コンテンツの価値とは何か
しかし、今年の東京のイベントでなお目立ったのは、コンテンツを電子化し、配信可能な体制をつくれば、ビジネスになると考える旧態かつ素朴なデジタル信仰、デバイス信仰であり、つまりは空振りに終わった「元年」から得た教訓は何もなかったということになる。それは、伝統的な出版の主体であった出版社が、上述した歴史的課題をまだ受け止められず、過去の延長上に「電子書籍」を考えているためである。デジタルコンテンツとは、出版関係者がいちおうの目安としてきた「縦組・ルビ付き」のことではない。このままではいつまで経っても市場は生まれないだろう。iPadは売れても、iPadアプリは売れても、本は売れない。すべてが市場指向につくられているアプリの中で、「電子書籍」は市場を向いていないためである。出版社はなお「コンテンツ」の優位を信じている。しかし、コンテンツが価値を理解されるためには、潜在読者との間でコンテクストを共有する必要がある。彼らを知らなければ何も始まらない。
それに、コンテンツとは何だろうか? 出版関係者は、それが著者の原稿そのものではない、と考えている。それはいい。だが、編集者が著者とやりとりをし、出版に堪える版に仕上げ、売れるように必要な手間暇をかけるのは、すべて「印刷本」(の外見、表現、使い勝手、流通、価格、ライフサイクル…)を当然の前提にし、それに向けて最適化したものだ。印刷本の版をE-Bookのコンテンツと同一視するのは、自動車のデザインを馬車に合わせるのと同じくらい可笑しなことだ。もっともそれは過渡期には避けられない。20世紀の初めには多くの「馬なし馬車」がつくられた。問題は、いつどうやってその状態を抜け出すかということ。いつまでも周回遅れを見ているのはつらい。(写真は「馬なし」時代のベンツ)
様々な課題を残しつつも、今回のイベントの意義は大きかったと思う。人々は昨年の「元年」では得られなかった変化を実感できた。とくに印刷とITという、出版を支える基盤産業が電子出版に強い関心を持ち始めた。消費者が「欲しい!」と感じるもの、編集者やクリエイターに企画や表現へのインスピレーションを与えるものに乏しかったのは残念だが、これはわれわれ全体にとっての来年までの宿題ということにしたい。
日本人は「気」の民である。最近は「空気」ばかり読んで「怖気」をふるい、あるいは「気力」を喪って「気鬱」に罹っているが、その昔は慎重に「気運」を身定めて「一気」に動き、ものになるまで「根気」よくやりとおす「気風」を讃えられていた。一度失った「気」は、「正気」に立ち返り、転換の理を「気宇」壮大に描き、機を逃さずに行動することで取戻すしかないだろう。 (鎌田、2011-07-13)