鎌田の「デジタルプラットフォーム」論にたいする中西秀彦氏からの返信。「攘夷か開国か」「勝つか負けるか」という単純な「ますらお」発想にたいして、「電子書籍が本格化すれば、印刷と出版編集それに著者が対等な立場で協力し合いコンテンツをつくりだすという時代が来る」と考える「たおやめ」発想の重要性を、日本的な特殊性を踏まえて説いておられる。印刷会社の課題は、これでとても鮮明になった。むしろ問題は、出版社がデジタル時代の新しい編集、本づくり価値を提示できるかどうかだ。
デジタルの新千年紀は「たおやめ」流でしなやかに生き残る
中西秀彦
出版と印刷との日本的関係の先にあるもの:出版社は必要か?
京都人へのご評価ありがとうございます。おっしやるとおり、京都人は、数の力で圧倒したり、論理でねじふせたりすることは好みません。京都は平安貴族の昔から、すべてを受け入れていく「たおやめ」の文化です。ところが、今の文化は良きにつけ悪しきにつけ武士道的な「ますらお」文化です。猛々しく、勇ましく、そして己が信念を貫くことを清しとする文化です。電子書籍でも勝つか負けるか、勝てば電子書籍の利益がすべてが手に入り、負ければ失業するのみ、という「ますらお」の原理で語られています。
平治物語絵詞をみてください(上の図版=ボストン美術館蔵)。堂々と行進する武士、それを怖々遠巻きに眺める公家衆。これが、今から1000年前、武士が台頭して平安公家の「たおやめ」文化が「ますらお」文化にとってかわられた瞬間でした。
なぜ、日本では欧米のように出版社がDTPをおこなったり、コンテンツの製作をおこなってこなかったのか。アメリカの電子書籍ビジネスモデルでは、そのことが前提だという鎌田さんの指摘はあたっています。日本の出版社がDTPの担い手でなかったことが、日本の電子書籍コンテンツの充実が遅れたことの、原因のひとつであるのは確かだと思います。
日本では決定的に出版社にITリテラシーが欠けています。新興の出版社では自社でDTPをすることで伸びたところもありますが、古くからある出版社はITに強い人が極端に少ないか、主流を歩いていない。むしろ忌避する人の方が多い。コンピュータというと、人間の尊厳を冒す怪物のように思って、古臭いコンピュータ支配ディストビア論を展開する人すらいます。
パーソナルコンビュータは中央集権コンピュータではありません。それはむしろ、市民が生み出し、市民運動が育てた市民のための装置です。DTPは高価な活字印刷を使わなくても本格的な印刷物を手にいれたいという市民の切実な願いから生まれた。だからこそ、アメリカの出版社はパーソナルコンビュータを違和感なくとりいれていったのです。もちろん、タイプライター文化の伝統は大きかった。パソコン初期アメリカの出版社でタイプライターを打てない人はまずいなかったでしょう。この文化的伝統にディスプレイがつけくわわったとしても、それほど差を意識することはなかった。コンピュータだからと構えることなく、ワープロをそしてDTPを使い込んでいった。
たいして、日本では、手書きの原稿を印刷屋にいれて、活字になってから赤字をいれるという出版社の悪しき伝統がありました。そうしないと手書き原稿では推敲すらできないのです。日本には英語圏のように気軽に使えるタイプライターなどありませんから、ゲラが出てからでないと文章の全体像が掴めない。ゲラになってから文章に手をいれるという体制はワープロ時代になってもほとんどかわっていませんでした。私事で恐縮ですが、十数年前のわたしの処女作『活字が消えた日』は全文、パソコンのエディタで書き、出来しだい電子メイルで送信していました。当時としては先端のIT製作だったわけです。ところが、このデータを元に印刷会社で版下が組みあがったあと、編集者が文章訂正をびっしり赤字でいれていくのです。それはそれはすさまじいものでした。私は印刷会社の経営をしていましたから、あの赤字のはいったゲラを修正するオペレーターのことを思うと胸が痛んだものです。
この体制は結局、出版社の編集局と印刷会社の役割を峻別していきました。編集局の仕事は企画を考え、原稿をとりたて校正を行い、印刷会社はただ、ただ言われる通りに作成するのみ。だから、出版社がDTPを担うというかたちにならなかった。
もちろん、技術的には欧米に比べて日本語組版の困難さということもあると思いますよ。すこし考えても、欧米組み版のアルファベット26文字、左横書きだけに比べ、漢字6000字、縦横書き混在とでは日本語組版はあまりに複雑です。今、印刷業界では、文書のXMLデータ化は重要な仕事ですが、欧米製のDTDでは、日本語を表記しようとするとたちまち行き詰まります。かなり広汎な拡張が必要でしょう。この日本語組版の特殊性から、出版社が組み版に深入りできず、印刷会社の役割を分ける原因のひとつになっていきました。
結論として、電子書籍にあたっても、出版社があの複雑な日本語組版を行うということは考えにくい。
ここにあたって、この対論最初の問題にもどりますが、「出版社は必要なのか」という問いを発せざるをえません。著者と電子書籍のベンダー、そして技術者としての印刷会社があればそれですむのかということです。結論から言えば、当面、出版社の役割は大きいと思います。いわゆる「編集」の機能です。著者の仲介も含めてしばらくはこの役割は出版社に残ると思います。しかし、電子書籍の流通が本格的になってくれば、出版社を実際に支えている「営業」や「製作」といった部門は必要がなくなるか、今とはまるでちがうものになる可能性がある。そうしたとき「編集」も今までと同じ役割がはたせるかどうか。今の丁寧な「編集」は紙の本による流通という前提のもとになりたっているもので、これがなくなれば「編集」は維持できない。
