デジタル自主出版 (2):第1章 バリュープロセス

デジタル自主出版の主語は著者ではなく「出版者」である。出版者は社会の中での言語コミュニケーションの主宰者であり、そこでは版(エディション)と日付、そして出版者としての署名の3つが揃ってはじめて意味を持つ。原稿が素材から「版」となり社会性を持つ上で、出版者こそが主体であり、著者が出版することは、著者とは別の出版者のロール(社会的機能と専門性)を負うことを意味する。出版者はコミュニケーションの演出とプロデュースの主体として読者の「体験」に直接コミットする。出版者を法人化した存在である出版社はそれでも「中抜き」を怖れる必要があるだろうか。

第1章 出版のバリュープロセス:自主出版の主語は出版者である(前)

費用はどこで発生するか

「自費出版」は、費用負担の主体という、まったく瑣末なことに焦点を当てていた。欧米では self あるいは DIYと言い、self-paidとは言わないのは、費用負担ではなく、発行主体としての非専門的な個人/組織が出版者となるという面に注目しているからだ。じっさい、費用を誰がどこから調達するのかなど、余計なお世話というほかない。とはいえ、E-Bookのメリットがまず経済的なものである以上、まず経済性を確認しておかないわけにはいかない。

E-Bookは、非業界人が組版・印刷・製本・流通という最大のコスト的障壁を通り抜けることを可能にした。フルデジタル化は、伝統的な出版コストのざっと3分の2が不要になるか、少なくとも売上に対するシェアとして負担するだけでよいことを意味する。残りの3分の1、つまり「コンテンツの執筆・制作・編集」の費用となると、出版社が負担するのは編集者の給料くらいで、数ヵ月、時に数年に及ぶ著者の執筆期間の生活費を出版社が負担してくれるわけではない。そもそも、日本では「印税」といい、米国では「前金」 (advance) というが、その違いは大きい。日本では「印刷」時点で著者の請求権が発生するのに対し、米国では出版契約を交わした時点で発生するからである。

日本では契約なしで出版も支払いも行われることが多いが、このことは逆に「印刷」ということの重さを物語っている。昔は著者が検印し、その数に応じて対価が支払われた。その後検印は廃止となり、刷り部数については出版社を信用するべきこととされた。印刷・配本は(実際には印刷会社と取次が行うわけだが)出版者の責任で行う社会的行為とみなされてきたわけである。奥付の発行者名にはそれなりの重みがあり、著者が全幅の信用を置くことがデフォルト化されていたことも十分に理解できる。「一見さんお断り」の美しい前近代的世界だ。E-Bookでは契約もなしで出版するのはまず考えられないだろう。売上マージンか、買い取りか、折衷かなど、いくらでも選択肢が考えられるし、「10%ルール」にも合理性はない。

本稿の筆者のように、著者が自分の時間を投資して原稿を書き、編集をしてWebまでやったとすると、「出版」じたいには外部費用はほとんど発生していない。HTMLをもとにPDFやEPUBに変換しても、作業は発生しても費用はかけなくてもコンテンツ化できる。そうした意味で、出版までの費用負担は著者の時間と取材コスト以外は無視できることになる。デジタル・ネイティブなコンテンツは、著者の知識と創造性と時間の結晶としての「自費出版物」なのである。(上の肖像画は、英国の国民的作家ウォルター・スコット。出版者、印刷所を経営、1819年の代表作『アイヴァンホー』は初版1万2,000部を売り切った。しかし経営の失敗で負債を背負い、返済のためにかきまくって死んだ。)

出版者とはコミュニケーションの演出家である

いま、著者は発表の場、読者との交流の場を確保し、さらに収入の場を確保した。それによって逆に、ポスト産業化時代における出版者の意味を考えることが必要になる。著者が出版者となれる時代に、出版者であることはどんな意味を持っているのか?

著者=出版者という図式は、Webやブログによって、すでに一般化している。メルマガを収入源としている人も少なくない。フルデジタルの世界ではすでに自足的な出版世界が成立しているし、それがE-Bookに広がっていくことは自然である。おそらく出版社が本能的にWebやE-Bookを嫌うのは、その必要性が自明でなくなることで著者との力関係が変わることを怖れてのことなのだろう。それは自然なことで非難にはあたらない。しかし誰もが「活字」を扱える時代には植字や入力より「組版」の価値が問われるようになった。同じように、誰でも「出版」できる時代には編集作業より「出版」そのものの価値が問われてくる。出版社は十分それに答えることができる。答えられた者が出版社であることを主張できるのかもしれないが。

「編集」者としての出版社について考えてみよう。それには、抽象的な意味での編集と編集実務を分ける必要がある。プロデューサーとしての編集の主宰者は紛れもなく「出版者」である。他方で編集実務はかなり多岐にわたっているが、必ずしも出版社の社員がやる必要はない。出版社はかなり以前からこの重要な仕事のアウトソーシングを進めており、フリーの編集者、校正者によって行われているものは多い。彼らが著者と組めば、著者を補ってりっぱな本を作ることは可能だろう。有名作家は有能な編集者や広告エージェントと契約して、大きな利益を得ることが可能になる。出版社が「編集」の価値を主張するには、プロデュース能力を客観的に証明する必要が出てくる。

