EBook2.0ノート(7):わが電子「活字文化」論

先日の「EPUB説明会」で、文字とその文化性について、あらためていろいろなことを考えさせられた。フローとしての文字列とページに固着した文字の違いがもたらす断絶である。技術ともビジネスとも関わるが、中心的テーマは日本の文字文化となる。しかし感慨にふける暇はない。出版は読者にとっての価値を保証できなければ成功せず、技術は困難な課題を解決することがビジネスになる。ヨハネス・グーテンベルクの「可動活字」を商業印刷と出版に結びつけたのは、その半世紀ほど後に生まれたヴェネツィアのアルドゥス・マヌティウス(図)だった。われわれはまだ、可動電子文字を制するデジタル時代のアルドゥスを得ていない。

新しい活字文化を創造するE-Book編集製作技術は揺籃期にある

これまで人は安易に「活字文化」と言うわりに、その中身については考えてこなかったようだ。余談だが、だいたい「文化」は安易に使われるすぎる。マグロが日本の「食文化」というマスコミより「浮気は文化」の石田純一氏のほうがよほど厳密に使っている。「xは文化である」という議論を持ち出すなら、xの文化性について、5W1Hの一端でも明確にしないと異文化圏の人間には通じない。異文化の人間に説明できず、理解されないなら、それは「文化」ではない。(写真は、アルドゥスの工房が1499年に印刷した『ヒュプネロトマキア・ポリフィリ』

活字のデザインも、文字組みも、ブックデザインも、一部の編集者とデザイナー、印刷関係者しか意識されてこなかった。活字コミュニケーションがどのような性格を持ち、どのような役割を歴史的に担ってきたのかを知っている人も少ない。いま「活字文化」を語る人の多くは、じつは旧来の「活字商売」を気にしているのではないだろうか。もちろん、商売は重要だ。考えてみれば、筆者も細々とその商いを続けてきた。「活字」を扱う技術基盤が大きく変わり、それによって「活字」に関わるすべての商売(それどころか世の中のすべて)に大きな影響が及んでいる時に、文化にも影響が及ぶのは当然だ。われわれは何が護るべき文化的価値であり、何が新しい商業的価値であるかを明確にしないと、この変化の時代に能動的に関わることはできない。

そもそも「活字」は機械技術とともに始まった。それはテクノロジーを基盤とした複製技術だ。テクノロジーというものは道具と人間の関係で成り立つ。機械技術は進化し、1970年代から徐々に電子技術に交替していった。「機械あれば必ず機事あり。機事あれば必ず機心あり」(荘子)というわけで、その過程でマンガやグラフィックを主体とする印刷物が増加し、「活字」の地位は低下した。出版・印刷業界にとってよい時代だった。この時「活字文化」の衰退を憂えたのは「文化人=活字人」であって、当時すでに権威を低下させていたのであまり顧みられなかった。そしてバブルが崩壊し、さらに出版・印刷業界が構造的不況を迎え、Webが迫ってきた21世紀に入って「文字・活字文化振興法」(2005年)などという法律(知ってました?)が出来たのだった。「大道廃れて仁義あり」(老子)か。やれやれ。

文字組み:仮想ページの設計と実装

Webが活字コミュニケーションの価格崩壊を起こしたことで、やっと活字を読んだり、字を書く習慣が復活し始めた喜ぶべき時代に、「活字文化」が語られるようになったのは悪いことではない。筆者は先月、約30回にわたって7万字あまりを書き、本誌に載せた。毎日千人あまりの方に読まれいる。組版と印刷にお金をかけ、郵送で送っていたら数100万円はかかっているはずだが、これがほとんどタダで出来た。20年前にも同じくらい書いていたが、2種類のニューズレターを印刷し、隔週で計300人くらいに発送するのに数10万円かけていた。もっとも本誌は無料だが、キャッシングの方法を後で考えるのがWeb時代の流儀ということになっている。読んでくれる人がいる限り、読者は無情ではないだろう。わが「活字文化」はかくも発展している。だが電子活字には課題が山ほどある。

