遅くなったが、8月10日に開催した第5回研究講座「「“電子書籍元年”の中間総括-印刷業界の視点」のまとめと感想を。ものづくりとしての出版の実務に足を置きながら広く活字=出版文化をみておられる中西秀彦氏をゲストに迎えたことで、現時点での「電子書籍」と新しいメディアとして創造されるべきE-Book (2)との違い、移行の方向性が見えてきたように思う。それに中西氏の「抵抗勢力」論の真意も。
出版は<生産・流通・販売>の三位一体で存在するが、そのなかの生産も<著作・編集・実装>という三位一体で成立していると考えられる。E-Bookは実装(implementation)を電子化するものだが、そこに電子的な実装の対象としての版(edition)が介在しないのなら、それは「出版」ではありえない。また、著作や編集の結果生まれる電子的成果物がそのまま版として通用するなら、実装は自動化され、文字組やページ制作で従来、デザイナーや印刷会社が行っていた業務もソフトウェアに吸収されることになる。E-Bookにおける印刷会社の役割は、「版」がどのようなものかということにかかってくる。
中西氏の「抵抗勢力」戦術と移行戦略
今回お呼びしたゲストは、新著『我、電子書籍の抵抗勢力たらんと欲す』で議論を興した中西秀彦氏。知る人ぞ知る、この20年あまり印刷現場の電子化を陣頭指揮してきた中心人物で、「中西印刷のE-Book戦略」といった題で登場してもいっこうにおかしくはない。じじつ、基本的な準備は完了していると思われる。「タイトルは内容に合っていない」と感じた読者も多いようだ。だから「抵抗勢力たらん」という真意を理解するには、少しばかり想像力をはたらかせる必要があるのかもしれない。ふつう、日本では既得権益があれば黙っているし、なければ新しいものに抵抗する意味などないと考えるのが一般的なので、こうしたことあげは理解されにくい。
どうみても、中西氏は、生き残れる自信がないから、先が読めないから「抵抗」してやるというわけではない。むしろ社会的な役割の自覚を持って、政治的に行動しようとしているとみたほうが正解だろう。同業からの支援を得られないままで、出版社やIT系メディアを敵に回す可能性を承知で、あえて殿(しんがり)の将を買って出た勇気を評価したい。筆者なりに真意を忖度すると、
- 日本の活字出版における印刷会社の役割を明確にする
- 印刷業が産業としてE-Bookに関与する道をつける
- 印刷業が担ってきた「活字文化」を可能な限り移行させる
ということであると思われる。これらは正論として言っているだけではだめで、政治的プロセスを通じないと実現しない。きれいごとではすまないから、たとえば「版面権」のようなものをもちだして、印刷会社を無視した電子化の流れを遅延させることも必要になるということだ。これは、例えば海外の狡猾なプロサッカー選手が、審判の時計を進ませるために、あらゆる手段で時間を空費させる戦術とも似ている。それだけを取り上げて批判しても見当違いというものだ。
中西氏の講演は、ちょうど前日に『マガジン航』に掲載された「『我はいかにして電子書籍の抵抗勢力となりしか」という文章と重なる。ご実家の印刷会社で(明治のはじめに木版を活版に移行させて以来の)電子組版への移行を成功させ、ついでオクスフォード大学出版局の英文オンライン・ジャーナルで電子出版物の製作に取組まれるなど、中西氏はインターネット出版の技術と実装、表と裏に通じている。だからこそ、従来の延長の「日本的展開」には慎重になるのだ。彼は、出版社に根強い、言論と学問の支配者、原稿の査読者としての「エリート意識」が、電子書籍の普及を遅らせてきたと指摘し、600億円という市場も、実際に売れているのは電子辞書とケータイ・コンテンツのみであり、iPadなどのガイアツが市場を開いた恰好にはなっているものの、コンテンツが儲かる構造は生まれておらず、このままでは供給プラットフォームが牽引する“デフレ型”の普及でしかないと主張する。
電子的な版を誰が作るのかという視点は重要だ。これまで版を扱ったことのない出版社には難しいので、印刷会社が担う可能性が強い。オーサリングが簡単になれば、著者でも扱えるようになるだろう。手間暇のかかるリッチテキストの場合には、印刷会社が担うことになる。iPadで試みられているようなアプリ型(マルチメディア)コンテンツでは非組版系の技術の比重が大きくなるが、定着には時間がかかる。印刷会社にとって最悪のシナリオは、印刷需要の低下傾向が拡大する中で、E-Bookの普及は進むものの電子コンテンツ制作からは収益が上がらず、あるいは印刷会社が中抜きされる形で行われることだろう。会社というものは、たとえ未来がバラ色でも移行期を乗り切れなければ維持不可能だ。そこで「抵抗勢力」となってでも時間を稼ぐ必要も出てくる。嫌なら転換に協力すればよいと社会を納得させられればベストで、最悪でも時間だけは稼げる可能性はある。
