20代(1970年代)には、月に10万円ほど本を買い、週に10時間以上は本屋に滞留していた。その後の繁忙や窮乏によって、かつての知的(?)遊民としての生活を喪って久しいが、最近アマゾンKindleで無償コンテンツにはまって以来、再び濫読の喜びを(しかもタダで)味わえることになったのは、望外のことである。種類は驚くほど。PCと専用リーダの違いも予想以上に大きい。それは体験していただくしかないが、E-Bookビジネスを論じてきた筆者には、そのビジネス的な意味をリアルに考えさせられた。タダのものについては情報が世間に少なすぎるので、以下のシリーズがお役にたてば幸いである。(鎌田敬白)
1. 序 メドゥーサの呪い:紙の崇拝と無償コンテンツの3つの魔法
ギリシャ神話の英雄ペルセウスは、メドゥーサを退治するに際し、知恵(芸術、工芸、戦略)の女神アテーナーから借りた楯に映した姿を見ながら近づき首を取った。宝石のように輝く目で視た者を石に変える、魔物の邪視を避けるためである。この話は奥が深い。ある伝承では、美しい少女であったメドゥーサが次第に傲慢となり、女神アテーナーよりも美しいと公言したことでその怒りを買い、醜い姿に変えられたということになっている。神話の本体は、魔力を放つものを直に視てはならず、それを倒すには知恵による写像を頼りに近づくしかないということ、別伝は、神が象徴する抽象性・普遍性を人間が僭称すれば罰を受ける、ということを教訓としているように思われる。
出版は知識を「本」として扱う。人は知識のひとかけらしか扱うことが出来ないし、しかも本が収録できるものは情報でしかなく、その中身が知識として人から人に伝えられて後、初めて知恵の光を放つのだが、過去数百年にわたって印刷本がその主要な媒体であったために、出版とは印刷本を制作し販売することと同義になってきた。ましてそうした秘蹟のような仕事を長年生業としてきた人々にとって、出版とは紙に印刷された本を販売し、対価を得る神聖な事業であると錯覚しても当然だろう。神ならぬ紙の崇拝とも知らずに。紙の崇拝というメドゥーサの呪いは、知恵ある出版人をも石に変え、一切の思考を停止させるほどの魔力を持っている。
メドゥーサの呪いから逃れるのは容易ではない。ペルセウスはアテーナーの楯のほかに、ヘルメス(商業と泥棒の神)から翼のあるサンダル、冥府の神ハーデースからは姿を消すことが出来る兜を借りた。ヘルメス(市場)を主神とするアメリカは、地上に降りたヘルメスたるアマゾンの力だけで、出版人は石から生身の人間に戻り、商売に精を出すようになった。歴史的な変化が約1年で起きたのはヘルメスが起こした奇跡といえる。アテーナーを主神とするヨーロッパは、サンダルの力が弱いのでアメリカより遅れるが、それでもデジタル化は進んでいる。日本ではそうはいかない。隠身の兜の力で、マンガ+ケータイだけで500億円あまりの規模になったが、ふつうの本が普通に読めるようにはならず、地上ではメドゥーサの呪いが人々を石に変えている。(上の絵はカラヴァッジオから)
結局、神話のように知恵、市場、隠身の3つの魔法の力をすべて使わないと、日本ではデジタルリーディングというパラダイムに移行できそうもない。では何が決め手になるか。「無償コンテンツ」がそれになり得ると筆者は考えている。それはますます多くの人類の知的資産を集めてメドゥーサの姿を映し出し、様々な形で市場と結びついて自由に飛翔させ、姿を隠してゴルゴーンの追及から逃れさせることができる。つまり3つの神器の性質を備えているのだ。それを使う英雄は誰にでもなれる。やはりヘルメスの分身であるGoogleも、アテーナーの使徒であるProject Gutenbergや青空文庫も、ヘルメスのサンダルを履きハーデースの兜を被った様々なビジネス、そして出版社も。大小無数のペルセウスたちは、無償コンテンツを使って呪いを破っている。したがって
、移行は時間の問題ではあるが、市場ではその時間が問題なので、日本だけ遅れれば知識コミュニケーションの後進国となるしかない。筆者がこの神器に期待する所以である。
そこで無償コンテンツとは何か、どんな力を持っているか、どのように世界を変えているのか、何のために、どうやって読むかを明らかにしていきたい。(つづく) 2011-05-31
- 「ビジネスモデル (3) :フリーは敵か味方か?」、鎌田、本誌、04/18/2010
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