当面、出版社の編集機能+印刷会社というあり方でないと電子書籍化は覚束ないのは確かですが、果たして、その次の段階になると、「編集」そのものも生き残れない可能性がある。ではどうなるか。これは予測がつかないのですが、日本の電子書籍製作モデルは欧米のものとはかなり違ったものになることだけははっきりしてきます。出版社が電子書籍製作の担い手となる欧米型と違い、出版社は製作を担わず、「編集」のみを行い、それを下請けさせるかたちで、電子出版の作成を印刷会社が担うというかたちです。そしてこれからスタートするにしても、それが欧米型の出版社中心に移行するのではなく、「編集」機能が低下すればするほど、また「編集」が疲弊すればするほど、印刷会社中心へと移行していく。この場合の主導権はどこが握るか。出版社がEPUBやXMLに習熟して、印刷会社を廃業に追い込むか、印刷会社が編集機能をもって出版社を壊滅させるか。はたまた著者が自分でやるか・・・・
ではなく、そうした主導権をどこが握るかというのはそもそも「ますらお」的な発想です。私は電子書籍が本格化すれば、印刷と出版編集それに著者が対等な立場で協力し合いコンテンツをつくりだすという時代が来るのではないかと思います。電子書籍の「たおやめ」化です。いや、来させなくてはならない。そのためにも印刷業界はもちろんですが、出版業界にも電子書籍に対して、いまだ時は満たず、隠忍自重をお願いしたいですね。
そうするとやはり日本に、というより、東アジア漢字文化圏にはそれに適した「印刷クラウド」がいるという鎌田さんの提案に近づいてくるのではないですか。
オンデマンドこそ100%デジタルが生きる
オンデマンドへの期待は大きいようですね。あまり指摘する人がすくないのですが、オンデマンドの技術はデジタル技術そのもので、デジタルでのアーカイビングと表裏です。いわばプリンタなのですから、100%デジタルでできていなければならない。いまのところはアーカイビングというと、紙の本をスキャンしたものを思い出しがちですが、早晩、すべての本はボーンデジタルになります。こうなるとオフセットで作るより、オンデマンド作るメリットがはるかに大きい。今、学術雑誌の世界では、オンラインジャーナルが主で印刷本は従という時代が来ています。まだ紙の雑誌も出ていますが、いつ紙がなくなっても学術雑誌は成立できます。まずはXMLでオンラインジャーナル用のデータを作り、それを自動組版で印刷版に焼き直すという作り方にをするようになりつつあるからです。ここで、基本的に、オンラインででているものをわざわざ紙の本でも読もうという人は少ない。ただしゼロにはならない。ここにオンデマンドの成立する余地があるのです。(図版=伴大納言絵詞より伝「源信」、出光美術館蔵)
将来的にはすべての書籍データはまずXML(もしくはそれに相当する物)で作られ、必要に応じて、電子書籍にしたり、オンデマンドにしたりという方法がとられると思います。だけれど、紙でのオンデマンド出力は画面表示のできの悪い代替品であってはならない。今は画面表示の品質が劣るから、別途プリントアウトするとか紙の本が必要という人は多いのですが、画面品質は急速にあがるでしょう。読みにくいから紙が必要と言うことにはならない。質の高い画面があっても、わざわざ紙で印刷しようというからには、オンライン以上の付加価値、組版も印字品質、そして装丁も最高品質の物でなくてはならない。
印刷のXML化。そしてそれを紙で印刷するときには、最高の組版技術・オンデマンド印刷技術・製本技術を提供する。だとすると、印刷業界も培ってきた技術を活かしつつ、ゆるやかに、電子書籍の時代へと移行していけます。オンデマンドがバッファになって、本の世界は電子化していく。本があれば書店もしばらくは食べていける。
デジタル時代は「たおやめ」の文化。誰かが、誰かを完膚無きまでたたきのめすのではない、それぞれがすこしつづゆずりあいながら、ひとつの理想に向かって、知恵と力をだしあう。先頭を走る英雄を賞賛するのではなく、ステークホルダーみんなが、ひとつの理想に向かう。それこそが、これから時代のあり方ではないのでしょうか。
平治の乱から約1000年。この1000年がますらおの千年紀とするなら次の1000年紀はたおやめの1000年紀となりますように。(05/05/2010)
◇中西秀彦氏プ ロフィール
不定期シリーズ「E-Bookとデジタル時代の印刷業」
第 1回:E-Bookと印刷業 (1):印刷業こそ先頭にいる
第2回:E-Bookと印刷業(2):紙の桎梏と呪縛からの解放へ
第4回:E-Bookと印刷業 (4):生き残りをかけた軟着陸戦略
[…] E-Bookと印刷業 (6):デジタル時代こそ創造的協調 (No Ratings Yet) Loading … Filed Under: Docs & Links, EventsTagged: /* Hiding avatar from forms for enetering new comments */ /* hide avatar from the fo […]