<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<rss version="2.0"
	xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"
	xmlns:wfw="http://wellformedweb.org/CommentAPI/"
	xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
	xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom"
	xmlns:sy="http://purl.org/rss/1.0/modules/syndication/"
	xmlns:slash="http://purl.org/rss/1.0/modules/slash/"
	>

<channel>
	<title>EBook2.0 Forum</title>
	<atom:link href="http://www.ebook2forum.com/feed/" rel="self" type="application/rss+xml" />
	<link>http://www.ebook2forum.com</link>
	<description>Framework of Electronic Publishing</description>
	<lastBuildDate>Thu, 02 May 2013 06:31:00 +0000</lastBuildDate>
	<language>ja</language>
	<sy:updatePeriod>hourly</sy:updatePeriod>
	<sy:updateFrequency>1</sy:updateFrequency>
	<generator>http://wordpress.org/?v=3.5</generator>
		<item>
		<title>「セルフパブリッシング」と出版の間</title>
		<link>http://www.ebook2forum.com/2013/04/how-different-is-self-publishing-from-normal-publishing/</link>
		<comments>http://www.ebook2forum.com/2013/04/how-different-is-self-publishing-from-normal-publishing/#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 28 Apr 2013 08:57:23 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Editor</dc:creator>
				<category><![CDATA[Book Industries]]></category>
		<category><![CDATA[Concept Sheet]]></category>
		<category><![CDATA[Content Business]]></category>
		<category><![CDATA[Industries]]></category>
		<category><![CDATA[Log Book]]></category>
		<category><![CDATA[Self Publishing]]></category>
		<category><![CDATA[Web Business]]></category>
		<category><![CDATA[出版ソリューション]]></category>
		<category><![CDATA[自主出版]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.ebook2forum.com/?p=10233</guid>
		<description><![CDATA[JEPAの主催した電子出版セミナー「EPUB25セルフパブリッシング狂時代」には残念ながら参加できなかったが、「セルフ」についての関心が高まっていることは感じ取れた。しかしいまだ訳語に躊躇している様子が気になる。カナ文字 [...]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><img class="alignleft  wp-image-10252" alt="70%" src="http://www.ebook2forum.com/wp-content/uploads/f1943132f9aede588e2553fbdca94bcd.jpg" width="173" height="118" />JEPAの主催した電子出版セミナー「EPUB25セルフパブリッシング狂時代」には残念ながら参加できなかったが、「セルフ」についての関心が高まっていることは感じ取れた。しかしいまだ訳語に躊躇している様子が気になる。カナ文字を使うのは、日本語に存在しない異質な概念として扱っているかのようだ。異質か否か？ここではあまり語られていない側面から述べてみたい。これは、出版の原点を確認しつつ再定義するシステムでありサービスなのだ。<span id="more-10233"></span></p>
<h3>「ふつう」の出版とどこで区別するのか、あるいは「ふつう」とは何か</h3>
<p>システム屋の友人がこぼしていたが、「定義」を問題にすると「そんなアカデミックな話を」と煙たがられるという。言葉で記述された要求を仕様化し、設計・実装するのがシステム開発なので、定義が曖昧なら、まともなシステムは出来ない。定義嫌いは設計嫌い（≒実装好き）に通ずる。すべて定義の上に構築されているシステムを扱う業界でさえ、定義を言えば嫌われる。筆者が知る限り、これは日本だけの特異な現象であり、日本がITの世界で後退を続ける原因だ。いまさら「論理的思考」を重視するのも悪くないが、議論の楽しさとルールを身につけるグループ学習が先だと思う。</p>
<p>定義は「コミュニケーションを円滑に行うために、言葉の意味や用法を明示する」ことのはずだが、日本では人間関係の円滑を損なうこともある（いやそちらのほうが多いとさえ思う）。筆者も子供時代から「理屈屋」と呼ばれて嫌われ、注意されたりして悩んだが、集団としての日本人は、定義(論理)より「空気」を気にする。聞き慣れないカタカナを使うのは、とりあえず括弧で括りたい異質さ、新奇さを感じるからだと考えている。取注のカタカナ語や略語なら、ブームとして盛り上げたあとで、「流行語大賞」とともにゴミ箱に捨ててもいい。</p>
<p><img class="alignright  wp-image-8616" alt="publish" src="http://www.ebook2forum.com/wp-content/uploads/publish.jpg" width="168" height="111" />他方、定義やそれを前提とした訳語を決めて受け容れてしまえば、実現不能であることが分かった時に、集団内外で問題の原因になるので、それを避けたい心情だ。あらかじめ定義を曖昧にしておけば、採用するにも捨てるにも責任が生じない。コトバのせいにすればいい。まことに日本的(?)。しかし、これでは大きなシステム（組織もその一つ）はまず動かない。動いているとすれば、すべてを吸収する、濃厚な人間関係のネットワークと、自明性 (of course assumption) を共有できる環境的な強制で動くということだと思う。</p>
<p>欧米や大陸アジアではそうはいかない。「自明」より定義に基づく「説明と命令」でないと、システムは拡大再生産されない。古代から、王は文字、暦法、度量衡から音律に至るまでの標準化を主宰したが、これこそが権力の源泉だったからだ。孔子は、衛君が先生に政治を任せたならまず何をなさいますか、という弟子の子路の質問に「必ずや名を正さんか」と言って呆れられている（<a href="http://kanbun.info/keibu/rongo1303.html" target="_blank">論語・子路13-3</a>）。名とは意味であり、意味が通じる範囲でしかまともな政治は出来ず、名を一貫させないと社会は成り立たないということだと理解しているが、状況によって勝手に意味を捩じ曲げたいのが人間だから、これはいつの時代も難しい。</p>
<p>さて「セルフ・パブリッシング」はなぜ出版ではないのか。英語の publish/publishing という言葉には主体や目的、方法、対象についての限定は一切ない。主体が個人であれ政府であれ企業であれ、目的が広報であれ金銭であれ、方法が活版であれDTPであれ、文書を公刊する行為と理解されているから、それに限定をつけて意味をさらに特定する。主体については、企業や政府機関がやるのは corporate publishing、出版を生業とする企業の場合は commercial publishing、学術機関のは academic publishing という具合。こられは発行主体による分類として使われている。</p>
<h3>セルフ・パブリッシングは出版<span style="color: #008000;">者</span>を顧客とするWebサービスである</h3>
<p><a href="http://en.wikipedia.org/wiki/Self-publishing" target="_blank">self publishing </a>は出版の主体を限定している。セルフサービスを連想するが、抽象化された「個」でもある。個人の出版だから、方法的にはDIY的な色彩を持つ。しかし本当のところ、<span style="color: #008000;">方法は重要ではあるが本質ではない</span>。というのは、この言葉はもともと想定顧客と、そのニーズを支援する<span style="color: #008000;">システム・ソリューション</span>とともに生まれたものだからだ。出版業界の関係者にとっては新奇な方法かもしれないが、出版のための生産・流通手段へのアクセスを持たないすべての個人あるいは組織が待ち望んでいた合理的なものだ。これは<span style="color: #008000;"> open publishing と呼ぶべき、21世紀最初の、巨大で破壊的(disruptive)なイノベーションの一部</span>なのだ。</p>
<p>だから「書いて、作って、売るという3つプロセスを一人でやること」と理解することも可能だが、むしろ<span style="color: #008000;">「出版に関わる一部（またはすべて）の工程をWebベースでやること」</span>としたほうがいい。現在のところ、ユーザーはもっぱら（出版のための十分な資金 and/or 技能 and/or 設備を持たない）著者だというだけの話だ。そうした点で、self publishing は、1980-90年代の電子出版であった <span style="color: #008000;">DTPの延長上にある</span>。DTPは当初、プロ用とは見做されなかったが、その後プロが当たり前に使うようになった。そしてDTPという言葉もあまり使われなくなった。デジカメも死語となりつつあるように。</p>
<p><img class="alignright  wp-image-10238" alt="author-services" src="http://www.ebook2forum.com/wp-content/uploads/author-services1.gif" width="346" height="346" />self publishingと同じ環境を、基本的にプロも使うようになるだろう。一部（またはすべて）の工程をWebベースに移行することが当然となるということだ。昨日までの常識では、「書いて、作って、売る」ことを一人でやるのは非現実的だった。現在もそうだ。著者兼編集者である筆者は、過去40年あまりの様々な出版物の、様々な制作現場について、ひと通りの見聞あるいは経験を持っているが、Webベースの出版がDTPと違うのは、たんに本づくりだけでなく、文字通り出版の全プロセスをオンラインで管理し、サポートを利用できること、その際に外部のサービス（プロフェッショナル・サービスから自動処理まで）を同じ環境で、かつ安価で使えることである。（→<a href="http://www.ebook2forum.com/2013/04/how-different-is-self-publishing-from-normal-publishing/2/"><span style="color: #ff6600;">次ページ</span></a>に続く）</p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.ebook2forum.com/2013/04/how-different-is-self-publishing-from-normal-publishing/feed/</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		</item>
		<item>
		<title>和本論からE-Bookへ(6)：Gのブラックホール</title>
		<link>http://www.ebook2forum.com/2013/04/from-wahon-to-ebook-6-renaissance-of-humanities-in-the-digital-age/</link>
		<comments>http://www.ebook2forum.com/2013/04/from-wahon-to-ebook-6-renaissance-of-humanities-in-the-digital-age/#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 01 Apr 2013 17:15:57 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Editor</dc:creator>
				<category><![CDATA[Concept Sheet]]></category>
		<category><![CDATA[Discussion]]></category>
		<category><![CDATA[Log Book]]></category>
		<category><![CDATA[グーテンベルク]]></category>
		<category><![CDATA[スカラリー・エディション]]></category>
		<category><![CDATA[人文学]]></category>
