筆者はもちろんE-Book推進の立場に立つが、同時に「本の電子化」がもたらす様々な問題を懸念してもいる。問題とは経済的問題ではなく、個人の力によって支えられ、モノとして実体化された本とともに存在してきた出版の社会的役割の変質(過度の市場化)、それによる社会の知的退嬰化である。それに立ち向かうには、陳腐化しつつある知識のネットワークの再構築の手段としてE-Book環境を構成することであると思う。
何が危機か?:出版の機能の変質
出版は、たしかに「モノづくり」としての性格も持ち合わせています。モノとしての本を計画し、設計し、実装し、流通させ、販売し、管理するのが出版の仕事である、と人々は考えてきました。本の電子化は、独特の質感を備える実体化された本から「コンテンツ」だけを抽出し、オンラインで提供することを意味するわけですが、これが出版関係者に(経済的影響以外にも)どれだけ深刻な意味を持つかは重要な問題です。
- 第1に、実体化される着地点がデバイス(ITでは実装環境という)に依存する
- 第2に、紙・印刷・製本の方式など、モノと結びついた表現と品質管理が通用しない
- 第3に、読み方、使い方(つまりUI)に関して「印刷本」での約束事が通用しない
これでは「どうやって編集していいか分からない」というのが出版関係者のホンネでしょう。まだ道具もなく、方法もなく、あるのはただ「電子」という流通主導のターゲット環境だけというのでは、とりあえず無責任なことはできないと断るか、他人(業者)任せにするか、どちらかの選択しかなさそうです。前者は保守反動とか抵抗勢力と言われそうでかえって難しいかもしれません。たんに「紙から画面に移し替えるだけ」のようにも思えます。しかし、E-Book推進派の筆者は、それが媒体の変化に止まるものとは思っていません。それは、情報の結晶体としての本に最適化された流通・販売システムをフルデジタルに置換えることで、社会システムの一部としての出版の機能が変質する危険性があるからです。
「個人」としての編集者・出版人
情報産業としての出版の活動は、「いま何が情報なのか」という問いから出発します。それは、「誰が・どこで・なぜ・どんな」というコンテクストへの読みによって企画化されるのですが、そこではつねに、過去の出版物の経験(著者、対象読者、編集方法、内容、品質、反響、販売実績…)が参照されることは言うまでもありません。筆者から見て、出版のプロフェッショナリズムはまず、社会的なニーズを読み、それを出版プロジェクトとしてまとめる行為に最大の価値があると思います。もちろん商品として売れるかどうかは重要ですが、ゴミのような本をつくって売れないよりは、少数でも評価され、将来につながるほうがいいという出版人も少なくないでしょう。儲からなければ続かない、儲かるだけでは続ける意味がない、という二律背反に悩まされている出版は、テーマと内容をめぐる社会性と商品性という2つの原理が衝突するところに存在しています。商品としての本は妥協の産物ですが、それだけに各時代の本は<社会×市場>の基本史料としても興味の尽きないものです。
さて、印刷本をつくっている限り、この企画プロセスは、個人の頭の中で生まれ、別の個人やグループとの対話を経て、合意を得て計画として承認されます。月並みな企画では売れない(可能性が強い)ので、ある程度以上の個性・感性・知性・想像力が必要とされる仕事です。これはマニュアル化・機械化不能であるという点で、最も人間的・創造的ということもできるでしょう。読者(たとえそれが小規模なコミュニティであっても)を通して社会に対峙する個人、という古風な矜持が生きている世界でもあります。新聞や音楽など、ほとんどの人間が歯車の一つとして働いているメディア産業の中で、出版社は「個人」がまだ生きている世界だと思います(絶滅したという声もありますが)。
モノとしての本とともに存在してきた創造性の行方
フルデジタル化で出版の何が変わるのでしょうか。デジタル化されたコンテンツは、販売プラットフォームの販売/顧客管理システムによって管理され、販売データとして出版社に伝えられます。出版社が直販しなければ読者のデータは得られず、出版社は主に販売ランキングから市場の動向を知ることになるでしょう。印刷をしないという選択が生まれたことで、出版企画ではコスト的なリスクを考慮しなくてもいいことになり、ギリギリの判断でタイトルを絞り込むより「下手な鉄砲」のほうが有利となる可能性が強い。つまり、経営的には、粗製濫造を覚悟しても、品揃え、それもタイムリーに売れるような目配りが重視されます。売れないものはE-Bookどまり、売れたら印刷して上製本もあり…ともなるかもしれない。そしてそこにわかりやすい競争原理が働く。編集者の個性ではなく、データのお告げできめ細かい「品揃え」を競うようになれば、出版社はもちろん、半出版社や準出版社、にわか出版社まで誰でもノーリスク(つまりノー編集)での「コンテンツ」揃えに走ることは明らかです。
筆者はIT関係にいました。この分野では新技術(コンセプト)が登場するたびに出版物が登場するのですが、話題となるのに合わせて登場する安直な入門書が数万部売れると、時間を置いてでてくるまともな本はほとんど売れず、その後は企画もされなくなってしまう傾向があります。ロクデモ本やトンデモ本のために市場が荒れてしまい、少なからぬIT技術者がほんとうに読むべき本(とくに国際的なリファレンスとなる本)はボツになってしまうのです。出版社にとって残念というよりは、日本の技術レベルの低下を意味するわけで、大げさでなく社会的損失ははかり知れないでしょう。社会的効用が比較的明確な技術情報のコミュニケーションですら、自然に水準が向上することなどないのですから、さらに高度な価値を扱う他分野はまず期待できません。
