Forumを中心とした活動も、ほぼ3年を経過しようとしている。デジタル時代の出版ビジョンを考え、提案し、実践しようという構想で始めたのだが、そろそろ締切りがきた。ITの世界に長くいて、テクノロジーとビジネスの噛み合わせの難しさは嫌になるほど体験したが、出版がIT業界より救いがあるのは、多くの人々に創造やコミュニケーションにおける活躍の場が与えられるということ。1980年代でビジネスモデルの進化が止まった日本のITに比べ、出版は無限に近いほどの可能性を秘めた、これからの産業だ。
「電子書籍元年」から3年余り経った。いっこうに離陸もしないがブームのように終息もしないところが、出版のデジタル化の重さと深さを示している。なぜ前進しないのか。多くの人が、まだこれをスクリーンで本を読むことだと考えているからだ。とくに「活字媒体」を神聖視する人々は、頑なに別の見方を拒否している。活字の神聖視は、軽視よりよいとしても、思考を止める害は大きい。活版とともに生れ、ワープロの登場で衰退した“旧活字派”は、なお出版界を支配している。紙という最後の砦があるからだ。しかし、紙の絶対性にいまいち確認がもてない人は、今度は「デジタル」を神秘化し、これがいかに難事業であるかということを言い出した。あれがない、これがない…というやつだ。
「電子化」は難しくない。難しいのは出版というビジネス
まず端末とフォーマットの互換性問題があった。標準があれば互換性問題は解消するのだが、2010年当時、EPUBは日本語組版(といっても縦組だが)には使えなかった。日本で通用する2つのフォーマットの「中間」仕様(文書)を国費で開発して、これを標準として共有ようということを主張し、実際に開発した。しかし、国の事業でつくった技術の常として、誰がどう使うのかが決まっていなかった。使われなくても誰も責任を問われないからだ。もちろん、お金だけはしっかり使われている。それに時間も。
三省デジ懇では、EPUB3日本語仕様の開発にも多少の予算が付いた。おかげでEPUB3という、新世代の世界標準にまともな日本語組版仕様が盛り込まれ、WebKitというオープンソース実装で対応出来たので、組版における互換性問題という、日本固有の問題は世界的レベルで解決した。日本語コンテンツ、あるいは日本の言語文化の国際化に道を開いたわけで、これは賞賛される、正しい国費の使い方といえる。これだけでも、三省デジ懇の成果は大きい。こちらはオープンソース実装も出来ているし、ブラウザでも使えるようになったから、出版の技術的・コスト的障壁は一挙に下がった。ワープロ→DTP→印刷版下という閉じた流れから、Web CMS(あるいはブログ)→EPUB/PDFというオープンな制作ラインが(多言語環境で)使えるようになったからだ。
Web (HTML)をベースとした制作環境は、特別なものではなく、追加投資なしで使える。金をかけて開発した中間フォーマットはまったく意味がない。電子化を「難事業」にしたい人たちは、これではまずいので、震災復旧支援の名を冠した「緊急」事業を考え出し、再び公的資金を導入した。今度は「フォーマット」ではなく、そのものズバリの電子化事業。「コンテンツが足りない」といって、既刊本「100万冊」の電子化に政府の支援を仰いだのである。その昔、「プログラマーが100万人足りない」と叫んで猫や杓子を「プログラマー」にした故事を思い出す。「100万」という数字は呪術的効果があるらしい。
「緊デジ」では足りないので、デジ機構は、さらに「産業革新機構」という経産省ファンドから投資を引き出した。借金だらけで増税「待ったなし」の状況にあるはずの政府が、気前よく出してくれた理由を、ここでは詮索しない。「投資」というからには回収、利益追求が伴うはずだが、事業主体である「出版デジタル機構」は具体的なビジネスモデルを発表していない。前回の発表会では、(やらないはずの)販売に関与して20%の手数料を得るというらしいが、流通・販売プラットフォームを持たない「機構」が、どうやって(著者印税に匹敵する)20%もの手数料を主張できるのかなど、肝心なメカニズム(機構)の妥当性や革新性について、関係者は口を閉ざしている。最近の日本は、ますます透明性がなくなり、説明責任が蔑ろにされているのだが、これもその一例か。