		<category><![CDATA[読書]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.ebook2forum.com/?p=10194</guid>
		<description><![CDATA[Humanities（人文学）は、古典古代からの伝統ある学問分野なのだが、科学主義の波に乗って社会科学が「分離独立」して以降、生彩を失って久しい。社会に次いで人間まで「科学」として分離されてしまっては、文献以外に頼りとす [...]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><img class="alignleft  wp-image-10201" alt="gutenberg_blackhole" src="http://www.ebook2forum.com/wp-content/uploads/gutenberg_blackhole.jpg" width="121" height="146" />Humanities（人文学）は、古典古代からの伝統ある学問分野なのだが、科学主義の波に乗って社会科学が「分離独立」して以降、生彩を失って久しい。社会に次いで人間まで「科学」として分離されてしまっては、文献以外に頼りとするものがなくなり、読者も減って、かつての諸学の王たちも見る影もなくなった。電子人文学 (Digital Humanities)はその限界を打ち破り、さらに公共電子人文学とすることで社会性を獲得することを目指すという。ではそれは本や出版とどんな関係にあるのだろうか。<span id="more-10194"></span></p>
<h3>人文学の凋落と知の迷路</h3>
<p><img class="alignright  wp-image-10206" alt="AristotleP1" src="http://www.ebook2forum.com/wp-content/uploads/AristotleP1.jpg" width="149" height="230" />人文科学とも訳される人文学は、本来は人間とその行為および社会を対象とする学問全般を指すが、今日では、主として文献に依拠する哲学、神学、宗教学、倫理学、文学、美学などに対して用いられている。人文学は本と関係が深い。西欧では古典、中国では経書があり、<span style="color: #990000;">まず</span>読むべきものとされてきた。そればかりではなく、本の発展とともにあった。古典の注釈によってテクストの「読み」を構造的に進化させていったからだ。ルネッサンス期の人文主義者<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%B8%E3%83%87%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%A0%E3%82%B9" target="_blank">エラスムス</a>は、ヴェネツィアの<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%89%E3%82%A5%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%8C%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A6%E3%82%B9" target="_blank">アルドゥス・マヌティウスに</a>協力して、ギリシャ・ローマの古典を数多く出版し、大きな影響を与えたが、アルドゥスが開発したフォントや携帯サイズの判型、ノンブルは、今日まで続いた“グーテンベルク本”の元祖だ。人文学は18世紀啓蒙思想をリードした。百科全書は出版の歴史の最も輝かしい1ページだ。本と出版が知的権威を持つのは人文学のオーラを背負っている。</p>
<p>しかし、いまは見る影もない。とくに哲学教育の伝統のない日本では、就職の役に立たず、たんなる教養の世界と見做されている。知を愛する(philo-sophia)ことがリーダーの条件とされなくなったので、18世紀後半から20世紀前半まで2世紀あまり続いた読書熱も完全に冷え固まった。欧米の若い人文系研究者からは、「日本人は本を読まず絵で用を足そうとする国民だと思われている」と永崎さんが言われていたが、大学生の過半数が本を読まず、勉強もしない（ことを何とも思わない）ところを見れば現実として受け入れざるを得ないだろう。識字率の高さというのは見せかけに過ぎないことは、すでにバレている。とはいえ、そもそも本を読まなくなった日本を除外して考えても、人文学の地位の低下は顕著だ。少なくともエリート以外には何で必要なのかが分からなくなっているからだ。</p>
<p><span style="color: #990000;">人間＝社会の学</span>（中心は哲学）から社会を切り離して社会科学とし、さらにその諸側面を経済学、政治学、地理学、法学などと分担して観察・分析を可能としたことで、確かに個々には「科学的」になったが、経済学をはじめとして、政治（権力行使をめぐる利害調整）に使われる存在で、真理とは遠く社会性はさらに薄い。社会科学は社会に関する「<span style="color: #990000;">ビュー</span>」を与えても、ますます全体性からは遠ざかる。目的と手段の関係、効果と副作用のバランスシートなどを説明できない。これは何も社会科学に限ったことではない。われわれは最近になって「原子力工学」なるものが存在しないことを知った。</p>
<p style="text-align: left;"><img class="wp-image-10209 aligncenter" style="margin-top: 15px; margin-bottom: 15px;" alt="Babel" src="http://www.ebook2forum.com/wp-content/uploads/Babel.jpg" width="537" height="404" />無数に細分化した「…学」は、無数の<span style="color: #333333;">ビュー</span>とそこから得られた知見や方法を与えるが、それらを<span style="color: #990000;">総合して全体を理解するには足りず</span>、それらを社会や人間に役立てることは出来ない。座標軸を示す人文学という全体性が欠けているからだ。個別の必要を満たす技術的手段の進化につながるだけである。人々は何が問題であるか、何が「正しい」かを考える方法を知らず、したがって議論もできない。価値中立的な「科学」ばかりを無数につくってきたせいで、価値（たとえば正義とか平和とか繁栄とか人権…）の問題を“社会”的に議論する方法すら知らないのだ。日中関係をどうするかから、モバイル・システムのデザインをどうするかまで、具体的な（つまり、生きた人間と社会が関係する）問題には役に立たないのだ。欧米では「人文系離れ」どころか「理工系離れ」が問題になっている。学生は使い捨てされることを恐れるからだ。（→<a href="http://www.ebook2forum.com/2013/04/from-wahon-to-ebook-6-renaissance-of-humanities-in-the-digital-age/2/"><span style="color: #ff6600;">次ページ</span></a>に続く）</p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.ebook2forum.com/2013/04/from-wahon-to-ebook-6-renaissance-of-humanities-in-the-digital-age/feed/</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		</item>
		<item>
		<title>書評：出版未来派のデジタル革命宣言</title>
		<link>http://www.ebook2forum.com/2013/03/book-review-on-the-book-a-futurist-manifesto-japanese-edition/</link>
		<comments>http://www.ebook2forum.com/2013/03/book-review-on-the-book-a-futurist-manifesto-japanese-edition/#comments</comments>
		<pubDate>Sat, 30 Mar 2013 11:38:46 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Editor</dc:creator>
				<category><![CDATA[Book Industries]]></category>
		<category><![CDATA[Content Business]]></category>
		<category><![CDATA[Editors' Note]]></category>
		<category><![CDATA[Log Book]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.ebook2forum.com/?p=10162</guid>
		<description><![CDATA[「本の未来」について、この数年さまざまに語られている。いやコンピュータが登場して数十年、語られ続けてきた。うんざりだろう。しかし、幸いにも本書は「本の未来」を語ったものではない。著者たちは実践的立場からこの「未来」に関わ [...]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><img class="alignleft  wp-image-10163" alt="Futurist" src="http://www.ebook2forum.com/wp-content/uploads/Futurist.jpg" width="106" height="147" />「本の未来」について、この数年さまざまに語られている。いやコンピュータが登場して数十年、語られ続けてきた。うんざりだろう。しかし、幸いにも本書は「本の未来」を語ったものではない。著者たちは実践的立場からこの「未来」に関わってきており、本書は、出版という場で「未来」を現在として創ってきたテクノロジストのマニフェストだからだ。多くはE-Book2.0 Magazineでおなじみの顔ぶれだ。ということで、情報は非常に豊富で、筆者にとっては斜め読みにするわけにはいかない。<span style="font-size: x-small;">（ヒュー・マクガイア、ブライアン・オレアリ編著『マニフェスト-本の未来』、ボイジャー刊、2013年2月）</span><span id="more-10162"></span></p>
<h3>未来とは予測ではなく実践である</h3>
<p><img class="alignright size-full wp-image-10181" alt="Brian_web" src="http://www.ebook2forum.com/wp-content/uploads/Brian_web.jpg" width="91" height="120" /><img class="alignright size-full wp-image-10182" alt="hugh_McGuire_web" src="http://www.ebook2forum.com/wp-content/uploads/hugh_McGuire_web.jpg" width="94" height="120" />ひと通り紹介をしておこう。本書（原著は2012年1月）はデジタル出版ビジネスの第一線で活躍するヒュー・マクガイア（写真左）、ブライアン・オレアリ（右）の両氏が、その最前線で様々な課題に取り組んでいる人々による、トピック別エッセイを集めて構成したアンソロジーの体裁になっている。デジタル比率がほぼ25%を超えた米国の出版界で何が起きているかを、現実的課題に取り組む当事者から聞く機会として貴重なものである。TOCやDigital Book Worldなど、イベントはそうした機会なのだが、これだけの話を数日間で聞くのは不可能であり、本書は3,000円近いがコスト・パフォーマンスは高い。これまで「本の未来」について語った本とはまったく異質であり、実務的で情報量は非常に多い。使える本だ。欲を言えば、もう少し前に出ていたらよかった。</p>
<p>原題が「未来派による宣言 (Book: A Futurist&#8217;s Manifesto)」とあるように、本書は一定の傾向を反映していることにまず注意したい。DRMとかメタデータ、読書体験、といったテーマを様々な立場の人が論じた27本の小論（各10ページ前後）は3部に構成され、Part 1.は現在のアプローチ、Part 2.で次のステップを論じ、Part 3.で最先端プロジェクトを述べる。合計330ページだが、それぞれ無駄なく要所を押さえている。2012年は（米国では）デジタル出版が第2ラウンドに向かう転換点として位置づけられており、本書の著者たちの認識やアプローチは「デジタル出版革命」の記録としても価値が高い。これからデジタル出版に取組まれる方には必読書と言えるだろう。</p>
<p>グーテンベルク時代の本と出版をデフォルトとしている人には、何か違和感が感じられるかもしれない。その違和感は重要な意味を持っている。ここで語られているのは同じ「本」ではない。未来派の「本」がどのようなものかは、冒頭のブライアン・オレアリの「コンテナではなく、コンテキスト」に端的に述べられている。ひと言でいえば、<span style="color: #990000;">本を「<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%A0http://" target="_blank">システム</a>」、出版を「プロジェクト」として考える</span>ということだ。そこではプロダクトよりプロセスが重視される。つまり彼らはテクノロジストあるいはエンジニアである。商品である「本」を神秘化するフェチシズムや、ゲートキーパーを気取るスノビズム、あるいは「良い仕事」だけを心掛けるクラフツマンシップといったものからは遠いところにいる。</p>
<h3>出版とはプロセスであり工学的に設計、最適化される</h3>
<p>未来派は工学的な発想をするが、出版の技術的側面だけを扱うのではない。<span style="color: #990000;">出版そのものを技術的・工学的プロセスで考える</span>のだ。日本では、出版は作家に近いところにいる「文系」の世界と考えられているので、これにはなじめなくても仕方がない。しかし、本をシステム（機能と構造）として考える未来派は、すでに世界の大出版社の戦略をリードする存在になっている。出版とはプロセスであり、刊行後がより重要であるというコンセプトは、Webを前提として機能するものだが、マーケティングにおいて結果を出しており、顔をそむけていられる時間は日本でもそうない。</p>