やや抽象化すれば、知識のコミュニケーションが、単純なeコマースのシステムの一部に取り込まれることで、コミュニケーションが市場、あるいはコンピュータ(データとロジック)にコントロールされることになるということになります。ネガティブな結果としては、粗製濫造、編集力の低下、出版のアマチュア化、社会性の低下を招く可能性が強い。「活字文化の衰退」の懸念ももっともです。印刷本の場合は、編集者個人が扱えるモノとしての本の独立性が出版の独立性を守ってきたように思えます。デジタルコンテンツは、販売プラットフォーム(のロジックとデータ)が制御するようになると、それが出版のナビゲータとしての力を持ち始める可能性が非常に強い。編集者の強い個性とそれをサポートする環境がなければ、出版における(多種多様で個性的な)社会性は、デジタルな市場の統制に服することになるでしょう。E-Book推進派である筆者も、それを最も懸念しています。
E-Bookによる知識のネットワークの電子的再構築へ
前回お話ししたように、出版という機能は社会における「システム」として存在しており、知的コミュニケーションという、複雑な社会を動かす上で最も重要(で複雑精妙)な機能を担っています。このシステムはもちろん商業出版だけではなく、組織やグループ、個人が行う出版活動という裾野を前提にしており、また各種出版の連携により、知識のコミュニケーションを必要とするあらゆる専門分野と分野間のコミュニケーションのノード、ハブを形成してきたものです。それが本を通して社会と対峙する個人によって担われているということが出版の特殊な価値として最大なものといえるでしょう。活字文化はそうした個人の有形無形のネットワーク、あるいは仮想空間として存在しているとも言えるのではないかと愚考します。だからこそ脆く、いったん壊れ始めると連鎖するわけです。
出版はそれ自体がシステム(社会から見るとサブシステム)であるとともに、そこで扱われているもの(本として構造化・実体化された知識・情報)もシステムです。この点は次回にご説明する予定ですが、優れたシステムとしての本は、コミュニケーションを深化させ、再生産する力を持っています。システムには、知識を叙述する記述だけでなく、テーマや著者などをめぐるコミュニケーションのコンテクストが(多くはメタデータとして)明示的に、あるいは非明示的に埋め込まれています。本のコンテクストは、読者を刺激してさまざまな読書体験に導く鍵でもあります。またマーケティング的には、出版社にとっては、次の1冊、次の読者を連れて来てくれるスイッチだと言えるでしょう。
社会は知識のネットワークとして存在する
筆者の「社会」観についてお話しすると長くなるので本件に関係のあることだけ要約しておきます。Wikipediaによると社会は「継続的な意思疎通と相互行為が行われ、かつそれらがある程度の度合いで秩序化、組織化された、ある一定の人間の集合」とされていますが、「世間」を超えた法や教育、行政など「大きな社会」を考えるならば、次のようなことが言えるように思われます。
- 社会は知識(最も具体的には命題論理)のネットワークとして存在する
- 社会=知識はコミュニケーション手段に最適化されたアーキテクチャを持つ
- ニューラルネットワークのように、リンクは結合・切断・廃用される
- 社会を秩序化・組織化する前提となる(知識の体系は教育・法律などで制度化される)
- ネットワークは再構成・再生産されなければ陳腐化し現実に対応できなくなる
こうしてみると、いまだ19世紀的な機械文明時代の知識体系をローカライズしたものを維持・発展させてきた日本が、いま中国やインドに追い抜かれる理由も「制度化された知識の機能不全」に求めることができるでしょう。完成された知識のネットワークは価値観に結びついているので再構成がむずかしいのです。新技術は本来の可能性を奪われ、技術革新に結びつきません。長期的に空洞化と無気力化が進んでいる現代の日本の問題の多くは、公認の知識と現実との齟齬に対する無抵抗からきているように思えます。
知識の体系を再構成し、教育や法律まで組みかえるには、新たに構築する以上のエネルギーを必要とすることは確かです。しかし日本のわれわれとしては、これを意識的に組み替えられなければ、いかなる高度技術も前向きに使えない完全な停滞性社会に向かうしかないでしょう。筆者は、E-Bookこそ知識の体系を再構成する最高の手段であり機会であるという妄想を抱いています。インテルのアンドリュー・グローブ前会長が「妄想的人間だけが生き残る (“Only the paranoid survive”)」と喝破したようなデジタル革命の渦中にあっては、意外と外れてはいないのではないかと。
本のデジタル化は確かに(活字文化の維持に必要な)出版の創造性、技術性、社会性にとって脅威をもたらします。しかし、これに目を背けることも、抵抗することも(戦術的にはともかく)無意味であるとすれば、味方にすることを真剣に考えるべきでしょう。21世紀の「出版」を志す人は、知識の複製手段を提供したグーテンベルクよりはむしろ、知識そのものの姿を見せた百科全書や四庫全書、遠くはアレクサンドリア図書館の継承者を目ざすべきだと思います。(鎌田、09/06/2010)
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