「電子書籍の開放を阻むべきではない」という佐々木俊尚氏の文章 (CNET Japan, 4/14)は、この国のジャーナリストとして稀な勇気ある提言で、ただの正論と(いうのも変だが)みるべきではない。共感する人は、Twitterなど様々な手段を使って、腰の座らない出版業界に読者=消費者の正論を届ける努力をする価値がある。彼らは読者とかなり遠いところで疑心暗鬼に陥ってしまっている。日本の出版の歴史において、いまが決定的な瞬間だ。出版業界は変わるべきだし、そのマインドセット以外に変われない理由はないと思う。
日本の10年間の電子経験:「携帯」の栄光と「一般」の悲惨
佐々木氏は、この10年間の出版業界の取組みを「1999年以降、ほとんど進んでいない」と総括し、問題が「電子書籍の流通・購読システムにあったことは明らか」としている。マンガとポルノを携帯に流して400億もの売上を上げているところをみても、それはいえる。パブリを「営業努力も何もしないまま朽ち果てようとしている街外れのうらぶれた書店のようなたたずまい」と適確に評しているが、そもそも出版社が共同で書店をやろうというのは、どだい無理だと思う。結果的に大手出版社は、周期的なプロジェクトに足並みをそろえつつ、消費者に電子書籍への関心を失わせてきた。「やっぱり駄目だ」という意識を共有していた時に、アマゾンがまさに「流通・購読システム」にフォーカスして成功した。Googleは「勝手」にスキャンして売る、と言い始めた。「黒船」である。
少し補足する。世界的にみて、E-Bookはまず技術系・専門書系から普及していった。つまりPCで読む専門家向けの図書(大半が数千部)の電子化から始まったわけだ。これは特殊な市場と見るかもしれない。しかし、世界的には数10億ドルの売上を上げる企業がいくつも存在するし、なによりも科学技術情報の流通という戦略的に重要な分野で電子化が先行し、日本の科学技術出版がそのトレンドからひき離されていることが問題であると思う。普及前夜とも言える英国の電子書籍市場は、日本の「マンガ+ポルノ/携帯」の売上に近い額を「科学書+専門書/PC」で上げている。アマゾンは一般読者を対象とする一般書で成功したが、これは最後の重い扉を開いたことを意味する。専門書のE-Bookは出版社の直販が主流(部数は少なくても利益率が高い)のに対して、一般書では書店の役割が大きくなる。そしてアマゾンは世界最大のオンライン書店であった。
「既得権益防衛に走る高齢高所得出版社員」佐々木氏のこのネーミングはすばらしい。実際には「高齢高所得」はほんの一握りだが、社員の創造的エネルギーを喪失させる上で、彼らの力は大きいからだ。電書協の活動の柱にパブリがあるのを見て、佐々木氏は「本気でパブリがiPadやKindleに対抗して日本の読者に受けいられると考えているのだろうか? もしそう本気で思っているのなら、なぜいままで放置しておいたのか?」と述べているが、まったく同感だ。パブリの問題はいろいろあるが、最大のものは「読みたい」とか「読ませたい」といった「気」が皆無だということだ。Webを使いながら、Webで使えるソーシャルな機能をまるで活かしていない。スタッフに「やる気」がないとは想像できないので、これはチームマネジメントがなく、またチームとしてのミッションが明確でなかったためなのだろう。
電書協が言う標準についても、佐々木氏は(ITに疎い)出版関係者の勘違いを指摘する。標準はサービスが機能する技術的アーキテクチャを前提として機能するが、そのサービスはすでにコンテンツの流通を超えて、コンテンツとデバイスとWebサービスをネットワーク化し「それらを包含したかたちでアンビエントなシステムを丸ごと提供する方向へと動いている」のである。これもまだあまり理解されていない点だ。問題はガジェットではなく、ビジネスモデル=プラットフォーム=UI/UXの一体的なデザインであるということは筆者も主張しているが、要するに聞きたくない人には通じないということだと思う。
