近代出版は機械技術に依拠した。機械文明の産物であった。情報を機械で扱ってきたが、人が頭で理解する情報を機械で扱えるものにするまでの膨大な準備作業が人間の手に残された。デジタル化はその間を様々なデータとシステムで埋めていったが、いまや労働集約的部分を置換え、機械を置換えたことで新しい段階に達した。しかしこれで終わりではない。あらゆる物理的制約から逃れ、いよいよ情報の意味と価値を直接扱うことが可能になった、という意味で出版のルネッサンスが訪れようとしているのである。しかし、そのためにはWebという新しい技術パラダイムを理解しなければならない。(写真=マルコーニとマクルーハン)
グーテンベルクの銀河系は、いまやWebの銀河系に吸収されようとしている。フルデジタル化は、デジタル革命の終着点であるとともに出発点でもある。このサプライチェーンの中で、もはや逃げ込めるニッチはない。とすれば表に出て正々堂々と勝負するしかない。武器は出版人としての矜持、そしてデジタル技術だ。後の方は自信がないという方がほとんどだろうが、たいしたことはない。何をしたいのかがはっきりしていれば、あとは専門家がやってくれる。組版や製版の詳細を知らなくても編集者が務まるのと同じことだ。だがどんな専門家も、何をしたいのかだけは教えてくれない。なすべきことの確信を得るには、出版の本義を確認し、利用可能なテクノロジーの仕組みと機能を知る必要がある。人の話を聞くのはいいが、人任せにしてはいけない。
情報技術にベスト(完全な解)はない
出版とは知識情報を配布・販売する目的で製作・複製・発行することを意味する。この機能を担うプロフェッショナルには、高度な専門性と社会性がもとめられる。プロセスがデジタル化され、誰でも「コンテンツ」が作製・配布できたとしても、専門性/社会性が出版の属性から消えることはない。出版に必要とされる技術(その多くは目に見えない)の専門性は、つまるところ情報の意味、構造、表現を扱うところにあると思われる。著者ももちろん意味を扱い、精密に構造化するが、編集者はより大きな構造を扱い、社会的コンテクストの中に位置づける。これは意識的・無意識的、論理的・感覚的な要素が混在する仕事である。しかし最後はその構造を物理的あるいは電子的な「本」として顕在化させる。
出版で扱われる情報は構造を持っている。構造は意味と表現と叙述に分かれるが、理屈の上ではこの3つの側面をデジタル技術でサポートすることにより、出版プロセスを「目的」に対して限りなく最適化することができる。情報が持つ意味(論理)と表現を扱う標準的な方法について、情報技術の専門家たちは30年以上にわたって苦闘を続けてきた。それはとうてい「進歩」とか「革新」と言えるものではなく、紆余曲折、行きつ戻りつの末に、コンテンツデータの論理と表現を分離するという、最も美しくない、統一とはかなり遠いところで渋々合意せざるを得なかった。構造はタグで、表現はスタイルで記述する。テキストで記述されたデータの解釈(実行)は専用のビューワ(ブラウザ)で行う。記述言語はさらにXMLというメタ記述言語で記述することで変換可能にする。
これはベストな方法ではないが、ベターな方法ではある。コンテンツは再利用のため、変換可能である必要があるが、技術的な環境が変化するのだから、ベストはその時々の主観で異なるからである。これはいつまでも関連する複数の標準の間の距離を適切に保ちつつアップデートしていく努力を継続しなければならないことを意味する。環境の変化(必ずしも進化とは言えない)は止めようがないからだ。マックとのカップルで一世を風靡したQuarkも昔日の面影がなく、PC上でかなり優れた組版機能を実現したジャストシステムの「大地」も消えた。Active DocumentのInterleafも同様だ。それらの独自フォーマットで残されたデータを、完全な形で変換・再現することは難しい。
グローバルなWebが出版技術をリードする
およそドキュメントを扱う様々な標準のうちで、最も普及しているものは何だろうか。言うまでもなくWebで使われるHTMLである。とりあえずHTMLに的を絞ってさえいれば、データは将来にわたって残される。21世紀に入って、Webサイトは、XHTML+CSSという、より整理された形に進化し、このスタイルでのコンテンツ管理がデフォルトになりつつある。そのベースとなるHTMLも、HTML5で大きな進化をとげつつある。ここで実現される機能は、べつに最先端のものではない。しかし、およそドキュメントを扱う技術が目標とし、非標準的な形で実装されてきた機能を、異なる実装環境の間でも交換可能なものとなることの意義ははかり知れない。
15年以上前、Web (HTTP/HTML)を初めてMosaicで見た時、筆者はハイパーテキスト技術をインターネット空間で<標準的に>実現させるために、表現や機能で被った多大な犠牲を思わずにはいられなかった。フォント、文字組み、動画と音声、知識ベース…。すべてはハイパーリンクのために犠牲となったのである。しかし、失われた機能はいまやほぼ恢復されつつある。それによってWebは出版環境の一部となった。いや、事実上それを呑み込む存在となったのかもしれない。残された領域の多くはグローバリゼーションに関わるものだが、UTF-8(解説は英文Wikiを参照)によって、文字コード問題はほぼ解決した。Webはその性質上、国際化が最も進んだ出版環境となった。つまり、いかなる言語環境にも対応できるということだ。
組版でも、言語問題解決のめどは立っている。CSSを使ったローカルな表示ソリューションはいくらでも可能で、機能定義で合意さえ出来ればよいだけになっている。標準的なブラウザへのプラグインで、日本語(縦・横)、アラビア語やヘブライ語など、異なる言語文化の情報を表示することが出来るようになるだろう。Webは変わった。ドキュメントに関わるあらゆる高度な機能を実現できる。それにより、これまで紙の上でしかできなかった機能、そのための技術の多くはWebに吸収され、あるいはそれによって淘汰される。標準を超える機能を追求し、標準をリードできる力を持った企業だけが生き残る。標準の多くはすぐにタダで実装されるからだ。高価だったRDB( データベース)が、オープンソースとして無料で提供される時代である。
「標準では××ができない」という人がいるが、それはほとんどの場合、技術的に不可能だというのではなく、まだ××機能を標準に盛り込んでいないというにすぎない。標準ができれば、これまで独自の実装技術を営々と維持し、売ってきたIT企業は生き残れないかもしれない。しかしドキュメントに関して、まだやるべきことは表示に関しても、意味に関しても、ほとんど無限にある。もしユーザーの真のニーズを知り、追求する気があるのならば。 (鎌田、11/14/2010)
[…] This post was mentioned on Twitter by 菊池@パブラボ, Yuichi Abe and raksul, Digi-KEN. Digi-KEN said: 出版ビジネス再構築試論 (2)技術編:Webの銀河系: 近代出版は機械技術に依拠した。機械文明の産物であ […]