これまで、E-Bookについては「電子」の部分にフォーカスされたことで、「文系」意識の強い編集者は疎外感を味わってきたと思う。しかし、出版において誰のために何を作るのかは、もっぱら編集にかかっており、編集者が本気で関わらない限り、電子化で生まれる価値は利便性でしかない。しかし、編集者の仕事とその価値はデジタル時代にこそ飛躍の機会を得る。またデジタル技術によって均衡が壊れた出版の経済性、社会性、文化性を再建しなければ、多くのものが失われる。デジタル時代の編集を再定義・再構築するのは、この歴史的過渡期における編集者の使命であると思う。
「EBook2.0研究講座」セミナーの第2期は、「編集2.0」からスタートする。これはテクノロジーやマーケティングよりは難しいテーマだ。ePUBや価格モデルとは次元が違う。「編集2.0」では編集とデジタルに関わる様々な課題を整理することから始めたいと思うが、まず企画趣旨を述べさせていただこうと思う。
編集2.0を、ここではとりあえず、Webを使い、動的・対話的でソーシャルなコミュニケーションを実現する出版コンテンツのデザイン・実装・運用およびそのプロセスと定義しておこう。ではWebコンテンツとどこが違うか。違わない、としてしまっても差支えないとも思う。しかし、新聞社のニュースサイトは「場」に固定されていて、新聞のように持ち歩くわけにはいかない。またアクセスは許しても必ずしも複製物として「配布」されているわけではない。コンテンツとしての独立と配布ということは、出版物の性質としてかなり重要な(しかし必ずしも不可欠ではない)ものだと思う。
編集者は知識コミュニケーションのアーキテクト
出版社関係者はWebを嫌う人が多い。Web関係者は「出版」を古臭いと敬遠する人が多い。しかし、有料であろうと無料であろうと、ともに「出版」に違いはない。コンテンツを商品として小売するかどうかというビジネスモデルが違うだけだ。編集者は、印刷物からWebやイベントまで、コンテクストに応じて融通無碍に形を変えられるコミュニケーションの核となるコンテンツをつくるのだ、と考えていただいてよいと思う。まったく広告・告知をしない出版が成り立たなかったように、これからはWebなしで商業出版は成り立たない。そこで商品としてのコンテンツに関してどのようなコミュニケーションを発行以前と発行時点、それ以後に行うかは、出版のライフサイクルにおいてかなり本質的な問題で、これはもはや編集と切り離すことは出来ないと思う。出版社はWebというメディアを、コストを気にせず自由に使える。
編集の仕事はデジタルによってどう変わるだろうか。じつは本プロジェクトを始めた最大の動機もそこにある。しかし昨年はこの問題を取り上げなかった。それは編集が何であるかを決定するものは主として(技術ではなく)環境要因だと考えたからだ。デジタル(=ハイパードキュメント)編集技術については20年近く前に一通り考えたことがあり、Web時代に合わせた修正が必要とはいえ、知識そのものは時代遅れになっていない。このテーマに手をつけたい気持ちは人一倍強かった。しかし、コミュニケーション技術は、それが特別な時代性、社会性を持たない限り、普及することがない、ということを嫌というほど感じてきたので、このテーマは神棚に上げておいた。1年たって、その時が来たように思う。
筆者もそれなりに編集者である。種々雑多な出版物の編集に関わったが、一番多かったのは自分が発行人となったものだった。名編集者の仕事を目の当たりにしたり、大編集人の謦咳に接する機会もあった。だから、出版物の価値は編集によると信じてもいる。その筆者が一番気になるのは、出版物の価値(とくに商品価値)の低下だ。価値が(つまり創造性と品質において出版物たる社会的価値を持たないという意味で)ないものが氾濫するのは仕方がないことだが、価値のあるものが正当な評価を受けず、商業的に成功する見込みもないので、ますます出版されない傾向にあることが問題だと思う。出版の価値と市場原理はもともと折り合いの良くないものだが、外から見る限り、ますますひどくなっている印象がある。この関係をなんとかしないと出版ビジネスとともに出版そのものが衰退し、社会も衰退する。
過去40年間の活字情報の価格低下は著しい。とくに印刷物の制作コストの低下に完全に歩調を合わせて、文字原稿や写真、イラストなどを含む原稿料、デザイン料も平均的に下がっているのが問題だ。誰もが活字を使える時代になってデフレが進むということは、これまでコンテンツの価格はもっぱら制作の手間やコストで評価されてきたということになる。そんなに頼りないコンテンツが、微妙なマチエールを結晶化する精緻なブックデザイン、印刷・製本という確かな実体を離れて、果たして生きていけるのか、と多くの人が心配するのはまったく無理からぬものがある。また出版を目ざす人が減っているかどうかは知らないが、職業としての将来性に疑問が生じていることも確かだ。