<p style="text-align: center;"><img class="aligncenter size-full wp-image-10173" alt="xml-readiness" src="http://www.ebook2forum.com/wp-content/uploads/xml-readiness.jpg" width="564" height="423" /></p>
<p>上の図を見ていただきたい（見にくくて恐縮だが、多少ましなのが<a href="http://book.pressbooks.com/chapter/context-not-container-brian-oleary" target="_blank">こちら</a>にある）。図は「コンテンツのXMLへの対応度」をマトリクスにしたもの。本書では図1-1にあり、いわば<span style="color: #990000;">未来</span>へのマップだ。縦軸がコンテンツの複雑さ、横軸が再利用の頻度となっているが、高いものほどXMLの有効性が高く、技術的サービスの付加価値が高い。「誰が、いつ、何の目的で、どんな形で…」必要としたいか、というコンテクストはXMLで扱うことができるから、そのぶん情報サービスに（つまりWeb）近くなると言えるだろう。現実のE-Book市場は、左下の、データ構造が単純な小説などから動き始めた。ここではマーケティング(消費者)のコンテクストを握っているアマゾンなどが圧倒的な優位を占める。しかし、<span style="color: #990000;">コンテンツ自体が複雑になって行けば、データ構造は著者・編集者・プログラマーの手に委ねられる</span>（その気があればだが）。出版者はそれによって読者、ユーザーと深く結びつくことができるので、アマゾンの優位も相対化することができる。</p>
<p>原著の出版社のオライリーなどはE-Bookを直販しているが、コンテンツの構造を深化させるビジョンを描いている。他方でGoogleなどは、コンテクスト（メタデータ）を出版社から吸収し、マネタイズするプラットフォームを構築して対応している。Zagatを買ったり、旅行ガイドのFrommer&#8217;sを買収して紙の出版をあっさり“廃止”したのはそのためだ。 本書はこのように、現実のデジタル出版市場で起きていることの背景を知るのに使える。</p>
<p>本と出版は、その時代のテクノロジー（情報技術、産業技術）の集積であり、それは記録手段が粘土板やパピルスであった時代からそうである。グーテンベルクは活版印刷を発明したのではなく、金属活字やインクといった技術を「使える」ものとするために心血を注いだ。しかし15世紀に彼の制作した活字本は写本のレプリカであり、今日の人々がまず考える「紙の本」のスタイルが確立するにはなお半世紀あまりを要した。それは宣教師たちによって日本にも伝来したが、定着しなかったのは、それを展開させる技術的、産業的土台がなく、また人々が「読む」うえで不可欠と考えた連綿体（続け字）を扱えず、木版のほうに合理性があったためである。技術を継続・発展が可能な形で定着させるのは簡単ではない。テクノロジーは種子にすぎず、人々がそれぞれの場で再創造しなければ実現しない。</p>
<p>「日進月歩」とか言われるデジタル時代においても、それは何も変わらない。本書の著者たちや発行者・ボイジャーの萩野さん、それに筆者も「本の未来」は20年以上前に体験していた。しかしそれらは出版の現実とはならなかった。それは技術であり、ビジネスになるためにはインターネットなどの環境の成熟を待つしかなかった。いや待っていたら何も起きない。実践家たちは、前進と後退を何度も繰り返した。完成した文字組版、対話型インタフェース、動的コンテンツ、知識ベースなどの技術は、プラットフォームがデスクトップからLANに、そしてインターネットに移行するたびに、何度も組み立て直さなければならなかった。ビジネスモデルは錯綜し、ビジネスは遠ざかった。結局それはアマゾンによって、<span style="color: #990000;">クラウドとデバイス</span>という基本形で実現されたわけだが、それは「本の未来」を実現しようとしてきた人たちにとっては一つの形であり、入口がそこにあったということに過ぎない。<span style="color: #990000;">入口は未来ではない</span>。本書はそうした意味で、これから「未来」を実現するためのガイドとなるだろう。未来はやってこない。やってくる未来は現実である。（鎌田、2013-03-30）</p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.ebook2forum.com/2013/03/book-review-on-the-book-a-futurist-manifesto-japanese-edition/feed/</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		</item>
		<item>
		<title>和本論からE-Bookへ(5)：学術版と公共的読書空間</title>
		<link>http://www.ebook2forum.com/2013/03/from-wahon-to-ebook-5-digital-scholarly-edition-of-buddhist-sutra/</link>
		<comments>http://www.ebook2forum.com/2013/03/from-wahon-to-ebook-5-digital-scholarly-edition-of-buddhist-sutra/#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 25 Mar 2013 12:45:36 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Editor</dc:creator>
				<category><![CDATA[Concept Sheet]]></category>
		<category><![CDATA[Discussion]]></category>
		<category><![CDATA[Log Book]]></category>
		<category><![CDATA[グーテンベルク]]></category>
		<category><![CDATA[スカラリー・エディション]]></category>
		<category><![CDATA[大蔵経]]></category>
		<category><![CDATA[拡張E-Book]]></category>
		<category><![CDATA[読書]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.ebook2forum.com/?p=10144</guid>
		<description><![CDATA[小林(龍生)さんの困ったところは ―もちろん最大の長所なのだが― 面白いネタと手掛かりを人の前に投げ出し、こちらがとびつくと、すぐまた別のものを目の前にちらつかせるところだ。来月号の入稿が迫っている時に、一刻も待てない別 [...]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><img class="alignright  wp-image-10148" alt="daizokyo_taisho" src="http://www.ebook2forum.com/wp-content/uploads/daizokyo_taisho.jpg" width="110" height="157" />小林(龍生)さんの困ったところは ―もちろん最大の長所なのだが― 面白いネタと手掛かりを人の前に投げ出し、こちらがとびつくと、すぐまた別のものを目の前にちらつかせるところだ。来月号の入稿が迫っている時に、一刻も待てない別のアイデアを持ってこられる。漫談にはあまりに惜しく、こちらは何か成果をモノにしないといけないと思うから、メモリもCPUもOSも旧式な頭にウィンドウが次々に開いて困惑するほかない。今回はほとほと参った。せめて記憶が鮮明なうちに、「実感と断定」という最も素朴な方法で印象をメモしておきたい。<span id="more-10144"></span></p>
<h3></h3>
<p>各テーマ（＝ノード）の関連を整理するには、対象がすべて写るようにピントと絞りを調整すると同時に、個々の立体的位置関係を再確定しなければならない。そんなことを本気でやったら10年はかかりそうなので、仮説に仮説を繋ぎ、端切れを接ぎ合わせて大風呂敷をつくり続ける羽目になる。村田(真)さんからは、いい加減、仕様化すべきものを出してもらわないと…、と責められるし、「幹事」として苦しい立場に置かれているのだが、今回はほとほと困った。</p>
<h3>大蔵経データベースのおもしろさ</h3>
<p>まず、予習をする暇もなく、<a href="http://www.dhii.jp/nagasaki/pro.html" target="_blank">永﨑研宣</a>さん（<a href="http://www.dhii.jp/" target="_blank">人文情報学研究所</a>）による「大正新脩大蔵経の電子化をめぐるスカラリー・エディションの諸問題」という、アカデミックな響きのするテーマに向かうことになった。前回は近藤泰弘先生から<a href="http://www.ninjal.ac.jp/research/project/a/corpus/" target="_blank">「通時コーパスの設計」プロジェクト</a>をめぐるお話をいただき、古典を翻刻・再現する場合に問題となる日本語／表記の問題を議論した。今回もその延長上で考えていたのだが、さすがに相手が日本の古典ではなく、2000年以上の歴史を持つ世界宗教ともなると、グローバルな方法論、技法、環境が問題となる。筆者には未知の領域だが、これは興奮するほど面白そうだ。それに「脱G」には不可欠な要素でもある。</p>
<p><img class="alignleft size-full wp-image-10153" alt="daizokyo" src="http://www.ebook2forum.com/wp-content/uploads/daizokyo.jpg" width="192" height="144" />大蔵経とはいわゆる「一切経」と同じく、仏教におけるすべての<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%8C%E5%85%B8" target="_blank">経典</a>を意味する。1000頁×85 (+別巻15)巻、約1億字にもなる巨大な仏典集成で、<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%BA%AB%E5%85%A8%E6%9B%B8" target="_blank">四庫全書</a>（約36000冊、230万ページ、10億字）に次ぐ規模。日本では明治期の「大日本校訂大蔵経」（縮刷大蔵経、東京弘教書院、1885）に続き、大正－昭和にかけて、民間人による一大事業として完成したのが<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E6%96%B0%E8%84%A9%E5%A4%A7%E8%94%B5%E7%B5%8C" target="_blank">「大正新脩大蔵経」</a>（大正一切経刊行会）である。国際的なリファレンスブックに指定されているので、各国の学術図書館に常備されている。史上初の洋装本ということで可用性が高まり、言語や版本による異同など、国際的な比較研究に寄与した意味は計り知れない。<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B2%E6%96%99%E6%89%B9%E5%88%A4" target="_blank">テキストクリティーク</a>などは出版によって前進するもので、<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A5%A0%E9%A0%86%E6%AC%A1%E9%83%8E" target="_blank">高楠 順次郎博士</a>の世界的な偉業は讃えられる。（写真は韓国・伽倻山海印寺・大蔵経経板閣の内部）</p>
<p>さて、こうした人類的な知の遺産はいま電子化が進んでいる。電子化には画像化とテキストデータベース化（電子的翻刻）2つのアプローチがあり、どちらも価値があるが、活字出版的な意味からは後者がより重要だ。読書につながるからである。すべて<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%BA%97%E5%85%AB%E8%90%AC%E5%A4%A7%E8%94%B5%E7%B5%8C" target="_blank">高麗八萬大蔵経</a>を底本とする大藏經のテキスト化は、日本の<a href="http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/" target="_blank">大藏經テキストデータベース研究会(SAT)</a>と、台湾・<a href="http://www.cbeta.org/" target="_blank">中華電子佛典協會(CBETA)</a>、<a href="http://kb.sutra.re.kr/ritk/index.do" target="_blank">高麗大蔵経研究所</a>でそれぞれ行われている。韓国のプロジェクトは民族的・歴史的意義を強調しており、これがなかなかに容易ならざるものであることを物語っている（例えば<a href="https://www.koreana.or.kr:444/months/news_view.asp?b_idx=1871&amp;lang=jp&amp;page_type=list" target="_blank">Koreana記事</a>参照）。古典の集成は古来、王朝や民族の文化的・道徳的正統性を示すプロジェクトだった。台湾、韓国の熱中は、その系譜を継承しており、デジタルになって再燃した観がある。中国の“参戦”も疑いの余地はない。こうした競争は結構なことだ。もしほんとうに読まれることにつながるのならば。</p>
<h3>スカラリー・エディションからパブリック・エディションへ</h3>