文系と理系、技術と営業、ものづくりとサービス、といった従来の分業が意味をなさなくなっているのに、企業のシステムが変わらない。いまだに垣根を越えようとせず、チームを動かすリーダーもいない(というより淘汰されてしまっている)ためだろう。これは出版社だけではなく、すべてに共通している。大企業でもないのに大企業病に罹っていた大手出版社が「黒船」に怯えるのは当然かもしれない。
最後に佐々木氏は、出版業界に対し「堂々と戦え」と呼びかけている。消費者の囲い込みという不毛な企てをやめるべき理由としてあげるのは、1980年代のPC市場だ。AT互換機とWindows 3.1登場以前、日本人は世界で一番高いパソコンとソフトを使っていた。トップブランドのNECは巨大な本社ビルを建て、当時の日本は高いITコストを吸収したが、結果として市場は脆弱になり、長期的にかなりダメージを遺したと思う。佐々木氏が言う「堂々とした戦い」とは、「KindleやiPadと互角にわたりあえるアンビエントな優れたサービス」を提供するプラットフォームを、非市場的な手段を使わずに構築し、消費者に選択されることである。正面切って反論できる人は少ないだろう。
日本は「堂々」と戦えるか?:問題の根にあるもの
ここで筆者の感想と蛇足を申し上げたい。日本の出版業界は動揺していてみっともないが、どこの国でも外資に対して寛容であるわけではない。中国などは最たるものだが、フランスも独自のプラットフォームに走っている。やり方によってはうまくいくかもしれない。ただ、方向を決めて、慎重にかつ機動的に動けるかどうかで成否が決まる。フランス人は意外と器用だ。重要なのは著者と読者であることは言うまでもない。著者と読者の間に立つ価値ある存在としての歴史的自覚があれば「中抜き」などという恥ずかしい言葉は出てこないはずで、出版関係者は慎まれるほうがよい。サプライチェーンにおける無用な存在を意味する「中」は、出版社に相応しい言葉ではないからだ。
日本の出版社にとっての問題は、じつはWebでもアマゾンでもない。金融と密接に絡んだ、レガシーとしての流通(取次・書店)システムだ。この前近代的システムを、当事者にとって受け容れられる形にリデザインできる自信がないから電子書籍に取り組めないのである。じつに2世代にわたって問題は封印されており、当事者があまり話したがらない問題だが、ここを避けては通れない。いや通れないことはないが、それでは市場経済へのハードランディングか、統制経済の強化(による孤立化)かという二者択一になってしまう。筆者はどちらも嫌で、日本にとっての「中庸」をもとめている。
市場経済をタテマエとする日本は、一皮むけば中世以来の「座」が生きている社会だ。中世的な「座」の多くは、戦国時代後期に自立性を希薄にした「御用商」に再編され、座として生き残ったのは芸能・職能集団が中心だった。輸入品であるメディアビジネスが、いわゆる近代化以降「御用商」と「座」として組織された経緯はじつに興味深い。新聞と放送は前者で、出版は後者ということになろう。明治に生まれた出版界は、言論統制を受けながらも、独立心旺盛な出版人によってかなり自由な発展を遂げてきた。戦前に出版された本を見ると、そのレベルの高さに感心する。
1941年、政府は出版取次約240社を強制的に解散し、日本出版配給株式会社(日配)に統合して統制下に置いた。日配は1949年に占領軍の命令で活動を停止したが、それを母体とする2社が現在の出版流通を支配している。とくに株主でもある大手出版社によって強く支持されているからである。出版社が共同で株主となって流通2社を設立したといってもいい(旦那/パトロン)。だから出版社によって取引条件が同一ではない。ルールで決まるのではなく、当事者間の歴史的関係で決まるのである。取次は大手に対しては金融を行うが、中小零細にはそんなことはしてくれない。競争条件が同一ではないというと、市場経済の国ではアンフェアということになるが、日本では関係者によって「格付け」は当然のこととされてきた。この形は、もちろん世界的にみても特異なケースで、外国人に説明するのはかなり難しい。大手にとっては「ぬるま湯」だが、中小零細や新参にとっては冷水のようにイタい。
