ネット時代に出版の復権を考える (1):脱工業化
2010年 5月 8日
出版とは何か? これはE-Bookを考える際の出発点であり、ゴールでもある。E-Bookは従来の活字文化資産の継承とともに、デジタル時代のコミュニケーション基盤の利用を意味しており、それほどの歴史的意味を持っている。前者の中身も問題とされなければならないが、後者はこの20年の間に激変しており、とりあえずはF2F以外の、メディアを介したコミュニケーションが基本的にデジタルになるということの意味から確認する必要がある。
組織と個人:ネットによって逆転した「非対称性」
20年前の電子出版は、最終的に紙に印刷することを前提としていた。つまり、出版社と印刷会社のあいだ(あるいは印刷会社の内部)での電子化だったから、読者とは無関係だった。著者がワープロのファイルで入稿するようになってからもそれは変わらず、その後Webが普及して電子商取引が登場してからも、出版のサプライチェーンのデジタル化は(新聞や雑誌同様)さほど進展しなかった。まず、ここが問題だ。この間に、コミュニケーション革命はPC+Webで展開し、Web 2.0を経てリアルタイムWebまで進化した。また携帯電話が普及し、そこでも独自のアプリケーションとコンテンツが育ったが、大容量の通信が可能となることで、Webのすべてのアプリケーションはモバイル環境と融合した。ここで携帯独自の進化は終わり「モバイルWeb」の時代が始まった。
10年前では、まだ静的な「ホームページ」が主流で、対話型のアプリケーションも電子決済も一般的ではなかったことを考えると、変化のすさまじさが実感できるだろう。つまりパーソナルなコミュニケーションのための環境は激変したのに、メディアビジネスのほうはほとんど変わっていないのである。旧メディアは、コミュニケーションのための資本設備を独占する大組織と、電話とコピー機以外に手段を持たない個人という非対称性を前提とし、巨大組織のために働く専門家が主要な役割を果たしていたが、21世紀の最初の10年間のうちに、非対称性の関係は逆転している。個人(消費者)は、ネットを通じて次々と新しいメディア、アプリケーションを、無料ないし最小限の費用で入手し、活用できているのに対して、巨大メディア企業は、陳腐化が進む旧来の設備、組織、知識、ビジネスモデルの維持に汲々として、社会の変化に取り残されるという奇妙な状況が生まれている。(上の図は非対称性を説明したもの、(上の図は非対称性を説明したもの*W. Horton, 2000)
とくに日本において、この状況の行く先はまだ読めない。教育からメディアまで、大組織は個人の生活を支配しており、いかに不合理であれ、肝心なことは何も変えない力をなお保持している。旧エリートたちの手によって「電子政府」はパロディに終わった。日本版の「コンプライアンス」も「規制緩和」も同様だった。「電子書籍」もパロディに終わらないとは誰にも言えないだろう。明治の「近代化」も、戦後の「改革」も、超越的な権力を背景にしなくても可能であったとは思えない。
出版社をめぐるコミュニケーション環境の変化
中西秀彦氏の最近の寄稿で筆者の胸に響いたのは、「出版社は必要なのか」という言葉だった。これまでの役割は、著者にネタを書かせ、本にして取次に回す-極度に単純化・卑俗化するとそういうことだろうか。もちろん、どんな著者に、何について、どう書いてもらうか、それをどう料理して本にするかによって、確率は低いがベストセラーやロングセラーにもできる。出版社はその低い可能性に集中し、「売れる本」あるいは「よい本」を目ざして仕事を続けてきた。何がどう「売れる」か、何がどう「よい」のかについては、客観的にはほとんど知る由もない(という前提であったと思われる)。肝心の販売については、完全にマス・マーケティング(の縮小形)か、さもなければ同人誌とさほど変わらなかった(つまり新聞を使った仲間褒め)。出版点数と平均的な販売ロットを考えると、これは驚くべきミスマッチである。1万部以上を期待しても、せいぜい3,000部かそれ以下という商品に対して、サイズに合ったマーケティングがほとんどなされて来なかったのである。