建築が「機能・構造・美」の空間的総合を目ざすように、活字のデザインも、文字情報における「機能・構造・美」を目ざしている。だがそれはページやスクリーン上で見える2次元的空間だけでなく、それと人間の頭の中の知識空間との両方に関わっている。これに社会化された心の空間というものも考えるべきだと思うが、現在の筆者には扱いきれない。例をあげよう。先日の「EPUB説明会」でのこと、フォーマット機能のデモに青空文庫に収められた夏目漱石作品(『夢十夜』)が使われていた。それが「横2段組」で出力されているのを見て仰天した。文学作品が、まるで論文のように見えている。正直、気分が悪くなった。デジタルが嫌いな人の気持ちがわかった。どういうことか。(「横組文学」の例。アドビのDigital Editionsをビューワとして見たもの。)

コンテンツには、それに相応しいデザインが必要だ。それを外すと時に文化的コンテクストの解体につながる。夏目漱石は、活版の本や雑誌、新聞小説のために書いた。それらは画家にとっての画材、音楽家にとっての楽器である。書き手は表現される空間を想定して仕事をする。それは文体にも影響する。近代日本語は、明治の活版印刷文化とともに生まれたと言って過言ではない(ボロが出るのでこれ以上は言いません)。演奏家が作曲当時の楽器の響き、調律法と奏法に無神経であってはならないように、編集者は作家の知識空間と心的空間を活字空間にマッピングするソリューションを知っていなければならない。少なくともデザイナーと相談して、最適な方法を発見しなければならない。それが「活字文化」を担う者の責任だ。

現在のE-Bookには、まだ編集者の「手」が入っていないものが多い。繊細な神経が感じられない。編集者がいかにこれを扱いかねているか、いかに重大な仕事を他人任せにしているかがよく分かる。だから「中抜き」などということを口にするのだ。EPUBによる(つまりWeb的技術に依存した)E-Bookには、ページを絶対空間とした伝統的な活字技術(PDFもその範疇に入る)と根本的な違いがある。文字や図版は「スタイル」に従って「画面」の中をフローとして流れる。文字の大きさや書体を自在に変えたりできるし、画面をページのように見せることもできるが、それはそう見えるだけだ。悪くすると、ページというしっかりした地面がなく、空中を浮遊するような感じとなる。行末はガタガタで、線や面(グレイスペース)の美しさが微塵もないものが多い。

日本のWebデザインにおける文字組みの未発達、スクリーン・フォントやHTMLにおける日本語組版の未熟が原因でもあるが、解決にはかなりのコストと時間がかかる。誤解を避けるために言っておくと、日本語組版は、間違いなく世界で最も複雑でルール化が困難なものだ。これをHTMLで実現可能にするために奮闘している村田 真さんやJEPAの関係者の努力には頭が下がる。「活字文化」振興予算はイベントやパーティではなく、こういう仕事に使え、と言いたい。彼らが困難な仕事取組むのは、それだけの価値があると信じるからだ。たしかに価値がある。日本の「活字文化」のメタデータがそこにあるからだ。これを自在に駆使できるようになった時、われわれは世界に誇れる価値を証明できる。

とはいえ、著者が許可したものを除いて、文学作品の横組は原則禁止したほうがいい。EPUBのデモに文学作品を使う時には、「仮想ページ」の設計という問題をクリアしてからにしてほしい。技術者がエレキでベートーヴェンを試演するのは危険だからやめたほうがいい。デジタルになったからといって文字組版が簡単になったわけではない。筆者は見ていないが、青空文庫の iPhone版は、夏目漱石をりっぱに再現しているそうだ。本を読む人間の言うことだから信用できる。とくに新聞小説として書かれたものほどしっくりする、というのも面白い。

日本語を表現する空間としてE-Bookはまだ荒野、あるいはWild Westのような状態だ。だからこそ挑戦のしがいがある。本物の活字文化の奥深さを知る人にできるだけ多く参加してもらい、文明の光をもたらしていただきたい。(鎌田、04/10/2010)

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