『EPUB戦記』を読む:読み方

51fJmVyv1-L._SX335_BO1,204,203,200_1970年からの半世紀。それまで成長の世紀を享受した日本の近代出版は、奇しくもバブル期において頂点を迎え、デジタルというパラダイムの転換に遭遇し、その本質を理解しないままに没落を迎えた。著者はデジタルに本の未来を見ているが、言語文化の継承なき未来はないという立場だ。「戦記」で描かれたのはどんな戦いだったのだろうか。

なぜ「戦記」か、なぜ見えにくいのか

greek wars「戦記」の構成は、過去(第1、2章)・現在(第3章)・未来(第4章)の三部構成。あえて過去を重くしたのは、懐旧の情からではなく、コンテクストとしての現在(あるいはEPUB)を理解し、所与ではなく当為としての未来を問題にするためであることは、終章で語られる。そして、本書そのものが「未来の本」の一つの形である、タイムラインを開放した「共観年代記」構想の一部であることも。ちなみにそれは複数の視点で「戦記」を拡張するものであり、冊子体の中に封印されていた本の新しい形態として考えられている。つまり、本戦記は「武勲・勝利の記録」あるいはそれに擬したものではない。

誤解していただきたくないのは、それは戦いとその結果が、日本の出版にとってあまり重要ではなかったとか、著者が重視してないということではない。それどころか、EPUBをめぐってのバトルはあり、一時は激烈になった。著者を含めたEPUB側関係者は、味方が少なく、帰趨の行方の見えない手探りの中を必死で戦い、少ないチャンスをものにして勝利した。それは価値のある戦いであり、勝利として記録する価値があるし、後述するように、教訓も多い。筆者は最大の意義として以下の3点を考えている。

第1に、日本語組版を(名ばかりでない本物の)世界標準として確立し、
第2に、それによって日本の出版界をEPUB3パラダイムに乗せた、そして
第3に、EPUBが世界標準として発展する上での弱点であった多言語組版サポートへの道を開いた。

いずれも、画期的な成果であり、一個にして三重の成果を導いた人々は後世まで(あるいは後世になれば)称えられるだろう。率直に言って、筆者は「勝利の記録」としたい。戦ったわけではないが、後世のためにも勝者を称えたい。業界の主流が、足並みを揃えて道を誤り、「交換フォーマット」なる泥沼の「仕様」を拵えたり、さまざまに高価な「機構」を増築したりすることに精を出す絶望的状況の中で、国際舞台で孤立した戦いを勝ち抜いて日本の技術者の実力と矜持を示し、産業的・文化的国益を守った。少なくとも、金メダルを取ったオリンピック選手より称えるべき理由は多いと考えている。欧米なら自然にそうなるだろう。

しかし、そうはしにくい理由も分かる。それは(多くの人にとって)勝利でも敗北でもない、じつにわかりにくい戦いだった。戦いがあったことさえ、知っている人はそう多くない。業界を二分したものでもなかったし、正面から対決したこともない。EPUBは、なんとなく日本でも標準となり、一時はたいそうな勢いだった「交換フォーマット」派も消滅した。

Gastrophetes関係者も存命であり、敗者はおろか勝者も語らない。少なからぬ犠牲があり(例えば、出版の混迷、税金の無駄遣い、ガラパゴス派のリーダーにされたシャープの消滅など)、結果として戦後の平和(技術の安定)が得られ、EPUB組版が世界性を獲得したとはいえ、すべて共有されるものだ。EPUBと出版の未来は万人に開かれている。

著者自身はEPUB制定過程に「積極的かつ主体的に」かかわったわけではない、と書いている。作戦の指示を出したり、白兵戦を戦ったりはしていないということだ。しかし、この「バトル」の中心にいなかったことは、本人を含むすべてにとって幸いであったのではないか。著者は、我田引水的漫談を得意とする人ではなく、伝聞を迫真のドラマに変えるような「ジャーナリスト」でもない。しかし、ストーリーテラーとして並ではない。もしいたら、決定的な瞬間の人々の表情や言動、せっかくの裏話などの多くをスルーできなくなり、そうなると立場上困る人も出て、世間を騒がせることになった可能性が大いにある。筆者にとっては楽しいが、それはあるべき未来からは外れる。戦記は、やはりそれぞれが「未来志向」で読み、そして共有するべきものだ。エピソードを加えることはほかの人でも出来る。

何があったのか

「EPUB戦記」は、IDPF (W3C)のEPUB標準大改訂に際して、日本語チームが日本語(多言語)組版の基本仕様を組込むことに成功した事件を対象にしている。それによって、Webを含むブラウザでの日本語組版機能の実装が容易になり、多くの便益が得られた。それだけなら「戦争」にはならない。IDPFでは、この仕様を持ち込むことが、(1)合理性があり、(2)技術的一貫性を損なわず、(3)全体のスケジュールを遅れさせない、ことを合意すればよかったが、それが通るかどうかは、提案する側の能力(と実績)に依存する。日本チームは十分に強力であり、この作業においてライバルは存在しなかった。

japaneseしかし、EPUBの日本語組版問題は、むしろ日本において政治的な様相を呈した。日本にはすでに仕様/実装製品/サービス/コンテンツが複数存在していたからである。それらは従来の商業出版社の個々のニーズに対応していた。これらの既存のテクノロジーとそのユーザーの利益を損なわない形でIDPFあるいは出版業界が関与する他の国際的団体に提案することがなぜ出来なかったか。それは標準のもとになる要求仕様が整理(抽象化)されていなかったためだろう。日本語組版の国際標準に入れることの意味を語れる人間もいなかった。

