のような事件があると、メディアに対するメディア(アウトサイダー)である本誌の役割がますます大きくなっているのを感じる。メディアに対してもプロとして公正な姿勢を貫かれているジャーナリストは少なくないはずだから、本誌が彼らの発表の場として利用されることで、メディアビジネスの「自浄能力」が機能することになれば幸いである。(鎌田、03/28/2010)
- 「週刊ダイヤモンドの消えた特集」 by 池田信夫、ブログ、3/26/2010
- 「書店・取次の顔を立ててモラルハザードを生んだ週刊ダイヤの自主規制」、by Wada、PortSide Station、03/28/2010
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