ラスベガスのCESは、さながらE-Readerのデビューイベントだった。これにタブレット(スレート)を含めれば、デジタルコンテンツを表示する“メディアビューワ”の時代の本格的な幕開けと言える。米国、欧州、台湾、中国、韓国と、この新市場に参加する国も多彩なら、大企業から小規模なスタートアップまで、企業も多彩だ。しかし、日本の影は薄い。テレビの時代が終わったことを認められないからだ。
なぜいま、メディアビューワなのか
今年のCESは、ebooks TechZoneを設けたが、このゾーンには20社が出展している。市場の参入への敷居が非常に低いことは、上述した傾向を見てもわかる。それにしても、ビューワに求められる機能はすべてPCやスマートフォンで実現されており、何一つ新しいものではない。アップルのiPod/iPhoneが何も新しい機能をもたらさなかったのと共通している。だから、機能に注目している限り、新しい市場は視界に入ってこないだろう。いちおう特徴を整理しておくが、基本的には、
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E-Book and/or Webマルチメディア表示にフォーカス
- 電子ペーパーないしカラーないし白黒の液晶
- タッチスクリーンによるUI
- メディア管理ソフトウェア
- 3D/Wi-Fi によるインターネットへのアクセス
オプションとして
- オンラインライブラリへのアクセス
- オンライン・アプリケーションのサポート(写真は仏Bookeen社Cybook Opus)
といったところだろう。用途はエンターテイメントだけでなく、ビジネスでも教育でも使える。カラーは必須ではない。本の代替と考えれば白黒4階調、ビデオビューワを考えればフルカラーということか。価格的には3万円が中心的な価格帯で、部品の調達と組立は、ほぼアジアだろう。なぜソニーを除く日本メーカーは、ここにいないのか。おそらく、
- コンテンツがない日本では売れない。
- 海外では価格競争も激しく儲からない
- 機能的にはPCや携帯、テレビでカバーできる
というスリーアウトで検討はおしまいになってしまうのだろう。それでは、CESに登場した大小雑多なメーカーは成算もなく、このローリスク・ローリターン(あるいはノーリターン)の市場に参入しているのだろうか。ユーザーを喜ばせるだけのために?
デジタルメディア時代のハードウェアへ:テレビの時代は終わった
そう、ユーザーは喜ぶ。それは基本的に重要なことで、新しいゲームはそこからしか始まらない。市場は彼らのためにあるのではないか? 技術パラダイムの変動期のビジネスの原則は、とりあえず市場の求めるもの(ユーザー体験=UX)をライバルに先駆けて、単独であるいはコラボレーションで実現し、利益モデルは後で考えよ、ということだ。UXで評価される限り、生き残ることはできるし、ビジネスモデルを拡張したり再構築したりする余地も生まれる。日本で失敗したソニーが米国で成功したように、このゲームでは1回の失敗で終わりと考える必要はない。そこはネットビジネスとは違う。「電子読書端末」などと“箱モノ”の発想さえしなければ、マーケットは多様であり、ハードウェア+ソフトウェア+コンテンツの組合せは無数に考えられ、ほとんどが未開拓だ。
ゲームがリセットされ、過去のモデルの前提が消えようとしている時に、市場に参加するより前に確実に儲かることを要求するような経営者はいずれ退場させられるだろう。メーカーではなく、ユーザーになった方がいい。デジタル時代の市場競争を経験しているのは、ネットビジネスの出身者だけかも知れないが、ゼロベースで考えれば出来ないことではないと思う。現に台湾や韓国、中国のハードメーカーは確実に地歩を固めつつある。伝統的な「モノづくり」の遺産を生かすも殺すもマーケティングしだいである。
私見では、このプレーヤーは、3Dテレビなどよりよほどインパクトがあると思う。むしろテレビを呑み込むほどのものだ。テレビもビューワの一つと考えたほうがよい。ちなみに、3D機能そのものはテレビが前提ではなく、3Dのタブレットやスマートフォンでビデオやコンテンツを観ればよいだけの話だ。ようするに、「テレビ」という夢の箱が売れる時代、放送とDVD録画が全盛の時代も終わろうとしているのである。日本の家電メーカーが苦戦するのは当然で、ひたすら「高画質」にこだわり、市場の現実を受け容れることを拒否していられる時間は、そう長くはないだろう。
最悪なのは、日本では放送コンテンツとテレビ(受像機)の関係の上に、メディアビジネスや行政はもとより、産業・社会システム(あるいは会社の中の力関係)のすべてが最適化されていることだ。かつての家電の王者であるテレビの広告費に多くを依存しているメディアは、まるでテレビの黄金時代が続いているように振る舞っている。世界市場で敗れ、東芝以外は全部赤字に近いという悲惨な現実を見ないことにエネルギーを注いでいるようだ。アメリカ人は「金槌しか持っていないと、何でも釘に見えてしまう」ということわざを使うが、日本のメーカーはデジタル・プレーヤーの興奮を素通りして粛々と幻の“3Dテレビの決戦”に赴こうとしているかに見える。一世代続いた過去の栄光の税金をいつまで納めなければならないのだろう。 (鎌田、01/09/2010)