デジタル時代の編集:「ポスト非対称」のプロフェッショナリズム
しかし、デジタルで実現できない価値もあれば、デジタルでないと実現できない価値もある。またデジタルはアナログを模倣するものであるので、その表現の可能性は年々高まっていく。後者の方が少なくとも経済的に大きな価値を持つことは米国で実証された。不可避的に進むデジタル化をどう出版のルネッサンスに結びつけるかが問われている。その鍵は電子化されたファイルではないし、配信プラットフォームでもデバイスでもない。デジタルの可能性を拡大する本づくり=編集にある。創造性、機能性、品質を高め、過去の優れた出版が実現してきた、情報の消費を超えた「ユーザー体験」を実現する編集の仕事を再構築することで、出版を文化的、社会的、経済的に魅力あるビジネスとすることが出来るはずだ。
編集という仕事の本質はなんら変わらない。情報の価値を発見し、それを実証することだ。それにはもちろん、情報の取捨選択、構成、配置、関連づけ、調整といったことが含まれる。これらは著者も、編集者も、読者も行う。著者が手書きの原稿を生産し、読者が活字引接物として受け取る、非対称の世界の仲介者という役割で価値を訴求できる可能性は縮小している。また「情報の価値」もまた、社会に発信する価値ある情報であった活字の担い手と、社会的情報発信手段を持たない読者という非対称世界は、すでに消失している。編集者が自信を喪失するのは理解できる。いや、編集者に限らず、写真家、写植オペレーター、製版技術者など、デジタル化によって仕事を奪われた人は、すでに膨大な数にのぼる。「情報化」によっていちばん影響を受けたのは、情報に携わる人たちだった。編集(者)の仕事は、情報に関するあらゆるクリエイター、エンジニア、職人、芸術家とのコミュニケーションでもあったから、ついに身辺にまで淘汰が及んできたというところだろう。
現状は悲惨だが、筆者は将来を楽観したいと思う。文字文化を継承してきたのは編集者(あるいは編集者としてのクリエイター)であり、彼らの偉大な仕事(思想と技術)が継承されたなかったなら、デジタル化はなにも(ましなものを)生まない可能性もある。それは編集者自身が考えることを止め、過去に引き籠った場合だろう。
編集の技術(アート)には明確に定義できるものとできないもの、特定の技術(テクノロジー)に依存したものがあり、これまで解説されてきたものは、後者に偏っていた。いわば真髄のようなところは「悟り」の世界であると考えられてきたと思う。デジタル時代の編集技術には、活字組版をDTPや電子書籍フォーマットに置き換えるということも含まれるが、それはほんの一部でしかない。作業はすぐに自動化され、やがて無料化されていくからだ。編集において最も重要なのは、主にデジタルな読書環境、情報デザイン、そして人々への動機づけ、という、システムと人間、情報と知識の間の領域だ。それは狭いようで際限がない。変化しているからである。
編集とは何か? 筆者は、出版を成功させるために必要な仕事をアレンジし、実行すること以外ではないと思う。本は知識とともにある。知識は社会とともにある。過去を将来へと繋ぐ上で、デジタル出版の主宰者としての編集者の役割は大きい。自分がどこまでできるかは大いに怪しいが、出版とデジタルの両方を齧った筆者として、1センチでも答に近づきたいと考えている。
「述べて作らず」の編集者を自任した哲人孔子は、危機に瀕してこう言ったと伝えられる。「文王既に没したれども、文茲(ここ)に在らずや。天の将に斯の文を喪ぼさんとするや、後死の者、斯の文に与かることを得ざるなり。天の未だ斯の文を喪ぼさざるや、匡人其れ予を如何。」(論語・子罕第九の五)
※本記事は3/23に開催されるEBook2.0研究講座の見どころ解説です。
E-Book 2.0研究講座のご案内
- 「EBook2.0プロジェクト第2期スタートにあたって」
- E-Book 2.0研究講座セミナー (第7回) 「“編集2.0”のプロフェッショナリズム─ E-Bookプロジェクトの主役としての編集者のスキルと道具箱」 2011年3月23日(水) 13:30-17:00
[…] 前回の記事は予想外に多くの方にご評価をいただいた。それだけ編集に対する関心が高まっていることだと思う。続けて実践的な課題と解決の方向性、当面のしのぎ方などを、たぶんラ […]