1冊の本は固有のライフサイクルを持つ。ひとたび「出版」された後の運命は、梱包すら解かれずに返品・廃棄の憂き目を見る本あれば、買い手の書棚に鎮座して添い遂げる本もある。しかしその中間の領域こそが重要だろう。古書市場は推定1,000億円ほどの規模を持つ。そして、E-Readerで読むためにスキャンされる本も増えている。出版社や物書きは、5年前の小林さんの問題提起を受け止めるべきだった。業者を提訴しつつ、電書制作のためには自ら業者を使って「自炊」するような醜態をみせることもなかったろう。 [編集子解題]
書物の解体新書第二ラウンド(mixiログ)
自炊は保存ではなく読むためにする
下記は、2007年初頭にmixi上で交わされた一連のやりとりの記録。machikoさんは、早稲田大学の草原真知子さん、mentalstaffさんは、中京大学の三宅芳雄さん。
[小林] というわけで、裁断機が到着して、年末は、本の解体→スキャニングに明け暮れていた。iRexのiLiad(http://www.irextechnologies.com/)もクリスマス直前に到着したのだけれど、3日目にトホホのヘアラインが画面上部に常駐するようになって、早速海を越えて修理場送りの運命。というわけで、解体後の読書環境については、改めて。
ちょっとした心境の変化があった。本は、保存するためにスキャンするのではなく、読むためにスキャンする、ということ。会議資料などは、圧倒的に保存するためにスキャンする気持ちが強いのだけれど、本については、まだまだ、保存のためにスキャンするという気持ちにはなりにくい。《読むのだ》《持ち歩いて読むために解体するのだ》という意識が、本の物理的解体への抵抗感を押しのける働きをする。イーグルトンの「文化とは何か」やバレンボイム+サイードの「音楽と社会」の日本語訳と英語原著の両方を解体するには、この二冊は絶対に読むぞ、という強い決意というか言い訳が必要だった。
一線を越えたうえでの、思考実験。
- 対価を払って買った書物の所有権は自分にある
- 買った書物を足蹴にしようが解体しようが所有者の自由
- 買った本のスキャニングは著作権法上の私的複製として正当な行為
- 自分が所有する本をブックオフに売るのも正当な商行為《しからば》
- ブックオフに《解体済み書物コーナー》を設けたらどうか
- 図書館にも《解体済み書物コーナー》と《スキャニングサービスコーナー》を設けたらどうか
[中村理恵子] >一線を越えたうえでの、思考実験。
笑、謹賀新年。
15日の新年会では、直にこのおおいなり決断、意気込みのつづきをお聞きしたいですね。
[安斎利洋] 僕はこの「ぎろちん本」システムはまったく合理的だと思うんだけれど、実際にやり始めたときに抵抗勢力が立ち上がるのは目に見えてますね。《解体済み書物》は、デジタルコンテンツと等価なのか、という議論になる。するとそもそも言語はデジタルだろう、ということになる。じゃ、なんでブックオフはOKで、レンタルソフトはダメなのか、ということになる。アポリアですね。
[小林] 「ギロチンオフ(R)」とかやっておいたら儲かるかなあ。インターネットで「本のギロチン断罪とスキャニングサービス」やるとか。
[メンタルスタッフ]> 一線を越えた…
凄いですねぇ。
自分ではとてもやりそうにないのは、本に対する愛着の強さが関係しているのかな。(私は強くないからやらないのですよ。)倒錯の世界?(笑)
そう言えば、吉田夏彦先生がずいぶん前に(少なくとも5年ぐらい前に)、蔵書を(たぶんアルバイトの人を使って)スキャンして貰っているという話を聞いたような気がします。月末にお会いする予定なので、確かめてみましょう。
解体済み図書は、まずは、ブックオフでなくて、ヤフーオークションとかに出すのはどうですか。広い世の中、どんな人がいるか分かりません。(実は、ヤフーオークションて、使ったことないので、どんなものかよく分かっていないのですが。出品するだけでも、お金がかかるのかな。)
[小林] > 吉田夏彦先生がずいぶん前に(少なくとも5年ぐらい前に)、蔵書を(たぶんアルバイトの人を使って)スキャンして貰っているという話を聞いたような気がします。
学生時代に、吉田夏彦先生にゼミで教えていただいたことがあります。例えば、《長さ》とか《時間》とかいった基本的概念の認識基盤を徹底的に疑って掘り下げていく、といった内容だったのですが、先生は学生の発言に対して、質問を投げかけるだけなのですね。こちらがどのような答えをしても、即座にその答えの穴を突いた質問をしてくる。一回の授業一杯を使っても、質問が尽きることはありませんでした。学生時代に受けたこのような質問の仕方の訓練は、この歳になってみて、ビジネスの世界で戦っていく上で、ものすごく有益なものだったと思い知らされるわけです。もちろん、先生はぼくのことなど覚えていらっしゃらないでしょうが、四半世紀以上も前の先生の薫陶に心から感謝している人間がいる、とお伝えください。
>解体済み図書は、まずは、ブックオフでなくて、ヤフーオークションとかに出すのはどうですか。
オークション、というのもいいですね。問題は、ぼくに、実行に移す勇気があるかどうか、だけなわけですが。まあ、ぼくに出来ることといえば、梶井基次郎の『檸檬』を気取って、図書館の不要図書コーナーにでも、そっと解体済みの本の束を置いておくことぐらいでしょうか。