そう、創作・執筆・表現が直接間接にそのまま「出版」できるデジタル時代には<何のために、誰に、何を伝えたいのか>というコミュニケーションのデザインのほうがはるかに重要になってくるのだ。なぜいまこの情報を「本」という形に集約し世に問う必要があるのか、ということだ。コミュニケーションにおける主語としての著者は、その動機を持っているだろう。だからこそ書くのだ。出版社はどうか。主語になるには、動機と目的と方法が社会的に妥当と認められなければならない。コミュニケーションのプロデューサーということだ。著者は自ら出版者になることができる。動機が自己満足ならそうするだろう。しかし、社会的なものであるとすれば、最終的な版の完成や読者とのコミュニケーションといった重要な仕事を出版者に委ねたほうが成功の可能性は高くなる。

そうした意味では、著者は脚本家のようなものでもある。脚本家は演出し、主演ができるかもしれないが、脚本の様々な可能性を引き出し、観客の「体験」をプロデュースする能力は別のものだ。シェークスピアの戯曲は文章のままで読むことができるし、言葉の力で「体験」を生み出す圧倒的な力を持っている。しかしそれは一次元的なものだ。演劇空間で実現されることで、多次元になり、著者が構想した豊かな体験を生み出す。演出はクリエイティブな価値を主張できる。原稿(スクリプト)と本(エディション)の距離も意味のあるものだ。著者=出版者では、コミュニケーションの可能性は制約されるかも知れない。

誰でも出版できる時代に出版の役割と専門性は何か?

自費出版は、著者が自腹を切るところが注目された。自主出版は演出家としての出版者が主役だ。自分を著者にしたいのなら(あるいはそれしかなければ)自分が演出することになるということだ。自主出版の主体が著者であるとは限らないのである。実現したいコミュニケーションの中身と方法をデザインし、それに合った著者や編集者、アーチスト(必要なら技術者)を探し、プロジェクトとしてプロデュースする主体が問題なのだ。金銭が目的の一部であるかどうかはともかく、これは社会を相手にしたプロジェクトであり、そのコミュニケーションは、最終的に読者にとっての体験として(うまくいけば)脳裡に刻まれるべきものだ。

お金を取るかどうかとは無関係に、出版者には役割についての自覚とある程度の専門性が必要になる。専門性のほうはプロに依頼すれば解決できるだろう。友情や成功報酬で引き受けてくれる人がいるかもしれないしかし「責任」のほうはそうはいかない。出版には必ず「版」について責任を持つ主体が必要なのだ。それだけはアウトソースできない。

出版の「版」とはなんだろう。それはいつ、どういう情報を公にしたという記録性とそれに関わるコンテクストの集約である。記録されないものには「版」は存在しないし、その「版」の主体がないと出版は成立しない。自主出版では著者とは別に「出版者」というロールが必要なのだ。同じテーマについて、著者は時間とともに様々なことを書く、それは相手が違うからかもしれず、考えが変わったからかもしれず、新しい情報に接したからかもしれない。出版は著者の知的活動を、ある時点で結晶化させることを意味する。その結晶化の形を決め、著者とともに承認し、連帯して責任を負うするのが出版者なのである。「版」において日付と発行者は決定的な意味を持つ。それらを欠いたものは出版物ではない。

なぜ近代において出版者の法人化である出版社が大きな役割を持ってきたかがお分かりいただけると思う。出版というものは最初から社会的なものであり、それ自体では個人的なものにとどまる創作や著作活動とは異なる。まして多くの出版物に関して著作物としての権利を主張するには、情報の独自性と内容の妥当性についての説明責任を負うことを意味する。多くの本について、そうした社会的責任を引き受けるのは容易くはないのだ。それは出版が他のビジネスとは決定的に異なる点だ。出版社が社会的地位を自他ともに許してきたのには、それなりの背景がある。これまでは、印刷を中心とした「本づくり」ばかりが目立っていたために、出版社の役割の本質は、いわば「タテマエ」化していた。かつて印刷物をつくることと社会的尊敬を集めることは、同じことだったのかもしれない。

おおげさに言えば、出版社はこれまで紙とインクで作られた本という物神性を帯びた知識商品の提供者であることによって得ていた知的道徳的優位グラムシの概念で言えば「ヘゲモニー」)を脅かされていると感じている。紙とインクがそのステイタスにどれほど貢献していたかは不明だ。しかし、人々のアクセスを規制してきた紙とインクが消えた時に、まだ一級市民としての誇りを持っていられる自信がないのかもしれない。(情報の選択、組織化と配布を意味する出版とヘゲモニーを考えることは、今日とくに重要だと思うが、ここでは深入りしない。)

その心配はない、と筆者は考えている。お金というものが貨幣から紙幣に、ついには数字となっても、その機能も価値も変わらない。銀行の金庫に巨額の現金がなくても、機能は変わらない。裁判官は法服を着ていようがいまいが同じ専門性によって尊重される。たしかに、出版社の真価を主張するには新しい方法を発見しなければならないだろう。少なくとも、自動的に主張できなくなる。しかし、出版社はたんにビジネスではない、市民社会における言語コミュニケーションの主宰者なのだ。アマゾンやアップルにその役割がつとまるだろうか。勤まると考えるなら、『薔薇の名前』の怪僧ブルゴスのホルヘのように、紙を銜えて死んでしまうしかない。そうでないとすれば、何も怖れることはないだろう。(鎌田、05/23/2010)

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