<p>古典の翻刻には、収録範囲、底本、校勘、異体字の処理方針など様々な編集上の問題があり、だからこそ「スカラリー・エディション」が問題となる（なぜ校訂版と言わないかというと、価値的に中立で相互比較可能であることを意味しているという）。さて、テキスト化には原典の符号化、構造の表現などが絡む。電子化とは標準化を意味するほどで、標準がないと賽の河原状態になってしまう。前者はUNICODEの守備範囲だが、後者はどうだろう。</p>
<p><img class="alignright  wp-image-10154" alt="TEI" src="http://www.ebook2forum.com/wp-content/uploads/TEI.jpg" width="135" height="135" />1960年代からマークアップの山が築かれた後で、1980年代に<a href="http://www.tei-c.org/index.xml" target="_blank">Text Encoding Initiative (TEI)</a>が生まれ、公的補助を受けてメタデータのルールセット（<a href="http://www.tei-c.org/Guidelines/P5/" target="_blank">ガイドライン</a>）がつくられてきた。これはXMLで記述されており、エディター（TEIドキュメントの生成）のほか、HTMLや LaTeX、XSL:FOなどへの変換<a href="http://www.tei-c.org/Tools/" target="_blank">ツール</a>やスタイルシートも出来て使われている由。TEIのサイトを見たら、国際化<a href="http://e-words.jp/w/I18N.html" target="_blank">(i18n</a>)もしっかり取り組まれており、ドキュメントおよび要素と属性名の翻訳は5つの言語（仏西独中日）で作業中。これがあればEPUBとのリンクも可能で、たとえば『聖書』や「般若心経」からプラトンの『国家』、ニュートンの『自然哲学の数学的諸原理』等々の古典のアカデミックな研究の動向に一般読者が触れ、議論に参加することもできる。</p>
<p>さて、これだけのことをやって、あるいは何の意味があるのか。何がうれしいのか、と思う方も多いだろう。それは<span style="color: #800000;">「読書」行為の通時的・共時的な拡張</span>にある。TEIのミーティングにも参加されている永崎さんが、電子的なスカラリー・エディション（以下ESE）のイニシアティブが欧米において人文学復興の意図から推進されていると指摘された時、筆者は驚くと同時に頭の中で何かが弾け、少しばかり腑に落ちる感じがした。Public Humanitiesとか、<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%B8%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%92%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%82%BA" target="_blank">Digital Humanities</a>、それらを合わせたPublic Digital Humanitiesというコンセプトも出来ていたらしい。知らなかった。すごい！　（続く）</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>public digital humanities</p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.ebook2forum.com/2013/03/from-wahon-to-ebook-5-digital-scholarly-edition-of-buddhist-sutra/feed/</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		</item>
		<item>
		<title>和本論からE-Bookへ(4)：出版のエコシステムとは</title>
		<link>http://www.ebook2forum.com/2013/02/from-wahon-to-ebook-three-dimensions-of-publishing-ecosystem/</link>
		<comments>http://www.ebook2forum.com/2013/02/from-wahon-to-ebook-three-dimensions-of-publishing-ecosystem/#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 19 Feb 2013 15:54:46 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Editor</dc:creator>
				<category><![CDATA[Concept Sheet]]></category>
		<category><![CDATA[Discussion]]></category>
		<category><![CDATA[Log Book]]></category>
		<category><![CDATA[エコシステム]]></category>
		<category><![CDATA[ポスト・グーテンベルク]]></category>
		<category><![CDATA[和本]]></category>
		<category><![CDATA[拡張E-Book]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.ebook2forum.com/?p=10118</guid>
		<description><![CDATA[前回述べた、脱グーテンベルク(G)研究会の方向性をもう少し敷衍してみたい。和本エコシステムを生成・発展・消滅というライフサイクルで見たことで、エコシステムを成り立たせているもの、時には消滅にも導くものに目を向けることにな [...]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><img class="alignleft  wp-image-10124" style="margin-left: 0px; margin-right: 15px;" alt="boat" src="http://www.ebook2forum.com/wp-content/uploads/boat.jpg" width="238" height="102" />前回述べた、脱グーテンベルク(G)研究会の方向性をもう少し敷衍してみたい。和本エコシステムを生成・発展・消滅というライフサイクルで見たことで、エコシステムを成り立たせているもの、時には消滅にも導くものに目を向けることになった。これは紙の大量生産と紙製品としての書物の消費の上に成立してきたG的エコシステムの行方をどう予測し、どう対応すべきかを考えるのに役立つ。（鎌田博樹）<span id="more-10118"></span></p>
<h3>和本を通じてグーテンベルクの銀河の発展的継承を考える</h3>
<p>これまで筆者は、出版をエコシステムとして考え、活字・機械印刷・冊子本として特徴づけられるグーテンベルク以後のエコシステムを構想しようとしてきたのだが、和本の世界に触れたことで    かなり見方が変わってきた。これまでは本(書物)とその制作、流通に関わる主体を中心に見て、デジタルにおけるその組み替えというほうに目が行っていたのだが、千年あまりの命脈を保った和本エコシステムのライフサイクルをなぞってみて、エコシステムを成立させている環境というものが見えてきた。</p>
<p>イメージを語ってもしょうがないので、図にしてみたのが図1である。エコシステムは、著者と読者、その間のコミュニケーションを媒介する書物という3つの関係によって成立している。この三角形の中に</p>
<ul>
<li>　構造と表現</li>
<li>　著述と創作</li>
<li>　読書と教育</li>
</ul>
<p>という3つの小三角形が生まれ、その結果成立するのが出版のエコシステムであると考えられる。出版は必ずしも独立した商業的活動であるとは限らない。むしろ<span style="color: #990000;">書物を媒介にしたコミュニケーション</span>の中で成立するもので、周辺の環境、たとえばコミュニケーションの手段とコスト、読者の規模と能力といった（技術的、経済的、社会的…）要因によって最適な構成はダイナミックに変化する。この図はかなり汎用性がある。かつては出版のエコシステムを中心に考えていたのだが、それでは繁栄したエコシステムの消滅を説明できない。</p>
<p style="text-align: center;"><img class=" wp-image-10128 aligncenter" alt="trinity_1" src="http://www.ebook2forum.com/wp-content/uploads/trinity_11.jpg" width="540" height="424" /></p>
<p>結局、本質はコミュニケーションにあり、これを忘れてはいけない。ヒトが言葉とともに生まれたかどうかは分からないが、最も重要なコミュニケーション手段は言葉であると言ってよいだろう。しかし絵は文字に先立って生まれ、むしろ文字の誕生を媒介した。絵文書や絵巻にみられるように、絵と文字は、書物の歴史において等しく重要なものである。活字の圧倒的優位は近代のもので、万古不易などではない。</p>
<p>言葉による豊かなコミュニケーションは、書物や文字のない時代にも存在したが、書物によってその性格は大きく変わった。記憶より記録ということだが、情報を構造的に表現できるようになったことが大きい。車輪を再発明しなくてもよくなったので、言語＝知識空間の探求と組み替えが活発化し、書物へのアクセスを独占していた知識層のレベルはどんどん向上していった。読者は著者と身近な知識層、あるいはその候補だった。洋の東西を問わず、「知は力なり」の力は、王権を意味していた。王権の弱い日本でも、主として仏教を通して世界が開かれていた。当たり前のことかもしれないが、どこの国でも、知識層だけをとってみれば、近代的出版の誕生以前の書物は、質的には十分そのニーズに応えるものだったと言えるだろう。</p>
<h3>和本アーキタイプの価値</h3>
<p>西欧近代は、王権とともにあった知識を「市民」に開放する形で始まった。出版はその手段であるが、何よりも生産性が重視され、15世紀当時の冊子写本のスタイルに似せた、活字、機械印刷、冊子本というスタイルをもとに生産性が追求されていった。これが書物の基本的イメージを規定し、著者も出版社も、この形を「本」と同一視するに至った。Webは、巻子本以来はじめて情報を「ページ」から解放したが、E-Bookにおいても、まだこのスタイルが踏襲されたものが主流なのは、著者による記述や編集者、デザイナーの頭の中にある「本」のイメージのせいだ。彼らはこの共有されたアーキタイプ(祖型)に沿って書き、レイアウトし、制作し、流通させる。このアーキタイプが拡張されないと、デジタルの可能性は生かせないのだ。</p>
<p style="text-align: center;"><img class="aligncenter  wp-image-10130" alt="Trinity_3" src="http://www.ebook2forum.com/wp-content/uploads/Trinity_3.jpg" width="480" height="486" /></p>
<p>橋口和本論から始めることで、私たちは書物のアーキタイプにG以外のもの（すなわち絵巻、草紙、漢籍）が存在し、近代まで使われていたこと、そこでコミュニケーションが活発に行われ、独自の知的価値が再生産されていたことを知った。和本アーキタイプはGの技術では再現不能であり、滅亡に至ったのだが、そこで失われたものを確認することで、脱Gの方向性は（少なくとも1990年前後にハイパーテキストを経験した筆者にとって）かなり鮮明になった。非Gのアーキタイプを再現することなしには、そしてそれらとGとの間の断絶を埋めることなしには、脱Gはにおける出版の再構築には至らないだろう。</p>
<p><img class=" wp-image-10132 alignright" alt="Trinity_2" src="http://www.ebook2forum.com/wp-content/uploads/Trinity_2.jpg" width="320" height="253" /></p>
<p>これまで脱G研究会はアーキタイプとしての和本から入って、そこで発展した知識空間、コミュニケーション空間を意識することになった。昨日書いたように、2ndレグでは知識のコミュニケーション（書物の機能性）を、3rdレグでは「読者と読書空間」から書物の社会性というテーマに進む。先ほどの図でいえば、これでかつて存在した非Gエコシステムの全体が明らかになり、それによりGとは何だったのか、脱Gとは何でなければならないかが見えてくるはず、という目論見である。（右の図）</p>
<p>脱Gのイメージを、私たちは様々に構想することが出来る。たとえば誰でも「著者」になれるが、「出版」しただけでは著者と見做されないかも知れない。過去の著作・創作が読者にも著者にも開放されているので、独自の価値（著作性）を主張することが逆に難しくなるかもしれない。読者は、他の読者や著者とコミュニケーションしながら関心を形成するのでメディアの役割は低下する。あるいは出版社はメディアにならなければ生き残れない、とか。しかし、テクノロジーは人間が使うためにある。私は脱Gの方向を、コミュニケーションにおける「非Gの復活・再現」と「Gの継承・総合」として考えている。それが歴史的必然性を持っているならば、エコシステムは自ずと形成してくるはずだ。（鎌田博樹）</p>
<p><img class="aligncenter size-full wp-image-10133" alt="Trinity_4" src="http://www.ebook2forum.com/wp-content/uploads/Trinity_4.jpg" width="600" height="473" /></p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.ebook2forum.com/2013/02/from-wahon-to-ebook-three-dimensions-of-publishing-ecosystem/feed/</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		</item>
		<item>
		<title>和本論からE-Book(3)：書物とコミュニケーション</title>
