著作権改革のためのフレームワーク [翻訳]

copyright_symbol著作権に関する議論は、どこか胡散臭い。5Wのコンテクストが外され、ただ「拡張と延長」そして「取締強化」にだけ誘導されているのだ。仮面を外した実際の顔を知ることが、誰にとっても重要になってきた。そこで、まず米国の有力な技術系ブログメディアTechdirtのマイク・マスニック編集長の了解を得て、最近米国での著作権改革について書いた論文を翻訳・掲載する。解説は別に書きたいと思うが、まずは著作権がいかに(国際的に)誤解・曲解されているかを知っていただければ幸いである。(鎌田)

「著作権改革のためのフレームワーク」 マイク・マスニック(Techdirt編集長)

techdirtA Framework For Copyright Reform,

by Mike Masnick, Techdirt, 05/17/2013

220px-Mike_Masnick下院の知的所有権小委員会の著作権改革に関する第1回公聴会を大部分見ていたが、やや失望感が残った。パネリストが様々な興味深い意見を開陳し、合意できることを見出そうと努力していたのに対し、下院議員たちの多くは、明らかに法律と議論されていることの本質を誤解していたのである。私はいくつかの大きな懸念を抱いたが、著作権に関するすべての議論が共有すべき枠組みのためのアイデアを考えついた。まずは懸念のほうから。

 懸念

  1. あまりに多くの下院議員が、憲法が述べていることを間違って理解していた。彼らは著作権が「憲法によって保障され」ているとか、議会に付託されている役割は科学と芸術の保護であると述べていたが、どちらも事実ではない。憲法の著作権条項は、議会に対し、科学および有用なる芸術の進歩を促進するために「排他的な権利を」付与する権限を与えている。すなわち、それは「進化を促進する」ためであって「保護する」ためではない。これらはまったく別のことだ。それは創作的活動とは無関係で、原典に従うならば、著作権はもっぱら科学に関するもので、それは「知ること」(learning)に重きが置かれている。憲法の立案者たちが、著作権によって追求しようとしたのは、学習と教育を促進することであり、エンターテインメント業界の特殊利害ではないのだ。今日それに使われていることは構わないが、娯楽産業を「保護」しなければならないことが憲法に書いてあるなどと言うべきではない。それは全く事実と異なる。その条項が述べていることは、事実上、私掠船に外国船の拿捕権限を与える許可状を発行する権限を議会に認めたものとなっている。もし著作権が憲法に保障されたものであるなら、それは拿捕許可状の発行を請求する権利を認めたものとなるだろう。
  2. 問題をいまだに「コンテンツ・クリエイター」と「IT産業」の間のバトルとして描いている議員があまりに多い。これは人を誤り導く危険な図式化だ。実際、ドイッチ下院議員は、いかなる改革においても「クリエイターとIT産業の利益を慎重に配慮すべきであると明言したが、あたかも当事者がこの両者だけであるかのようだった。しかし、ほんとうの利害関係者は、一貫して公共 (the public)である。公聴会ではほとんど言及されず、それもしばしば「ユーザー」という興ざめな言葉で語られていた。
  3. 最後に、規制の強化が必要であるという考えを擁護するために「誰もがなんとかタダで見たがっている」という神話が吐露された。しかしそれは真実から遠い。たびたび確認してきたように、実際には、消費者はこれまでにも増してエンターテインメントに金を遣っていることが統計的に確認されている。膨大な調査が示しているように、著作権を侵害することが多い人ほど購入する額が多いのだ。いい加減な神話にもとづいて良い政策をつくることは出来ない。そしてこれは神話だ。議論においては誤りとして排除されるべきだ。ポー議員が「著作権は冷戦を制した」と述べたことも気にしないが、いったいこんな連中をどうしたもんだろう。

原理的立脚点

以上を踏まえたうえで、もし私たちが著作権改革に真剣に取り組もうとするならば、少数の基本原理を出発点とすべきだろう。以下に問題を議論するためのフレームワークのたたき台に必要な予備的考察を示す。