日本語の組版仕様の必要性を主張するためには、欧文組版を相対化し、非欧文組版の必要性と解決方法を訴えなければならない。「日本にはニーズがある」、「日本ではこうやっている」というのでは足りず、「こうすれば多言語組版が可能になる」という積極的な説明が出来なければならない。EPUB研究会は、まず現に存在する「日本語組版仕様」をJLreqとして(もちろん英語で)、W3Cの標準として提出し、それがEPUBの一貫性を損なわないことを示した。そのうえ日本語CSSライティングモードまでW3C経由で押し込むことに成功した。JLreqはEPUB3に「多言語組版仕様」を加えることで、W3CとIDPFの両方に大きな貢献をしたことになる。仕様は容易に実装され、有効性は実証されている。

以下は、筆者なりの「バトル」の理解である。
interoperability日本語組版仕様を、世界標準であるHTML/EPUBのレベルで盛り込むことは、それらに様々な影響を与える。例えば、世界標準の仕様/実装が無償公開されたならば、市場は自由化され、日本の個別ニーズに対応することを付加価値としてきた製品やサービスの価値は大きく棄損される。ITの世界はそうした変化に慣れているが、伝統的に組版を請け負ってきた印刷会社と丸投げしてきた出版社はまったく慣れてない。

伝統業界は「日本語のことは日本人が」というロジックで在来仕様(XMDF)をそのまま受け入れてくれる国際標準グループで採択させて対抗しようとした。こうした「名ばかり国際標準」は、海外で実装される可能性がない反面、国内市場にも影響を与えない。しかし、日本で実際に通用している「国内標準」は存在しないので、既存の仕様の間の「中間フォーマット」を開発し、それを業界でサポートすることで、代用しようとした。これは複雑な仕様化・実装・実証を必要とし、当然にも費用は大きくなる。関係者の多くは、自分たちが一体何をやろうとしているのか、それによって何を達成したいのかが見えなくなっていたのではないか。交換フォーマットは出来上がった時には死んでいた(いわゆるDead on Arrival=DOA)。

JEPAのEPUB研究会グループの関係者は、こうした動きが日本の出版の「ガラパゴス化」を固定化し、EPUB3をベースとする世界市場からの鎖国をもたらすことを懸念し、上述した通り、正攻法で日本語組版のグローバル化を達成した。つまり、縦組みを世界標準に入れることに成功し、専用のリーダなしで読めるようにした。実質的に数百億円の追加支出を防いだことになる。まともな標準とはこういうものだ。

初めて書かれた「標準化の教科書」

当事者の間で目に見える「バトル」はなかった。ゴールは違い、レースをしていたわけでもない。ガラパゴス軍は「世界」を相手にして自滅し、EPUBグループは、ニーズを知り、「世界」を知り、その仕組みを巧みに利用した。それなしでは限られた時間に成果を上げることは不可能だった。EPUB3というタイミングを逃したら、次の機会はない可能性すらあった。大げさでなく、彼らは日本の出版業界を救ったのだ。「戦記」に記されているW3CとIDPFそして関連する標準化団体とのタイムラインは、相当に混み合っており、とくに終盤の攻防は読みごたえがある。うまくいくときはこういうものだ。

EPUB日本語組版の不可欠な要素が、いかにして生まれたか、本書はじつに丁寧に書いている。標準は1日にしてならず。とくに組版のように複雑なものは、数次にわたる要求と実装仕様の積み上げの上にしかない。このことを知る人は少ないし、これらと国際標準化との関係を知る人はさらに少ないだけに、本書は貴重だ。技術開発や政策管理に関わる人にはぜひ読んでおいていただきたい。本書は初めて書かれた「標準化の教科書」である。

ockham標準は適用空間を前提とする。小さな空間(市場)では標準は不要で、顧客と開発者の了解でもいい。複数の実装が生まれ、空間が大きくなると「大きな標準」が必要になる。「大きな標準」とは、大きな空間に適用可能なように、機能と実装を区別し、互換性をとれるようにしたものである。しかし、大きな世界のニーズ(多種多様なニーズの調和)を実現するには「普遍性」を知らなければならない。社会が識別可能な普遍性にはスケールがあり、情報空間とともに拡大している。だから、標準は構造化、階層化されている必要がある。

出版はそうした標準の階層性が特に重要になる分野だ。文字や画像の表現だけでも、特殊な文字・記号や表現を必須とする分野があり、また出版というプロセスをサポートするサービスの仕様化も、ビジネスドメインによって異なる。EPUBは商業出版・教育出版を想定して生まれたが、重要なことはそうしたビジネスドメインの間のニーズの整理だ。これがいい加減なら、膨大な無駄を生じることになる。整理とは分類であり、抽象化の能力を必要とする。

日本では「普遍」が教えられず「タテマエ」と混同され、それより「現場」の「工夫」に価値が置かれる。概念や定義を問題にすると「アカデミック」と言われて軽蔑されるのが日本の技術文化だ。これでは「標準」はできない。筆者が「EPUB戦記」で感心したのは、悪弊を突破する鍵が書かれているからだ。(まだ続く) (鎌田、09/07/2016)

 

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