		<link>http://www.ebook2forum.com/2013/02/from-wahon-to-ebook-3-an-extended-framework-for-approaching-beyond-gutenberg/</link>
		<comments>http://www.ebook2forum.com/2013/02/from-wahon-to-ebook-3-an-extended-framework-for-approaching-beyond-gutenberg/#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 18 Feb 2013 11:43:52 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Editor</dc:creator>
				<category><![CDATA[Concept Sheet]]></category>
		<category><![CDATA[Discussion]]></category>
		<category><![CDATA[Log Book]]></category>
		<category><![CDATA[ポスト・グーテンベルク]]></category>
		<category><![CDATA[和本]]></category>
		<category><![CDATA[拡張E-Book]]></category>
		<category><![CDATA[日本語通時コーパス]]></category>
		<category><![CDATA[読書空間]]></category>
		<category><![CDATA[近藤泰弘]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.ebook2forum.com/?p=10082</guid>
		<description><![CDATA[和本論から始まった脱グーテンベルク研究会の第3回（2月1日）は、近藤泰弘教授（青山学院・日本語学）を迎え、古典を翻刻・再現する場合に問題となる日本語／表記の問題を考える機会を得た。コミュニケーションの空間を規定する言語は [...]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><img class="alignleft  wp-image-10090" style="margin-left: 0px; margin-right: 15px;" alt="communication_model" src="http://www.ebook2forum.com/wp-content/uploads/communication_model.png" width="210" height="210" />和本論から始まった脱グーテンベルク研究会の第3回（2月1日）は、近藤泰弘教授（青山学院・日本語学）を迎え、古典を翻刻・再現する場合に問題となる日本語／表記の問題を考える機会を得た。コミュニケーションの空間を規定する言語は「生きもの」であり、社会的に多様であると同時に歴史的に変遷している。そしてそのあり方は言葉の容器としての書物の形態に依存する。言語と書物そして読書行為にまで踏み込むには、さらに大きめのテーマ設定が必要になってきた。そこでことしの秋までは続きそうな新しいフレームワークについてお話してみたい。　（鎌田博樹）<span id="more-10082"></span></p>
<h3>歴史を通してみた言語と表記問題</h3>
<p><img class="size-full wp-image-10085 alignright" style="margin-left: 15px; margin-right: 0px;" alt="Kondo" src="http://www.ebook2forum.com/wp-content/uploads/Kondo.jpg" width="102" height="102" />近藤先生が関わっておられる国立国語研究所の<a href="http://historicalcorpus.jp/" target="_blank">「通時コーパスの設計」プロジェクト</a>は、古典語の通時的データベースとなるもので、小学館「新編日本古典文学全集」をもとに、古今和歌集、土佐日記、竹取物語、伊勢物語、落窪物語、大和物語、枕草子、源氏物語、紫式部日記、和泉式部日記 (10 作品)から、全体で約80万語（うち50万は源氏）を収録している。後半の議論を含めて白熱した近藤先生の講義については機会を改めたいが、冒頭で紹介された「<a href="http://togetter.com/li/434271" target="_blank">青空文庫はアブナイ？</a> 」に<a href="http://bit.ly/YjZ0Z5" target="_blank">「日本語研究者から一言」</a>というTogetter記事は、複雑で専門的な翻刻問題の本質を、今日的で明快なものとして見事に語っていた。</p>
<p><img class="alignleft  wp-image-10104" style="margin-left: 0px; margin-right: 15px;" alt="botchan" src="http://www.ebook2forum.com/wp-content/uploads/botchan.jpg" width="99" height="149" />青空文庫の「坊っちゃん」で、名詞の「話」に「し」を送ってあったのを「こんな杜撰な不正確なテキストで漱石作品が広まることを、とても悲しく思います。」と悲憤慷慨した人のTwitter投稿をきっかけに起きたこの小論争を、先生は見逃さなかった。原著者さえ使っていた「話し」をどう表記するかで怒り狂う人もいるほど、書物のコミュニケーション空間は奥が深い。原文を尊重する、という時の「原文」とは何か、表記によってどんな意味（著者、編集者、版下製作者、読者にとって）が生じるのか、ということは、もはや独立したテーマとして考えたほうがいい。バッハの「鍵盤作品」をどう出版し演奏するかというようなものだ。</p>
<p>産業革命を経たグーテンベルク印刷術が、日本語と言語文化に与えた影響は巨大であった。伝統的出版空間とエコシステムが、繁栄の頂点で打撃を食らい、一世代で消滅したのだ。和本の多くは残されたが、いかんせんリテラシーを獲得するのは容易ではない。活字印刷で翻刻された和本は、洋館の日本庭園、洋室の京壁・障子のようなもので、あまり趣味のよいものではなく、オリジナルの豊かさを味わえない。グーテンベルク出版は「進歩」として教えられてきたけれども、凡人にとって、価値ある文化的伝統へのアクセスが断たれた事実は厳然としてある。デジタルによって活字・組版がやわらかいものになった現在、その豊かさに触れる方法を考えるべき時期に来ている。</p>
<p><img class="size-full wp-image-10099 alignright" style="margin-left: 15px; margin-right: 0px;" alt="ecosystem" src="http://www.ebook2forum.com/wp-content/uploads/ecosystem.jpg" width="238" height="212" />さて、橋口さんの講義によって、私たちは和本というものの構造と表現とともに、制作と流通＝共有の仕組み、著者と本屋と読者の関係、つまり歴史的に、長期にわたって存在し、大量のコンテンツを有したエコシステムを知った。筆者などは一気に「<span style="color: #990000;">デジタル和本</span>」に進みたい気持ちに駆られた。機能的に「和本体験」をサポートするのはEPUB3の拡張でかなり出来る。しかし、小林さんはここで「日本語」というメタなものに目を転じさせた。書物が言語的コミュニケーションを前提にする以上、その空間は日本語の在り方に規定される。時間を超えたものであればなおさら…、というわけ。19世紀末で大きく変貌し、その後も変わり続けている日本語、あるいはわれわれの「日本語」知識は、しっかりした足場を与えてくれない。了解。</p>
<h3> 書物とコミュニケーションの諸側面から脱Gを構想する</h3>
<p>活字は書き言葉を変容させ、固定する強力な作用があるが、それを背景とした近代の日本語革命（いわゆる国語教育）は、それ以前の日本語(群)との間に深刻な溝を掘り、同時に意味と表記の揺れという問題を未解決なままに残してしまっている。これらは古典どころか、手書き原稿を翻刻し、読み解く場合に付き纏う問題で、編集者を悩ませ、それを通じてシャーマン的能力を自得する要因ともなってきた。今日の出版関係者が音楽並みの「著作隣接権」を真顔で主張するのは、しろうとには読めない著者の草稿を「演奏」してきた時代の感覚なのだろう。しかし、デジタルはそうした仕事をリセットしてしまった。多様な表記を許さないほど活字や画面は希少ではなく、むしろ多様な表記の意味についてコミュニケーションすることの価値が増している。もちろん、オリジナルにその価値がある場合だが。</p>
<p>われわれが言語に求めるものは常に矛盾している。自由で豊かなコミュニケーションを可能とする柔軟性（ゆるさ）と、法律やプログラムを機能させる厳密な形式性を共存させなくてはならならず、それらが同じ人間によって使い分けられなければならない。共有すべき言語は一つではありえず、無数のバージョンを派生させる。違いを理解し、使い分ける能力こそが文化というものだろう。活字時代の「国語」教育のリーダーたちは、かなり無茶な標準化に急で、違いを楽しむことを教えなかった。江戸の読書空間の自由さに憧れるゆえんだ。</p>
<p><img class="wp-image-10098 alignleft" style="margin-left: 0px; margin-right: 15px;" alt="plan_B" src="http://www.ebook2forum.com/wp-content/uploads/plan_B.jpg" width="172" height="86" />3回目に「日本語」を持ってきたことは、このプロジェクトが、和本を知り、デジタル時代に最適化した再現を通じて脱Gに向かうという直登的アプローチではなく、山全体を観察し、登攀ルートを偵察し、必要なら岩壁・氷壁・滝などを回避するアプローチをとることを意味した。いや筆者はそう勝手に解釈した。小林さんは、メンバーがしだいに固まり、多方面の専門家が集まったので、和本の構造・機能における焦点の一つである<span style="color: #990000;">注釈・書入れ</span>の問題を深めたい、という。注釈は和本の復活というに止まらず、現在のE-Bookがとくに教育関係が求める機能をサポートするためには、避けて通れないテーマでもある。ただし、コミュニケーションを問題とすることで、本プロジェクトのフレームワークをさらに拡張する必要が出てきた。過去3回を通じて形成されてきた研究会のメンバーの知識と知恵を結集することで、筆者のも含めて、これまでの書物論にはなかった、大いなる統合が可能になりそうだ、と考えるだけで興奮してくる。</p>
<p>ということで、小林さんの「ノールックパス」を受けて組み立てられたフレームワークは、次のようなものだ。次のレグでは、仏典と聖書という二千年以上にわたり、地球的規模で行われてきた知識のコミュニケーション（<span style="color: #990000;">書物の機能性</span>）を取上げる。さらに第3レグは「読者と読書空間」から<span style="color: #990000;">書物の社会性</span>（シャルチエの言う「書物の秩序」）に入り、Gパラダイムを総体として止揚する視点について考える。入口となった、橋口「和本論」は、一つの出版エコシステムを生成・発展・消滅というライフサイクルを通して考える機会を与えてくれた。われわれはまだG出版について、<span style="color: #990000;">Gを歴史的に相対化する「外からの視点」</span>を共有できていない。だからE-Bookについて明確なビジョンを持つアマゾンの後を追うことしかできないのだ。大きなフレームワークによって、われわれは<span style="color: #990000;">脱Gの鍵</span>を手にすることができるはずだ。（鎌田博樹）</p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.ebook2forum.com/2013/02/from-wahon-to-ebook-3-an-extended-framework-for-approaching-beyond-gutenberg/feed/</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		</item>
		<item>
		<title>｢自主出版ガイド｣ページ新設にあたって</title>
		<link>http://www.ebook2forum.com/2013/02/launching-self-publishing-support-pages/</link>
		<comments>http://www.ebook2forum.com/2013/02/launching-self-publishing-support-pages/#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 12 Feb 2013 13:08:12 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Editor</dc:creator>
				<category><![CDATA[Content Business]]></category>
		<category><![CDATA[Editorial]]></category>
		<category><![CDATA[Indie Pub]]></category>
		<category><![CDATA[Log Book]]></category>
		<category><![CDATA[Self Publishing]]></category>
		<category><![CDATA[エコシステム]]></category>
		<category><![CDATA[自主出版]]></category>
		<category><![CDATA[著作隣接権]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.ebook2forum.com/?p=10067</guid>
