本は90%~99%コモディティとして存在し、それゆえにビジネスの対象となる。紙の本の場合、出版社(あるいは著者自身)のブランド戦略によって、ある程度は薄めることが出来るとしても、配信・読書プラットフォームに依存するE-Bookでは、それは露出せざるを得ない。紙の本の場合はコンテンツに独自の外観(つまり装丁)をデザインすることで効果的に差別化し、個物性を主張できたが、「コンテンツ」には(読まれない限り)顔がない。出版社が「いくら儲かってもデジタルは嫌」と思い、作家さえも同調するのは、独立したモノとしての尊厳を持たない「コンテンツ」には、個性を表す衣装も顔もないからだろう。
断裁された本の残骸を並べて、言いがかりに等しい理由で「自炊業者」を告発したい人は、しかし価格維持のためには売れ残った「作品」を惜しみなく廃棄し、物質に還元する行為の矛盾については目を瞑っている。人は「合理的」と信じて、あるいは何も考えずに非合理を敢えてする生き物だから非難はしない。しかし彼らは、丹精こめて育てた牛から授かった牛乳を、「生産調整」のために棄てざるを得なくなった農家の人と同じ哀しみを感じているだろうか。「定価」で売れ残った弁当を廃棄させられるコンビニ店主と同じ怒り、金が足りなくて買えない人の落胆を感じているだろうか。置換え可能なコモディティであっても、人間それぞれ、その時によって<意味>は違うのである。<意味>に鈍感な人たちを作家として尊敬することは難しい。
一般化と物神化の自縄自縛から逃れるアマゾン
アマゾンは、本が持つコモディティとしての一般的性質を応用したWebマーケティングの環境を構築して成功を続けているが、それはモノとしての本から誰もが考える性質に注目したからではない。そうではなく、本が「出版」という社会的コミュニケーションの手段であることから生ずる、(ほとんどの人が見落とす)コトのノードとしての性質に注目したから成功しているのだ。絶えず変化するコトがどのようなものであるかは、Webによって初めて明らかになる。例えば、親戚や友人から贈られた本が、別の本と取り替えられればなお嬉しかったりすることを商機に変えるようなセンスは、モノとしての本を漫然と扱っていては生まれない。アマゾンは本そのものよりは、本を選び、買い、読み、批評し、贈り、古書に売り…という本に絡んだ行為(活動)の<意味>に注目する。コトにフォーカスしたこのビジネスモデルは、コモディティを中心とした消費者の動的側面(意味)を把握することによって、一般商品に拡大できる。猫の本を買う人はほぼ必ず猫を飼っている。当然にも猫用品を必要とする、といった具合だ。猫の砂を買う人に猫の本を売ろうとするよりは効率がいい。アマゾンは商品の個別性、キングとクーンツの違い、という迷宮には入らず、個々の消費者の個別性に注目している。
またもアマゾン礼賛になってしまったが、コモディティと物神化の罠から逃れるためには、ジェフ・ベゾス氏の慧眼から最大限学ぶしかない。出版社は本のメーカーではなく、出版という活動の主体でなければならない。さもなければモノづくりの真の主体である著作者からも、著作者が最も切実に望む読者からも相手にされなくなるだろう。これまでは嫌われても王様として君臨してきたが、その威光は文字通り紙のごときものとなった。吹き飛んでしまうのも時間の問題だろう。20世紀型の大メーカーを真似るのを止め、出版する主体、読書「体験」を提供する主体としてのビジネスモデルを再構築したところが21世紀に再生(あるいは新生)できるだろう3。アマゾンが発見したのは、コモディティは、ユーザーにおいて複雑多様な意味(価値)を持ち、その体験の個別性を捉え、フィルタリングすることで創造的なマーケティングが可能になるということだった。あらゆるモノは、コトにおいてのみ意味を持つ。本というモノではなく、出版(知識情報のコミュニケーション)というコトをより深く考察することで、われわれはアマゾンもまだ知らない、あるいは関心を持たない価値をいくらでも発見できるだろう。(鎌田、2012-01-31)
- コモディティ化(commoditization)については、日本語Wikipediaにも詳細な解説がなされているが、日用品のように、絶えることのない需要に対し、性能・機能・品質において平均的(あるいは非個性的)水準の商品が中心的な位置を占める現象を指す。差別化戦略が働きにくくなり、価格競争で企業収益が圧迫されるので、ブランドを確立した企業からは最も警戒される。しかし、現実には家電や情報機器、自動車に至るまで、現代はコモディティ化の時代と言ってもいいほどで、日本のメーカーが夢見、メディアが喧伝した「高品質・高機能・高付加価値」戦略は、ほとんど無残な敗北を余儀なくされている。創業者の理念を忘れ、ユーザーから離れたところにモノとしての価値を考えた結果と言えるだろう。
- 本をはじめとする活字印刷物については、伝統的に過度な神秘化がなされてきた。とくに、民主主義、創造性、自由といった「それ自体は論証不能な価値」に結びつけることで、定価販売のような不合理、自炊禁止のような無理往生を押し通してきた印象が強い。現実の本の大部分は、創造性や個性において一般の商品と異なる点はさほどない。出版物の多くは、一般の商品と同じように「消費」されることを前提に企画・制作されており、だからこそ出版社が事業的に成り立っている。しかし、出版関係者は「公式の場」ではそれを認めようとしない。アイドル写真集も入試問題集もトンデモ本も、等しく「自らの思想・感情を創作的に表現した」著作物としての保護の対象となると主張する。
- 孔子は「必ずや名を正さんか」と言って、言語(名辞)と現実の乖離を許さないことを思想の基本に置いた。放置すれば現実世界を言語で表現することが不可能になり、コミュニケーションが成り立たなくなるからだ。本については名分と実態があまりにかけ離れてしまったので、ほとんど議論が成り立たない状態になっているが、本と出版のあり方が大きく変わる時代には名を正す、つまり「出版のあるべき姿」を問い直し、現実を変革していくことから始めるしかない。
Related posts:
- E-Book再考(4):出版社は価格決定権をどう使った
- E-Book再考(1):なぜ「電子書籍」は売れないのか
- E-Book再考(2):フォーマットは組版だけでない
- E-Book再考(3):どれだけのタイトルが必要か
Pages: 1 2
English
日本語 

(3 votes, average: 3.67 out of 5)







