アマゾン・タブレットのターゲット・コンテンツは、アマゾンが扱うすべての商品とサービスだ。ビデオ、ゲーム、雑誌、新聞、本がそれに含まれる。入口としてのビデオは本より広い層にリーチする。しかしカタログ注文デバイスでもあるので、衣料品や靴、日用品を買うのに使っても構わない。それどころか、アマゾンは毎日のように使って欲しいのだ(送料が無料になる)。アマゾンは専用端末を有する最初の通販会社になるだろう。重要なことは、この会社が(モノだけでなく情報の)ロジスティクスを誰よりも知っているということ。不況下にせっせと物流センター、データセンターを構築しているのは、このバックエンドがサービス品質とコストの鍵を握ることを熟知しているためにほかならない。
アップルにとって嫌なのは、アマゾン・タブレットが完成された製品であるiPadと違って、新聞などと提携して無料配布もできることだ。例えば、新聞がアフィリエイトとなって「アマゾン・タブレット」を購読者に配布し、自社コンテンツを配信することで、「アマゾンカタログ」で販売された商品に対する売上の一部を得ることができる。新聞としては(交渉次第だが)自社ブランドのタブレットをタダで配布し、手数料なしで配信できるのだから悪い話ではない。自社の広告ビジネスをその端末に載せることも((これも交渉次第では)できるだろう。アップルが怖れるアマゾンの末脚は、こうしたビジネスモデルの多様さにある。
デジタルコンテンツの価格革命
アマゾン・タブレットは呆れるほどシンプルだが、サプライチェーンにおいては凄まじく破壊的な力を秘めている。たとえば、これはHDVコンテンツの販売・レンタルサービスと組み合わせれば、ネットワーク・ビデオプレーヤーになり、その場合はパナソニックの「VIERAタブレット」のように機能する。ただし、大画面とオーディオセットさえあれば、メーカーを問わないし、相手がテレビである必要もない。サプライチェーンにおける極限的な合理化は、コンテンツの価格革命をさらに一歩先へ進めるだろう。複製・配信コストが限りなく安くなるので、絶えず価格引下げ圧力が働くからだ。放送産業、映画産業は、音楽産業、出版産業と同じ立場に立たされる。別にアマゾンが取って食おうというわけではないが、居心地のよい地位を失うのが、プライドの高いメディア産業には我慢ならないのだ。しかし、そこで止まっていては先はない。
いずれ「こう」なることは、1980年代(ケーブルTV)に可能性が認識され、1990年代(インターネット)に確定していた。しかし時間の問題になってからが長かった。いまは亡きサンからアップル、マイクロソフト、Googleに至るまで、「ネットテレビ」の聖杯を求めてあらゆる技術とアイデアが試されてきた。日本メーカーも独自に、あるいは世界的ITメーカーと共同で挫折を繰り返してきた。しかし、いまアマゾンの前に広がっている可能性は、限りなく現実的なものだ。
おそらく、アマゾン・タブレットへの日本メディアの反応は「冷やか」なものとなるだろう。ガジェット・ファンには退屈、スポンサーの電機メーカーには家電消滅の恐怖、そしてメディア自身には存在論的恐怖を与えるようなものは無視したい。「イノベーション」が大好きなエコノミストも、iPadと比べて「何もない」と酷評するかもしれない。それでも、この退屈なものこそ市場におけるdisruptive (非連続的)なイノベーションをもたらすことは確実だ。筆者自身は、メディア/コンテンツビジネスにおける境界の消失と融合が一気に進むことに注目している。 (鎌田、2011-08-08)
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