  1. ほぼ誰でも、コンテンツ・クリエイターであると同時に消費者でもある。私たちは特別なクリエイターたちの懸念を繰り返し聞かされ、彼らが広汎な大衆とは無関係な、別種の人々であると信じ込まされている。それは馬鹿げている。とくに今日の著作権法では、およそ創作されたものなら、一定の表現形式で固定された瞬間、直ちに著作権の保護対象となるので、誰でもクリエイターなのだ。あなたが書くメールのほとんどは、たぶん著作権で保護される。そしてクリエイターは同時にコンテンツの消費者でもあり、もちろん職業的クリエイターも含まれる。職業的なコンテンツ制作には、しばしば他の作品の影響を受けて作り直したものがある。われわれはそれも考慮に入れなければならない。さもないと、私たちは著作権を職業的クリエイターのための福祉プログラムのように扱うことになるが、それは本来の趣旨からまったく外れてしまう。
  2. テクノロジーは道具に過ぎない。それはコンテンツ・クリエイターの競争者でも敵でもない。議員の多くが「コンテンツ対テクノロジー」という形で議論を提起するので、私たちは、現実とはほど遠い、非常に危険で歪められた軌道に屈しそうになる。ツールとしてのテクノロジーは、確かに在来のあるいは既存のビジネスモデルにとって難しい問題を生み出すが、それは巨大な可能性をも提供する。例えば今日のKickstarterのようなプラットフォームの成功が示している。「テクノロジー」企業の Kickstarter は「反」クリエイターであると正気で言える人はいるだろうか。同様に、Bandcamp、TopSpin、BandZoogle、ReverbNation、SongKick、Dropbox、SoundCloud、Netflix、YouTube、Facebook、Twitter、HumbleBundleなど、枚挙にいとまもないほどの新しいテクノロジー・プラットフォームを受け容れたことで成功を収めたアーチストはますます増えている。このリストは今後も絶えることなく増え続けるだろう。これらは道具であり、多くのコンテンツ・クリエイターがこれらを使い、かつてない形で作品を創作し、プロモートし、配信し、結びつけ、換金することが出来ている。IT企業がコンテンツ・クリエイターの成功に必要な最も有用なツールを提供している時代に、問題はテクノロジー対コンテンツにあると主張することは馬鹿げている。
  3. 法制度的選択には費用と便益 (costs and benefits)が伴う。等式の片側しか見ない提案はあまりに多い。著作権改革について有益な議論を行うには、様々な結論の費用と便益、条件ともたらす結果が、全体としての公共にとって持つ意味についての率直な考察を伴うものでなければならない。著作権法の目的が進歩の促進であることは明白である。私たちは個々の変更が、ほんとうに科学と有用なる芸術の進化を促進することにつながるかどうかを慎重に見極めなければならない。
  4. 決定は、実証的データに基づいたものでなければならない。過去に論じてきたように、歴史的に見て、著作権改革の議論はほとんどといっていいほど思い込みに基づいてきた。「誰もがなんとかタダで見たがっている」という主張が大いに問題なのはそのためで、これが真実から遠いことはデータが示している。最近、全米研究評議会 (US National Research Council)が著作権論争に有益な客観的調査研究を提唱したことは、この議論に有用なデータへの注目が高まることを期待させる。議会の選良たちも、紛れもなく間違った主張を真実に違いないと主張し続けるのを止め、実際にこうしたデータに関心を払っていただきたい。
  5. 最後に、最も重要な点だが、著作権の目的は不変で、科学と有用なる芸術の進歩の促進に置かれるべきである。それは特定の業界や階級を保護するものではなく、社会の進歩に最高度に役立つためにある。個々の提案はその基準で評価されるべきだろう。

たしかに簡単なことではないかもしれないが、著作権改革に関する議論は、こうした基本原理を出発点とすることで、有用で有益な成果が得られることになると思われる。

参考文献

copyright_reformCopyright in the Digital Era: Building Evidence for Policy, Stephen A. Merrill and William J. Raduchel, Editors; Committee on the Impact of Copyright Policy on Innovation in the Digital Era; Board on Science, Technology, and Economic Policy; Policy and Global Affairs; National Research Council, 2013, National Academies Press

Print Friendly