		<description><![CDATA[本フォーラムやMagazineの記事を通じて、英語圏での自主出版の動向についてはかなりの情報をお届けしてきましたが、日本でも欧米並みの自主出版を行うプラットフォームが整ったので、自主出版者を支援する情報提供を継続的に行っ [...]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><img class="alignleft  wp-image-10073" style="margin-left: 0px; margin-right: 15px;" alt="paradigm" src="http://www.ebook2forum.com/wp-content/uploads/paradigm.jpg" width="193" height="128" />本フォーラムやMagazineの記事を通じて、英語圏での自主出版の動向についてはかなりの情報をお届けしてきましたが、日本でも欧米並みの自主出版を行うプラットフォームが整ったので、自主出版者を支援する情報提供を継続的に行っていきたいと考えて、専用のページを開設することにしました。自主出版はデジタル時代の出版の基本である、と私たちは考えています。簡単ですが、出版の持つ課題と自ら取り組むことで、多くのことが見えてきます。その意味で、出版のプロにも参考になることは多いと思います。（鎌田）<span id="more-10067"></span></p>
<h3>自主出版がデジタル時代の出版の基本</h3>
<p>E-Bookのサービスが開始されて5年を経た2012年は、世界の出版ビジネスの主軸がデジタルにシフトした<span style="color: #990000;">歴史的な転換点</span>となった。このことは英語圏では常識なのだが、最短2年、最長でも5年以内に、日本も同じ転換に直面するだろう。ただし事情は異なる。紙の出版が比較的しっかりしており、デジタルをプラス要因として受け止められた欧米に対して、雑誌・マンガと一体の苦境のさ中にあり、さらに円安インフレの波まで及ぶ日本では、この転換は出版社、書店ともに、より破壊的なものとなる可能性が高くなっている。つまり印刷本は「つくれず、売れず」という状態になりそうなのだ。</p>
<p>しかし、これは「業界」の話であって「出版」の話ではない。出版の前提となる技術的、社会的現実が変化したのに対し、変化を拒否してきた結果だ。米国と同じように、現実に即した発展は可能であり、必然でもある。業界が対応したくなければ、あるいは見当違いの対応をすれば、19世紀の終わりに起きたように、従来の業界の外側に、新しいエコシステムが生まれてくる。新しいものがよりよいものになるという保証はない。しかし生まれてくることだけは確かだ。</p>
<p>そのシナリオは、この1年で見えてくるだろう。確実なことは、その中で自主出版(者)が―<span style="color: #990000;">外資系出版社</span>や<span style="color: #990000;">新規参入企業</span>と並んで―大きな役割を果たすことになるということだ。この傾向が顕著になったのは米国と英国だが、オーストラリアも含めた、英語圏という市場を考えたほうがいいだろう。すでに自主出版を選んだ英語圏の著作者たちは、国境を越えてグローバル化した市場で活動している。そして、ベストセラー・リストで10%台のシェアを占めるに至った。このシェアはますます増えるだろうし、一部は商業出版と融合している（自主出版→商業出版）。</p>
<h3>バリューチェーンにおける「出版社」の価値を問う自主出版</h3>
<p>もしまだこの<a href="http://en.wikipedia.org/wiki/Self-publishing" target="_blank">self publishing</a>を「<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E8%B2%BB%E5%87%BA%E7%89%88" target="_blank">自費出版</a>」とお考えの方がいたら、ぜひ認識を改めていただきたい。出版の費用構造が変わった現在、自費かどうかはもはや問題ではない。これは「非商業(出版社)出版」という新しい現象であり、デジタル時代において出版を再定義を促すものだ。また「自己出版」という、日本語として意味不明な言葉を使っている人がいたら、やめていただきたい。出版は<span style="color: #990000;">社会的活動</span>であり、個人的であると同時に社会的営為である。自主出版にも編集者やデザイナー、プログラマーは（不可欠ではないとしても）必要だ。「自己」を出版の主体として限定することは無意味だ。自主出版物は様々な経緯で、様々な人々によって、様々な形態で生まれる。</p>
<p><img class=" wp-image-8833 alignright" alt="valuechain" src="http://www.ebook2forum.com/wp-content/uploads/valuechain1.jpg" width="181" height="136" />デジタル出版が定着した英語圏において自主出版は、すでに新人がやむを得ず選ぶデビューの手段というだけでなく、著名なライターの出版手段としても定着しつつある。傑作ノンフィクション『死のクレバス』(邦訳は岩波現代文庫)で知られるジョー・シンプソンは、最近E-Bookに関する「ばかげた版権料」を不服としてランダム・ハウスと袂を分かった（<a href="http://www.thebookseller.com/news/simpson-splits-random-over-e-book-royalties.html" target="_blank">The Bookselle</a>r, 02/11/2013）。出版社は「マーケティングとパブリシティについては大した影響力を持っているかも知れないが、75%を取るほどのものか」と彼は述べている。ここで出版社が担う専門性と負担費用として、制作ではなく「マーケティングとパブリシティ」を挙げていることに注意してほしい。デジタル時代においては、製作と流通における出版社の存在価値は前提ではないのだ。</p>
<p>自主出版をサポートするサービス・サイトは1ダースできかないが、いずれも高い制作コストを請求するところはない。他方で、マーケティングのスキルと努力は、ブランドではなく結果でしか実証できないものなので、売上によらず75%（つまり著者印税が25%）を当然と考える出版社の感覚は相手にされなくなるだろう。75%は出版社のリスクを最小化し、著者はベストセラーとなった場合にのみ潤う水準だ。ともかく著者と出版社の力関係は大きく変わっている。</p>
<h3>「著作隣接権」は自主出版普及への起爆剤となる!?</h3>
<p>現在日本の出版界が求めている、出版社の「<span style="color: #990000;">著作隣接権</span>」は、それに対抗するものだが、これで出版社が守れるというのは錯誤である。漫画家の団体が強く反対しているように、書物の出版における隣接権は著作権と不可分であり、当然にも原著作者の権利を制約する。隣接権が設定されれば、単純に出版社と契約しない（で自分で出版する）著作者が増えるだけだ。さらに、欧米の著作者（や出版社）は日本の出版社、あるいは日本市場を相手にしなくなる。翻訳権は“ジャパン・プレミアム”で暴騰するだろう。いったん法制化されれば、後から改廃するには、制定の十倍のエネルギーを要するので事実上動かせない。あとでまずいと思って働きかけても、「お上を愚弄する気か!?」と言われるのがオチだ。</p>
<p><img class="alignleft  wp-image-10074" style="margin-left: 0px; margin-right: 15px;" alt="trap" src="http://www.ebook2forum.com/wp-content/uploads/trap.jpg" width="195" height="126" />「著作隣接権」は、したがって日本の出版業界の破滅(自滅)をもたらす装置となるだろう。もし法制化されれば、それは出版界がデジタル時代への移行を拒否し、死を選んだことを意味する。著作者は、青息吐息で企画も通らず、販路も十分に確保できず、将来にわたって権利を共有することになる出版社よりは、自主出版を選択して5割以上の印税を得るほうを選ぶだろう。編集者や制作者、マーケッターは、有望な著者の本づくりや販売に協力して売上をシェアする。新しいエコシステムが生まれる。出版社は、隣接権を放棄して従前の印税を払うか、隣接権を得るために高くするかの選択を迫られる。出版社は、書店しか販路がなかった時代を夢想しているのだろうが、出版社も印刷会社も書店も通さずに出版できる時代の「隣接権」に実効性を持たせる手段としては、出版の国家管理くらいしか思い浮かばない。</p>
<p>出版業界が自滅することを望まないがゆえに、本フォーラムは「著作隣接権」に反対する。そうではなく、出版社が創業以来の実績と伝統を継承し、デジタル時代の出版の価値を高める存在として著者と読者の支持を得られる方法を考えていきたい。その方法は、自主出版者と共有することになるだろう。大小を問わず、出版社の価値は、制度的なゲートキーパーとしてではなく、<span style="color: #990000;">プロフェッショナル・サービス</span>で評価されることになるからだ。（鎌田博樹）</p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.ebook2forum.com/2013/02/launching-self-publishing-support-pages/feed/</wfw:commentRss>
		<slash:comments>2</slash:comments>
		</item>
		<item>
		<title>出版の「著作隣接権」を考える(1)：権利と利権</title>
		<link>http://www.ebook2forum.com/2013/01/rights-and-concessions-in-publishing-1/</link>
		<comments>http://www.ebook2forum.com/2013/01/rights-and-concessions-in-publishing-1/#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 22 Jan 2013 06:40:07 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Editor</dc:creator>
				<category><![CDATA[Book Industries]]></category>
		<category><![CDATA[Concept Sheet]]></category>
		<category><![CDATA[Content Business]]></category>
		<category><![CDATA[Editors' Note]]></category>
		<category><![CDATA[IPR/Copyright]]></category>
		<category><![CDATA[Log Book]]></category>
		<category><![CDATA[E-Bookの著作権]]></category>
		<category><![CDATA[出版業界]]></category>
		<category><![CDATA[著作隣接権]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.ebook2forum.com/?p=10000</guid>
		<description><![CDATA[「著作隣接権」を出版に適用する動きについて、そろそろ外国人に説明する必要が出てきたのだが、もちろん一筋縄でいく問題ではない。そこで様々な角度から論点を整理してみようということで書き始めたのが、このノート。筆者なりの結論は [...]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><img class="alignleft  wp-image-10020" style="margin-left: 0px; margin-right: 15px;" alt="copyrights2" src="http://www.ebook2forum.com/wp-content/uploads/copyrights2.jpg" width="181" height="136" />「著作隣接権」を出版に適用する動きについて、そろそろ外国人に説明する必要が出てきたのだが、もちろん一筋縄でいく問題ではない。そこで様々な角度から論点を整理してみようということで書き始めたのが、このノート。筆者なりの結論は最後に述べたいと思うが、この種の権利を論ずる場合には、(1)国際性、普遍性、(2)技術的合理性、(3)著作権との整合性、(4)実効性（コスト／効果）、(5)ステークホルダーのコンセンサス、で評価すべきだと考えている。（鎌田）<span id="more-10000"></span></p>
<h3> 権利とは何か：力と正義</h3>
<blockquote><p>【権利】 (イ)一定の利益を主張し、また、これを享受する手段として、法律が一定の資格を有する者に賦与する力。(ロ)或る事をする、またはしないことが出来る能力・自由<br />
【利権】　利益を占有する権利。業者が公的機関などと結託して得る権益（『広辞苑』）</p></blockquote>
<p>原著作者(creator)に排他的権利を与えるという著作権については、多くの誤解が行き渡っているから、日本語ですらコミュニケーションは簡単ではない。またもともと、「<span style="color: #990000;">××権</span>」という無数の日本語には、重大な<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%B4%E3%83%AA%E3%83%BC%E9%8C%AF%E8%AA%A4" target="_blank">カテゴリー・エラー</a>(錯誤)を起こす概念が混在しており、使用にあたってはよくよく注意しなければならない。例えば「主権」「司法権」「販売権」「人権」「参政権」そして「著作権」…。</p>
<p>混乱は力(<span style="color: #008000;">power</span>)に関わる概念と、権利(<span style="color: #008000;">right</span>) ―正義や道理に由来する― に関わる概念が差別なく「権」で括られていることから生じる。「国語」辞書も、法律が賦与すれば権利(right)が生じると言い、また利権を権利の一種としている。これは錯覚を起こしやすいどころか、欧米人から見ればそれ自体が倒錯だ。それでいて「結託して得る権益」を「利権」として区別し（た気になっ）ていることが、よけい話を混乱させる。「結託」できない者の道徳的非難（あるいはやっかみ）を含む場合だ。たいていはそうだろう。</p>