コストによる選別がない時代に品質をどう確保するか
忘れてならないことは、安価に作れる電子書籍によって出版文化の質の低下が避けられないことだ。印刷書籍の高コストは、出版への障壁を高くすることで(結果的に)フィルタリング効果を果たしていたわけだが、それがなくなれば、現在の比ではなく玉石混交の状態となる。中西氏は「よいものを選択する」市民社会の良識を信じていない。スライドでは「佐々木俊尚的太平楽は書籍を劣化させる」とあった(マガジン航版では個人名を削除している)。佐々木氏はTwitterで「キュレーションを『太平楽で信じられない』はちょっと笑った。」とコメントしたが、この点はぜひ対話あるいは論争として展開していただきたい。佐々木氏が太平楽かどうかは、「キュレーション」論を熟読玩味する必要がありそうだが、Webという(さらに巨大な)混沌が「よいもの」を選ぶ可能性を持つには、かなり厳密な条件や方法論が必要であると考えている。
価値、とりわけ文化的な価値を客観的に主張するには、多元的でかなり高度なプロフェッショナリズムと説明能力が前提になる。それに価値は民主主義とも市場経済ともなじまない。価値は微妙な違いにあるもので、それが幅広い人々に理解される可能性は皆無ではないにしても、利益主義と悪しき民主主義、権威主義に首まで漬かっている商業メディア以上のパフォーマンスを期待するには、少なくとも新しいシステムを構築し育てていく青写真が必要だと思う。米国で喧伝(Forrester社のセーラ・ロトマン女史など)されているcurate computingも一つのプロフェッショナリズムを前提としており、アップルのiPadのような形をネットの混沌からの解として示しているものでしかない。筆者にはとうていiPadが「よいもの」を選ぶオルターナティブとは思えない。
中西氏には、紙と同じコンテンツをリーダで読む、という形が画期的なものとは思えない。画面に書棚を出したり本を手に取る真似をするようなUIは、映画と舞台を見せていた初期のテレビを思わせるものがある、と指摘する。Webとの融合によって新しい概念としてのメディアが生まれ、文化としての出版(ビジネス)の可能性が生まれると考え、印刷本のデフレ的再生産ではなく、むしろそちらのほうに期待を寄せておられるようである。やや観点は違うが、現在の電子書籍がなんら新しいものではないと考える点では、欧米の議論と共通している。電子書籍で新しいのは保存・流通のみであり、その結果、消費者を相手にしている流通プラットフォームのみが急速に発展しているが、出版はまだ有効な対応ができていない、というのである。現在の形の電子化は、なお流通主導であり、出版を拡張・進化させるものではない。
再生に向けて:出版の「協創空間」
冒頭で述べたように、出版における生産機能は、<著作・編集・実装>として実現される。新しいメディアとしてのE-Bookは、そのコラボレーションの高度化によって生まれることになるが、中西氏は、著者、編集者と印刷会社による「協創空間」から生産されていくことを提案されている(下の図)。そこでは、編集=出版者が中心となって配信プラットフォームを利用してく形と、印刷会社が中心となって配信プラットフォームを利用してく形が考えられるが、いずれにせよ「配信プラットフォーム」の運営主体とサービスの形態によってかなり違ったものとなるだろう。
「協創空間」がどのようなものとなるかは、コンテンツの作り方、つまりコンテンツに対してどんなサービス価値を提供していくかによって変わってくる。その機能の実現は配信プラットフォームに左右されるので、もはや流通と別にコンテンツを考えることはできない。筆者は流通主導の市場形成よりも、困難だが「協創空間」がエコシステムとして発展していけるようなオープンな配信プラットフォームが共存する形を理想的と考えている。それを機能させるのは、「フォーマット」よりは「メタデータ」であろう。中西氏は、OUPのプロジェクトで、デジタル出版とはXMLであることを発見している。XMLこそ出版におけるコンテクストをデザインしコントロールする鍵であると私も思う。(この項続く=鎌田、08/19/2010)
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