この10年間、本をめぐるコミュニケーションの改善について、出版社ももちろん努力はしてきたが、それは上述した「負の非対称性」の拡大に対しては、いまのところ焼け石に水でしかない。多くの出版社の「ホームページ」は、まったく一世代前の会社案内時代のもので、紙のカタログの再録にすぎず、PR誌の内容も入っていない。読者とのコミュニケーションはおろか、売りたいという意欲すら感じさせないのは、逆にこのメディアを出版人がどうみているかをよく示している。E-BookがWebの延長として登場してきた時に、出版社が抱いた「嫌な感じ」は、Webが出版社にとって「アウェイ」であることからきている。逆にアマゾンやアップルにとっては「ホーム」であり、すでに消費者との間に築いた「関係」を最大の武器にできる。たしかに数ではかなわない。だがそもそも出版社は「大手量販店」である彼らと同じゲームをするわけではないし、Webは数の世界というわけではない。逆にWebから遠ざかっている限り、これら量販店への依存が強くなる。
出版という行為は、基本的に「知識情報のコミュニケーション」であるが、対象コンテンツについてそれが成立する(関心→購入→読む→?)ためには、
- 著者に対する関心を喚起する(なぜこの人、このテーマか)
- コンテンツに対する関心を喚起する(なぜいま…)
- 読者が得られるであろう期待レベル
- 内容の全部あるいは一部の情報
といったコミュニケーションが複合的に存在し、それによる「コンテクスト」が形成されていなければ、購買機会は限りなく少なくなる。たまたま書店で「買いたくなる本」に出くわす機会は、出版点数に逆比例すると思われる。一部の著名作家やアイドルの本については、そんな面倒なことはいらない。マーケティング・コミュニケーションの不足をネームバリューによる話題性が補ってくれるからだ。しかし、ビッグネームによるベストセラーは、苦痛の後のモルヒネによる多幸感を与えるが、そのぶん一種のホワイトアウト効果によって新しいコンテクストの形成が妨げられる副作用もある。コンテンツビジネスとは、つまるところ消費者をめぐる「コンテクスト・ビジネス」なのだ。
多様化と経済性を両立させる脱工業化モデルを目ざして
アマゾンやアップルのようなコンテンツ(アプリ)量販店は、工業的アプローチで市場とコンテンツ生産者を結びつける。「購買」をめぐるコンテクストが中心だが、それで十分とも言える。巨大な資本力でコンテンツとコミュニケーションをアレンジするとともに、状況に応じてシェア and/or 利益を最大化できるからだ。現在の関係は、食品の流通によく似ている。生産者は生鮮品と加工品を供給するが、消費者とダイレクトに結びついていないので、商品も価格も、大手流通の好むパターンに最適化されている。これはほとんどの生産者にとって絶対に不利だ。天候不順で野菜が暴騰しても、漁師や農家の出荷価格は長期契約で固定しているものが多いので、収穫が少なければそのままダメージを受ける。それはさらに取引条件を悪化させる。また消費者にとっても良くない。スーパーにある商品は、買い物の喜びを与えてくれることが少ない「定番」に集約してくる。売れ筋は「プライベートブランド」や「独占契約」になる。
資本主義は生産と消費の工業化を指向する。競争は工業化の勝者のものとなり、それは独占を生み、創造性は遠ざけられ、文化的多様性は減少する。工業化は本質的に陳腐化に等しい。衣食住+娯楽まで工業化=陳腐化されてはかなわないので筆者は資本主義が大嫌いなのだが、工業化、画一化が行きつくところまでいけば活力を失うので、逆に多様性の再発見が必要になってくる。新しいコンテクストが求められ、別のプラットフォームをめぐる競争が始まる。連続的であれ、非連続的であれ、変化そのものは止まることがない。いま情報の生産・流通は、基本的に1世紀前に確立された生産優位の工業化モデルから、流通優位の「ポスト工業化」モデルに移行している。では、コンテンツビジネスにおいて大手流通の支配はもはや不動だろうか。
そんなことはない、と筆者は考える。インターネットは流通にだけ微笑むものではない。種々雑多な生産者がいなければ生産が画一化され、消費も画一化される。コンテンツ生産者にできることは「流通=消費の工業化」に対して、多様化と経済性を両立させる脱工業化モデル(生産=消費モデル)を確立することであるが、インターネットによってそれは可能となる。難しいテーマだが、筆者は余生をこのテーマに使いたいと考えている。(鎌田、05/08/2010=つづく)
* Horseless-carriage Thinking, A presentation by William Horton for the American Society for Information Science, April 8, 2000. Boston, MA
■セミナー:「WebとE-Book:ソーシャルネットワーキングとしての出版」
5月26日、このテーマでE-Book研究 講座シリーズ第3回を開催します。出版社のマーケティングという観点から議論を進めたいと思います。詳細は近日発表します。