<p><img class="alignright  wp-image-5222" style="margin-left: 15px; margin-right: 0px;" alt="Ｂｉｌｌ_of_Rights" src="http://www.ebook2forum.com/wp-content/uploads/993f7cddda81f492933ed2808670f229.jpg" width="199" height="167" />英語において、<span style="color: #008000;">利権としての権利</span>（というのも妙だが）は、<span style="color: #008000;">concession</span> (→交渉)、<span style="color: #008000;">royalty</span> (→対価)、<span style="color: #008000;">economic</span> <span style="color: #008000;">interest</span> (→経済性)、<span style="color: #008000;">grant</span> (→交付金)など、コンテクストによって使い分けられているが、それら自体に否定的な意味はない。知的所有権 (intellectual property rights)に付随する利権は、もちろんロイヤルティである。“三省デジ懇”や“緊デジ”などで派生した交付金はグラントで、なんらかの経済的波及効果が期待されたという意味ではインタレストだろう。ところが「利権」と言えば自動的に批難する側に立つ（と見做される）ことになる。困ったものだ。価値判断はともかく、利権は利権なのに。欧米的法概念に反して、権利を価値中立的概念にして、逆に利権に否定的意味を込めたために、利権に悪いイメージが集中することになったのだ。順序を逆にしただけでこれだけ響きが違う熟語もめずらしい。</p>
<h3>権利にの文化と利権の文化</h3>
<p>近代日本語の最大の問題の一つが、正義に由来するright (droit, Rechts) の訳語として使われている「権利」という言葉だった（翻訳は<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%91%A8_%28%E5%95%93%E8%92%99%E5%AE%B6%29" target="_blank">西 周</a>）。この訳語は、元の漢語の意味（権勢と利益＝荀子）が染み出してしまう危険を孕んでいた。<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E6%BE%A4%E8%AB%AD%E5%90%89" target="_blank">福沢諭吉</a>や<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%BC%98%E4%B9%8B" target="_blank">加藤弘之</a>以来の知識人が指摘し続けたことだ。一歩も進んでいないどころか、第二次大戦後の欧米的「権利」の法制化によってさらに混乱の度を増した。rightsのほうは、「<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E6%B0%91%E6%A8%A9%E9%81%8B%E5%8B%95" target="_blank">民権論争</a>」の繰り返しである。しかし、“官民一体”で開発・更新される利権のほうだけはどんどん複雑化・高度化している。同じように漢語の元の意味を変えて流通させようとした明治日本語に、liberty に対応する「自由」がある。これも悪無限的な混乱の原因となっている。表意文字はこわい。</p>
<p>上述したように、<span style="color: #008000;">利権はそれ自体善でも悪でもない</span>（コンテクストによって善でも悪でもあり得る）。誰でも「利益を占有」したい願望を持っているからだ。そして日本は（欧米に比べて）利権を積極的に是認し、権力が公認することで正統性を与えてきた長い伝統を持っている。「<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%AA%E4%BB%B2%E9%96%93" target="_blank">株仲間</a>」と呼ばれるものだ。</p>
<p><img class=" wp-image-10033 alignleft" style="margin-left: 0px; margin-right: 15px;" alt="nakamaindex" src="http://www.ebook2forum.com/wp-content/uploads/nakamaindex.jpg" width="208" height="155" />株仲間には権力者の「御用」を果たす「御免株」を持った仲間と、権力の承認を意味する「願株」を得た仲間があった、と教科書には書いてある。<span style="color: #008000;">本屋仲間</span>はもちろん後者である。地域、商品、役割（手工業者、問屋、小売）ごとに、仲間がつくられ、かなり複雑・精緻な分散・協調型エコシステムが形成されていた。それぞれはかなり自律的な「世間」をなしており、それを超える問題について、時に「お上」のご裁断を仰ぐ、という慣習は、中世末期以来の日本の経済・社会システムの常態ではなかったかと思われる。このシステムは、とても根が深く、明治維新はおろか、戦後改革をも形を変えて生き延びた。いわゆる日本的流通システムである。日本ではこの近世の遺産が20世紀後半まで維持された。</p>
<p>しかし何事にも終わりはある。和本の本屋仲間の消滅と同時期に生まれた活字出版業界は、これまで「再販」と「取次」を軸に結集してよそ者の侵入から防衛してきたのだが、逆にこれらによって自らの首を絞める状態から脱出できずに緩慢な衰弱を迎えつつある。「日本語フォーマット」や「書籍電子化事業」で政府から「利権」を引き出したものの、これらが業界の明日につながるものと考える人はいるだろうか。現在浮上してきた「著作隣接権」は、電子化に対する活字出版業界の第三の（おそらく最後の）組織的抵抗であるように思われる。（→<a href="http://www.ebook2forum.com/2013/01/rights-and-concessions-in-publishing-1/2/" target="_blank"><span style="color: #ff6600;">次ページ</span></a>に続く）</p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.ebook2forum.com/2013/01/rights-and-concessions-in-publishing-1/feed/</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		</item>
		<item>
		<title>(Digital) Self Revealing and Experimenting on the Web.</title>
		<link>http://www.ebook2forum.com/2013/01/digital-self-revealing-and-experimenting-on-the-web/</link>
		<comments>http://www.ebook2forum.com/2013/01/digital-self-revealing-and-experimenting-on-the-web/#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 17 Jan 2013 12:17:34 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Roberto Zicari</dc:creator>
				<category><![CDATA[Digital Europe]]></category>
		<category><![CDATA[Education]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.ebook2forum.com/2013/01/digital-self-revealing-and-experimenting-on-the-web-2/</guid>
		<description><![CDATA[On the topic (Digital) Self Revealing you can watch a video of a lecture I gave in Frankfurt. If you are inter [...]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>On the topic <strong>(Digital) Self Revealing</strong> you can <a href="http://electure-ms.studiumdigitale.uni-frankfurt.de/vod/clips/NUU2V9yoYW/quicktime.mp4">watch a video</a> of a lecture I gave in Frankfurt.</p>
<p>If you are interstd in the topic  <strong>Experimenting on the Web: Understanding Web user navigation behavior and retaining users, </strong>you <a href="http://electure-ms.studiumdigitale.uni-frankfurt.de/vod/clips/TU2qbcsx96/quicktime.mp4">watch a video of  Dr. Nikolaos Korfiatis.</a></p>
<p>RVZ</p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.ebook2forum.com/2013/01/digital-self-revealing-and-experimenting-on-the-web/feed/</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
<enclosure url="http://electure-ms.studiumdigitale.uni-frankfurt.de/vod/clips/NUU2V9yoYW/quicktime.mp4" length="868188744" type="video/mp4" />
<enclosure url="http://electure-ms.studiumdigitale.uni-frankfurt.de/vod/clips/TU2qbcsx96/quicktime.mp4" length="866605814" type="video/mp4" />
		</item>
		<item>
		<title>和本論からE-Bookへ (2)：共感装置としての書物を蘇らせる</title>
		<link>http://www.ebook2forum.com/2013/01/from-wahon-to-ebook-2-books-as-an-empathy-box/</link>
		<comments>http://www.ebook2forum.com/2013/01/from-wahon-to-ebook-2-books-as-an-empathy-box/#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 14 Jan 2013 11:28:40 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Editor</dc:creator>
				<category><![CDATA[Concept Sheet]]></category>
		<category><![CDATA[Discussion]]></category>
		<category><![CDATA[Log Book]]></category>
		<category><![CDATA[ポスト・グーテンベルク]]></category>
		<category><![CDATA[和本]]></category>
		<category><![CDATA[拡張E-Book]]></category>
		<category><![CDATA[明治二十年問題]]></category>
		<category><![CDATA[橋口侯之介]]></category>
		<category><![CDATA[江戸出版文化]]></category>
		<category><![CDATA[絵巻]]></category>
		<category><![CDATA[読書空間]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.ebook2forum.com/?p=9970</guid>
		<description><![CDATA[これまで世界の古典籍の電子化は、画像データ化を意味していた。これは必要なステップだが、それで書物が当時実現してきた読書体験が、今日の人々に共有されるわけではない。それらを活字に翻刻し、注釈を入れ、あるいは現代語訳したもの [...]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><img class="alignleft  wp-image-9972" style="margin-left: 0px; margin-right: 15px;" alt="oguri_story" src="http://www.ebook2forum.com/wp-content/uploads/oguri_story.jpg" width="234" height="150" />これまで世界の古典籍の電子化は、画像データ化を意味していた。これは必要なステップだが、それで書物が当時実現してきた読書体験が、今日の人々に共有されるわけではない。それらを活字に翻刻し、注釈を入れ、あるいは現代語訳したものが、やはり別の一面を伝えるものでしかないように。では<span style="color: #990000;">全体性</span>にアプローチする方法はないものだろうか。紙に拘らなければ、可能ではないか、というのが<strong>脱G</strong>の出発点。（左の絵は岩佐又兵衛『小栗判官絵巻』）<span id="more-9970"></span></p>