公的資金と関連業界からの出資を得て事業を行う企業には、一般企業以上の透明性が要求されるはずなのに、これは逆をいっている。不可解なことには、事業の立ち上げの先頭に立ってこられた植村氏が、発足したばかりの会社の社長から会長に「棚上げ」されている。理由は明らかでない。それに常勤役員がおらず、業務体制が不明なのは、この機構が、事業会社とは名ばかりの「トンネル」であることを物語っている。民間企業ならまともに商売をして欲しいのだが、「電子化」以上に事業が見えないのではどうしようもない。植村氏は以前「非競争領域」の活動を言われていたのだが、競争せずに20%というのは税金のようなものということだろうか。とすると『電子化」は、出版関係者(著者、出版社、印刷会社…)にとっても消費者、納税者にとってもえらく高いものになりそうだ。
出版とは「コンテンツ」があれば売れる、という単純なものではないことは、いまでは誰でも知っている。紙であろうがデジタルであろうが、コンテンツは、内容により、価格により、人により、売れたり売れなかったりする。古本屋で100円で買える「コンテンツ」を500円で買うために、2万円の端末や5万円のiPad(これが日本でいちばん売れている端末だろう)を買う人はまずいない。読みたい本をユーザーが自炊すると嫌がらせされる。出版社は、売れなければ電子化などしない。儲からなければ続けられない。逆に売れるなら制作費くらい賄える。印刷本の増刷と本質的には同じだ。国が金を出して、いくらかは「電子化」が進むとしても、売れなければ止まる。売れ残ったファイルはそのままでは使えない。もっとも、トンネルならいっこうに困らないだろうが。
サービスの相互運用性、協調性を実現するバーチャル・プラットフォーム
デジ機構の「電子化」とは、発表によれば、XMDFとドットブックのほかに、自炊式スキャン画像(PDFですらない)を生成することにあったようだ。EPUB3が外されたのは、上述した経緯からすれば当然だろう。誰でも作れ、いかようにも再利用できる仕様を認めてしまうと、官民で足並み揃える意味がなくなる(と考える)からだ。「中間フォーマット」まで飛ばしてしまったことに驚いた人もいるが、これをベースとしたツールが(おそらく誰も作らなかったために)一般に入手可能な形で存在していないからだろう。そもそもそうした環境の実用的な価値は当の関係者にさえ認められなかったと思われる。
「アマゾンだって独自フォーマットじゃないか」という人がいる。誤解されているようだが、コンテンツ・プラットフォームが独自フォーマットを使っているからといって、それだけで出版社と消費者にとって不都合なことは何もない。アマゾンは、EPUBファイルの入稿を認めているし、ユーザーはKindleからiPad、Androidを問わず、一度購入したコンテンツをどこでも読める。フォーマットやデバイスの違いを吸収する環境が出来ているからだ。アマゾンはフォーマットやデバイスでロックインしているわけではなく、価格とサービスの優越性でロックインしているので、ケチな仕掛けは要らない。KindleのファイルをEPUBに変換して読むことも出来る。現代はMS-DOSや専用ワープロの時代ではない。アマゾンに対抗するには、最低限、電子化に纏わる「フォーマット」の呪縛を完全に説き、サービスの相互運用性、協調性という段階に進む必要があった。
残念なことに、日本型ワンソース・マルチデバイスを標榜した三省プロジェクトは、当の関係者によって放置され、「元年」以前に回帰していったようである。じつは「ワンソース・マルチデバイス」のベースは、HTMLベースで提供されており、EPUB3日本語仕様によってまったくグローバルなものになった。われわれはこれを成し遂げた人々の(実質的に数十年にも及ぶ)努力の成果を生かし、その普遍性のベースに立って、グローバルな出版市場に乗り出していくことが出来る。仕事の中身に自信があれば、何も臆することはない。商売をするのに特別な「機構」は要らない。
アマゾンという、徹底して合理性を追求したサービス・プラットフォーム(エコシステム)に対して、著者と消費者に背を向けた閉鎖系では対抗できない。より徹底したオープン性のみが、明日を築くことになろう。これはITの世界で実際に起きたことだ。コンピュータ・ビジネスは、ハードから始まり、ソフトが分離し、さらにサービス中心に変わっていった。日本のITはついにハード中心から移行できず、ソフトで敗れ、サービス中心となって消滅しようとしている。日本語の特殊性を恃んでグローバルで通用するテクノロジーとビジネスを構築できなかったからだ。出版が同じ轍を踏むのは見たくない。次回では、筆者なりの「オープン・パブリッシング」のビジョンを提起してご批判を仰ぎたいと思う。(鎌田) 2012-06-02
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