さて、この実質的な統制システムは、日本社会の様々なシステムと同様に、機能不全を起こしている。当事者をも苦しめているが、ビジネスのエコシステム(生態系)のプラットフォームになっているために、一部を変えると必ず他に影響が出る。長い間、管理者のいないシステムとして動いてきたので、変えるべき人材も育ってこなかった。しかしもう危機的な水準に達している。既存の流通システムを前提としても、ステークホルダーの生存が保証されない。他方でE-Bookはゲームのルールが違いすぎる。紙と電子の両立を図るには、印刷本の流通改革を同時に進めていく必要がある。返本の山で窒息したりすることのないようにしなければならない。政府を使うのもいいが、それは移行促進するものでないと意味がない。
考えにくいことを考える:中世からのソフトランディング
電子書籍について大手出版社が懸念するのは、例えば以下のような点だ。
(1) 流通による価格支配
(2) 流通における優位の喪失(書店の棚空間)
(3) 著者との契約の複雑化
(4) 海賊版による損失
(2) はたいした問題ではないし、(3) 以下も冷静・迅速に対処すれば大事にならないうちに仕組みは出来る。(1)はかなり誤解されている。出版社から11ドルの卸値でベストセラー本を買ったアマゾンが、$9.99で消費者に売ることが、著者や出版社にとっての損害になるという可能性は(紙の本がその分売れなくなったケース以外に)証明困難だ。むしろ逆の可能性が高い。電子本の価値は、紙ほど高くないからだ。だからアマゾンが1ドル負担してくれていることに感謝してもいいかも知れないのだ。しかし、エージェントモデルで固定価格にして、売れようが売れまいが放っておかれたほうがいいというなら、そちらの方式を選べばいい。アマゾンの価格設定は、膨大な過去の取引データから割り出している(同社の顧客とシステムを前提とする限り)合理性の高いものだ。パブリはE-Bookの価格設定についてどんな経験をもたらしたのだろうか。
価格を市場の実勢に委ね、単価×販売数量の総和が最大化するように調整するのが市場経済の基本で、これを破るとまず消費者が損害を受け、最終的に生産者も損害を受ける。筆者自身は市場経済は嫌いだが、これだけは仕方がない。情報を腐らせてしまうよりも、流通させた方がよいと思うからだ。もちろん、アマゾンのように、億単位の消費者に数十万点の商品を扱う場合の「単価×販売数量」の総和と、年間数十~数百点の出版社の「単価×販売数量」の総和とは異なる。大きなマーケットが意味を持つ場合と持たない場合がある。専門書などの「ニッチ」であれば、出版社のほうが消費者のことをよく知っている。アマゾンを使うとすれば、想定外の消費者を考慮する場合となる。
他業界に比べて、日本の出版社はともかくマーケティングの経験が浅い。「定価」を絶対視し、消費者は納得すべきだと考える。それを嫌う消費者は古本屋に行く。日本の古本屋の充実ぶりは世界的にみても驚異だが、そこにだけ絶版本を含めた市場があるからだ。柔軟な価格設定は、生鮮品と骨董品を合わせたような情報の市場では絶対に必要な要素だ。膨大なデータを管理し、そこから市場のダイナミズムを読み取ることは可能になっている。アマゾンやアップルの流通プラットフォームは、たんなるデザインではない。バックエンドにはデータの集積と解析のシステムと優秀なスタッフがあり、それが競争優位を導くのである。だから、彼らに「規格」で対抗しても、よく似た「プラットフォーム」で対応しても、勝つことはできない。出版社が頭を使うことの楽しさに目覚めないと、読者も楽しく使ってくれない。日本で本の未来は暗い。
筆者は、東日版と楽天やYahooのようなコマース各社が参加する、徹底してオープンなプラットフォーム(楽座)が唯一現実的だと思っているが、また別の機会に述べたい。(鎌田、04/22/2010)