<h3>E-Bookは仮想読書空間を実現した</h3>
<p>書物は一種の再生装置であり、印刷であれ画面表示であれ、パッケージ化されたコンテンツを読みだすことができれば用は足りる。いわゆる「電子書籍」は、無限に表示が切替わるディスプレイで紙を代替するという発想だったと思う。しかし、大量の書籍、文献に目を通す必要がある専門家を除いて、ふつうに読む本を電子で読む必要性と利点を感じている人はそう多くはない。それどころか、電子でしか読めず、たいして安くもないなら、小説など読まなくなる人も少なくないと思われる。しかし、Kindleはたんなる紙の代替ではなく、本に関する情報収集、販売決済、読書支援、コミュニケーションを、ネット上で一貫してサポートする「<span style="color: #990000;">読書環境</span>」として登場してきた。これが紙の代替ではなく<span style="color: #990000;">読書環境の代替／拡張</span>であることを、ガラパゴスの“電書”派の人々は想像できなかったのである（黙っていたのかも知れないが、褒められたことではない）。</p>
<p><img class="size-full wp-image-9983 alignright" style="margin-left: 15px; margin-right: 0px;" alt="human-communication" src="http://www.ebook2forum.com/wp-content/uploads/17015644-abstract-illustration-on-the-theme-of-human-communication.jpg" width="168" height="168" />E<span style="color: #008000;">-Bookが商業的に読書体験を提供する読書環境を付加価値として成立した</span>ことは重要だ。原稿を印刷・製本することで出版ビジネスが誕生したように、<span style="color: #008000;">コンテンツを仮想読書環境に載せたことで、デジタル出版ビジネスは誕生した</span>。いったんサービスとしての読書環境というものを体験した消費者は、それを切り離すことは困難だ（出版社が切り離すには、最低限DRMを放棄しなければならない）。コンテンツはモノよりもサービスとより強く結びつくようになった。これも“電書”派が考えたくなかったことだ。書物をモノではなく、モノを媒介とした活動とそれによって成立していた社会的空間まで拡張して考えていくと、モノは相対化される。紙であれデバイスであれそれは唯一最高のものではなく、コミュニケーション手段の一つに過ぎないことが分かってくる。人類が希少な紙をいかに巧みに、大切に扱って文化を成熟・継承させてきたかも（今日のように紙を大切にしないのは異常だ）。</p>
<p>Kindleが読書環境を独立した（そして商業的に再生産される）付加価値として構築した意義は言うまでもない。日本でも定着しつつあることは一歩前進だ。しかし、<span style="color: #008000;">読書空間はパーソナルであると同時にソーシャルな空間として存在する</span>。その大きさと深さ、重さは、もちろん一企業のサービスで支えられる程度のものではない。それは書物が持つ中心的価値としての共時性と通時性を考えれば当然のことだ。われわれはE-Bookによって、千年にも及ぶ歴史を持つこの国の読書環境を、120年余り主役の座にあったG本の分だけではなく、全体として、協調的に機能させたいと考えている。</p>
<h3>絵巻物が前提とした声の空間</h3>
<p>コンテンツの容器としての書物は、パッケージ化された音源と再生装置のようであるが、同時に音楽における<span style="color: #990000;">楽器</span>にのようにも機能してきた。というのは、楽譜・楽器が演奏(人)によって音楽を奏でるように、書物は中身が読まれることによってはじめて意味を持つからだ。<span style="color: #008000;">近代以前には当然のごとく本は<span style="color: #990000;">音読</span>されており、人々は人が読(詠)む声を通じて読書と出合った。</span>読書は声の空間とともにあった。</p>
<p>近代とともに<span style="color: #990000;">黙読</span>が一般化したのは、（印刷物の量産よって）読書がパーソナライズし、また速読、多読が奨励されるようになった結果だが、これは読書のみならず読書体験、読書環境を変え、同時に日本語そのものも変えた。普通、進歩として教えられていることだが、黙読という選択肢が増えたのは結構なこととしても、音読の放棄は進歩とはいえまい。とくに会話が貧弱になったことで、文学もすくなからず否定的な影響を受けたと思われる。江戸時代までのほうが、言葉のやりとりはよほど力があり、おもしろい。説教語りや落語家、講談師など、話芸の専門家が活躍したのも、人々が声を通じて、生きた日本語をライブで聴く文化があったからだ。</p>
<p><img class="alignleft  wp-image-9979" style="margin-left: 15px; margin-right: 15px;" alt="sanseidayu" src="http://www.ebook2forum.com/wp-content/uploads/sanseidayu.jpg" width="155" height="225" />近代以前の書物を電子的に復元する場合に、まず考えなければならないのは、表現されないながらも重要な役割を果たしていた「声」の問題である。中身を解し、扱い方を知る読(詠)み手も、聞(聴)き手もいない状態では、筆者のような凡夫は読書に参加することが出来ない。音楽というものが楽譜ではなく声や楽器の演奏によって実現されるように、<span style="color: #008000;">声のない絵巻や黄表紙は、演奏者のいない楽譜・楽器にすぎない</span>。オーラは感じられても体験は得られない。そもそも、絵巻や絵草紙は、遊行僧など暗唱した語り手によって語られたものを源流としている。語りが先行し、書物として流布してからも、人々はやはり語られたものを聞いて読書体験を得たのだ。（写真＝<a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%9B%E3%81%86%E5%A4%AA%E5%A4%AB%E8%80%83%E2%80%95%E4%B8%AD%E4%B8%96%E3%81%AE%E8%AA%AC%E7%B5%8C%E8%AA%9E%E3%82%8A-%E5%B9%B3%E5%87%A1%E7%A4%BE%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC-%E5%B2%A9%E5%B4%8E-%E6%AD%A6%E5%A4%AB/dp/458276035X" target="_blank">『さんせう太夫考―中世の説経語り』</a> 、岩崎武夫著、平凡社ライブラリー）</p>
<h3>オリジナル体験によって古典は蘇る</h3>
<p>そういうことを知ったのも最近のことだが、<a href="http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%AD%E4%B8%96%E3%81%AE%E8%B2%A7%E6%B0%91-%E8%AA%AC%E7%B5%8C%E5%B8%AB%E3%81%A8%E5%BB%BB%E5%9B%BD%E8%8A%B8%E4%BA%BA-%E6%96%87%E6%98%A5%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%A1%A9%E8%A6%8B-%E9%AE%AE%E4%B8%80%E9%83%8E/dp/4166608908" target="_blank">『中世の貧民－説教師と廻国芸人』</a>(塩見鮮一郎著、文春新書)は、代表的な<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%A0%97%E5%88%A4%E5%AE%98" target="_blank">「小栗・照手」</a>に沿って中世の芸能の世界を生き生きと描いており、「<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%AC%E6%95%99%E7%AF%80" target="_blank">説教節</a>」のオリジナルを読みかつ聴きたいものだと思った。小栗判官説話のような「死と蘇生の物語」は、無数のバージョンが生まれている。筆者はこの小栗を、猿之助のスーパー歌舞伎で初めて知ったが、熊野の<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E3%81%AE%E5%B3%B0%E6%B8%A9%E6%B3%89" target="_blank">湯の峰温泉</a>の「壺の湯」の看板を見ても思い当らなかったほどの無知だった。</p>
<p>明治くらいまでの日本人は、「さんせう太夫」「しんとく丸」「小栗判官」「かるかや」「愛護の若」といった古浄瑠璃の「世界」に子供のころから親しみ、「約束事」のように共有していた。御涙頂戴とハッピーエンドのストーリーを共有してなぜ感動するかと言えば、共感・浄化や好奇・笑いといったお定まりの、しかし人間と社会にとって水や空気のように必要なものだ。それらは劇的表現や卓越した話芸によって何度でも呼び覚まされる。「<a href="http://homepage2.nifty.com/hay/mitiyuki.html" target="_blank">道行</a>」などはその最たるもので、地名や風物に語呂合わせや本歌取りなどを巧みに織り交ぜ、七五調で刻みつつ、観光案内をしながら主人公の流離の哀傷の抒情を語る技巧は、オペラティックで圧倒される。現在、道行といえば、歌舞伎や浄瑠璃の駆け落ちシーンで知られるくらいだが、説教節では不可欠であり、観客もそれを要求した。絵巻物はそうした話芸と並行して生まれた。草草紙はそれを聞いたり見たりした人々に読まれた。前掲書の塩見氏が指摘しているように、そうした「泥臭い」ものをスッパリ落とした<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%A4%92%E5%A4%A7%E5%A4%AB" target="_blank">森 鴎外の『山椒太夫』</a>は、無機的で「近代的」なものになっている。中世・近世に封印をしたようなものだ。</p>
<p>だとすると、そうした古典籍を画像で見たり、活字で読んだりするのは、ベートーヴェンの自筆譜を「鑑賞」したり、オペラや演劇の台本を「読ん」だりするのと同じことではないか。隔靴掻痒。紙と本という書店の展示・販売のために規格化・最適化された形態に固執する必要はない。EPUB3やその基盤にあるHTML5/CSS3/JSを拡張していけば、中世、近世の人々と時代を超えて共感することもできるのではないか。すくなくとも、今日シェークスピアや<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3" target="_blank">モンテヴェルディ</a>を鑑賞するレベルで。古典は蘇生させる価値がある。まずオリジナルに近い形で。それによって様々な形での再創造も可能となるはずだ。明治以来の「近代」はもはや死につつある。つまり、多くの人に「読みたい」という気を起させない。古典には日本を蘇らせる力があると信じたい。</p>
<h4>P.S.：古楽の蘇演と古典籍の電子化</h4>
<p>個人的なことだが、クラシック音楽の演奏の歴史に関心を持っている。バロック以前の音楽への関心がヨーロッパの聴衆の間に高まったのは1世紀にも満たない。1980年ごろから<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E6%A5%BD%E5%99%A8" target="_blank">オリジナル楽器</a>が普及し、楽譜や楽器、奏法、演奏様式の研究が進んで、聴こえてくる音楽は大きく変わった。復元される以前のチェンバロは、ピアノと同様の鉄骨フレームを使ったモダン・チェンバロで、今日の耳で聴くともの凄い音がした。伊勢物語を草紙ではなく翻刻活字本で読むようなものだと思う。録音技術が未発達だった時代に、大ホールで演奏できるピアノと張り合うために無理な改造をしたのである。</p>
<p><img class="wp-image-9984 alignright" style="margin-left: 15px; margin-right: 0px;" alt="2006AJ6743_harpsichord_vaudry_custom_290x319_06100673" src="http://www.ebook2forum.com/wp-content/uploads/2006AJ6743_harpsichord_vaudry_custom_290x319_06100673.jpg" width="157" height="172" />現代楽器のA=440Hzよりも半音低いA=415Hzのピッチ、あるいは「多様なピッチ」が用いられる古楽器の音色は、デジタル録音によって世界中に普及し、違和感なく受け容れられるようになり、それによって古楽だけではなく、ベートーヴェンやブラームスなど一般に親しまれている曲の演奏もかなり変わってきた。これを「進歩」と考える必要もないし、「原典に忠実」が正しいと考える理由もない。しかし、筆者自身は演奏や聴き方の幅が広がったことを喜んでいる。それによって、20世紀前半の「巨匠的スタイル」も、「純正」「正統」「至高」とかいう宣伝文句から自由に楽しめる。「実装」からの独立性が高いバッハの音楽は、チェンバロでもピアノでも同じレベルの（しかし異質の）感動を味わえる。</p>
<p>脱Gによってわれわれは、近代以前にも近代にも、同じように接することができるようになることを期待している。（鎌田博樹、つづく）</p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.ebook2forum.com/2013/01/from-wahon-to-ebook-2-books-as-an-empathy-box/feed/</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		</item>
	</channel>
</rss>