いずれにしても、思考実験をしてみて、明らかになったことは、《製本して本にする》ということは、実は、複製を困難にする実に有効な制約手段でもあった、ということです。解体された本が、製本という制約から解き放たれると同時に、一塊の物理的存在だったときに持っていたオーラというか物神性を喪失する、というか、ぼくの側が抱く、本の物神性という幻想/呪縛から解き放たれる感覚は、まさに、倒錯的な快感なんですねえ、これが。複製を困難にする制約と物神性の担保という異なる側面を併せ持つ《製本》という行為は、こう考えてみると、実に巧妙な文化装置だったわけです。いやはや。
[machiko] うーむ。いろいろ考えてしまいますね。
私自身は「本は大切に」とたたき込まれて育ったせいか、よく海外などで本の上にコーヒーカップを載せている人を見るだけで、背筋がぞくぞくとしてしまうほうです。
でも、本の非物質化自体には抵抗はなく、必要な資料が分厚い本のわずか数ページだったりすると、それをスキャンしてテキスト化したりします。雑誌はせっせと解体してスキャンします。それでも、やはり本を解体するのは相当に決意が要りそう。
ふと考えたこと。
いまどきの本はたいていディジタル製版だと思うのですが、そのデータが公開されていないために、ディジタルデータ→アナログ・物理的データ→ディジタルデータという不合理なプロセスを辿ることになるわけですね。アメリカでは図書館も含めて本のディジタルデータ提供が進んでいますが、日本ではどうなってるのでしょうか?
古書(江戸から明治の和綴じの本)については、おそらく解体してスキャン、プリントしたものが、製本してない状態でヤフーオークションに出ています。スキャンした画像データをCDで売っている場合もあります。資料としては、なかなか重宝です。和綴じの本は、解体するのにあまり罪悪感は無いかもしれない。糸でまた綴じればいいのですから。
もう一つ、ふと思ったこと。本にページが振ってなかったら、解体後は悪夢ですね。綴じるって、リニアにすることでもあるのかも。
[メンタルスタッフ] > オークション、というのもいいですね。問題は、ぼくに、実行に移す勇気があるかどうか、だけなわけですが。まあ、ぼくに出来ることといえば、 梶井基次郎の檸檬を気取って、図書館の不要図書コーナーにでも、そっと解体済みの本の束を置いておくことぐらいでしょうか。
これで気が付いたのですが、私は、生まれてから、古本屋に本を売った経験がないのですね。初めて本を売る時にはそれなりの「勇気」がいりそうです。
私の場合にも、本を売ることへの抵抗感に、その物神性が無意識的に影響しているのかもしれません。
二十歳以前に読んだような本でも、内容はすぐには思い出せないのに、本の姿形、紙の質は心の中に鮮やかに甦ります。においも出てくる。内容だけでなく、そんな、本の雰囲気が好きで本を選んでいたりもしていたかもしれません。
そんなことを考えてみると、本を楽しむという「文化」がある以上、物としての本は結構根強く残るのかな。
先月、Minskyが来て話をしたということもあって、彼が何年がかりかで書きあげた”Emotion Machine”という本、彼のサイトからダウンロードして、それをちらっと見たりもしたのですが、やっぱりAmazonから買いましたね。これなんかは、物神性というより、使いまわしというインターフェイスのよさでそうしているのではないかな。
Minskyは、その時に、「パブリッシャーの時代は終わった。」というようことを言っていました。一面そうかもしれませんが、そうすると、よい本がそれなしでは出てきそうにない出版の企画編集の役割を誰が担うのか、気になりますね。
[安斎利洋] すごいですね、論客がそろうとあっという間に「本」の問題系が、要素として見えてきます。
最近美大の学生と話をしていて、「本を作りたい」という言葉を何度か耳にしました。Webデザインでも、額に入る作品でも、立体でもなく、製本された本という表象の様式に関心をもっている、ということのようです。「本」あるいは「綴じる」ということは、機能であると同時にシンボルでもある。かたや本の背にギロチンを落とすわれわれがいて、かたや本を作ろうとする若者がいる。
本の物神性=本は記憶であるという認知的な問題、情報蓄積・保存メディアとしての本の特性、情報閲覧メディアとしての本の特性、知識を生み出す出版システムを何で代替するのか
これらもおそらく別々の問題じゃなく、多義的にからまっているところが面白い。
その前に小林さん、ギロチン本を“檸檬”するのはやめましょう。そのまま捨てられるか、そのまま再製本されて読まれるか。
[小林龍生]メンタルスタッフさんへ。
> これで気が付いたのですが、私は、生まれてから、古本屋に本を売った経験がないのですね。初めて本を売る時にはそれなりの「勇気」がいりそうです。私の場合にも、本を売ることへの抵抗感に、その物神性が無意識的に影響しているのかもしれません。
ちょっと長くなりますが、下記は、2001年に「京古本や往来」という京都の古書店業界の冊子のために書いた駄文です。(→次ページに続く)
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