昨日は「EPUB vs. XMDF」について書いたが、このタイトルには違和感を感じる。技術的に比較してもあまり意味がない。対置し競争させようにも、じつはそもそも同じ平面には乗っていないからだ。XMDF(とDotbook)はEPUBとはまったく違った性質(あるいは宿命)を持っている。ベクトルが違うと言ってもいいかもしれない。これは前提とするビジネスモデルが違うためだ。この違いを隠してきたことが、「元年」へのエネルギーを空転させ、無化させた原因だと思う。しかしその最大の被害者は、シャープであったようだ。
普及させたいEPUBと「させたくない」XMDF
もちろん技術的には似通っている。しかしEPUBが利用者を選ばず一般に普及することに価値を見出す標準であるのに対して、XMDFは利用者を選ぶ「一見さんお断り」のプロダクトと一体で厳重に管理されてきた。まるで核不拡散防止条約でもあるかのように、なんと普及しないことに価値を見出されてきたわけだ。プラスとマイナス、陽と陰。そんな役割を担わされることになったのは、XMDFとその開発者にとって不幸なことだったと思う。XMDFを開発したシャープは、何度かこれを公開し、簡便に利用できるようにしようと試みてもいる。実現していたらKindle以前にGalapagosが誕生していたかもしれない。デバイスとともに広く使われるべき実用的技術を出し惜しみするようなケチな会社ではない、オーサリングツールの販売を制限し、利用料を徴収して糊口をしのぎたいと願うほど零細でもない。それができなかったのは、「出版業界」が嫌がったためとしか思えない。
一見弱そうだが、この業界の(負の)エネルギーは侮れないものがある。それは(企画・仕入・制作・流通・販売・金融を含めた)出版という、ひとつの産業のエコシステムを完全にコントロールできているからだ。このような完結性はほかの業界にない、ユニークなものだと思う。出版業界は取次=金融を中心としたこのシステムを営々と守ってきて、それ以外のことは考えたくない。閉鎖的なシステムは内に強く、外に弱いから、再販廃止だとか外国出版社の「上陸」だとか、広告系出版社だとか、環境変化には一致して対応して乗り切ってきた。そうしたものであってこそ、15年ほど前にこのシステムが自壊を始めて以来の無力と狼狽、諦めが理解できる。出版社は強欲ではないし、競争より協調のシステムの中で、慎ましくやってきたと筆者は思う。(写真は無用の長物の代表マジノ線の要塞施設跡。下の図は内部)
それはともかく、業界は「活字と組版」をいつまでもプロのものとして守りたい。さもないと誰でも出版できてしまう(ように思える)からだ。自動化するのはいいが、一般化はさせたくない。かつて参入障壁は職人的技術・知識だったが、それはロジックとなりコンピュータに吸収されてしまった。現在それはコストである。だから高くなければいけない。XMDFは「プロ用」だから高かった。今年の夏にようやく無償の制作ソフトが出たが、それはあくまで「出版社」やその注文ではたらく「制作会社」のためのものだとされている。身元チェックは厳しくないので、実質的に個人でも使えないことはないのだが、感じが悪いことおびただしい。これで「標準」というのだから反撥を買うわけだ。これもシャープにとっては不幸なことで、Galapagosの“衝撃的”ともいえる不人気の原因の一つだったとも思える。
クリエイターと消費者を不幸にする「出版」というシステム
EPUBはWeb技術をベースにしたオープンな標準で誰でも実装でき、ブラウザでも使われるから、どうしたってタダあるいはそれに近いものになる。これは業界にとってまずい。製作コストが安くなるのだから、リッチとはいえない今日の出版社にとって悪い話ではないはずだが、もはや個別企業の経営レベルを超え、「システム」にとって悪いのだ。現実にはそのシステムが真綿のように出版社の首を絞め、次々と命を奪ってさえいるのだが、それでも「業界」としては守らねばならないと固く信じられている。世間では出版社を強欲のように思う人もいるのだが、もはや利害の問題ではなく、病的な「妄想」の域に入ってしまったと思う。1年ほど前に、筆者はXMDFは普及できない宿命を負った不幸な標準だった、と筆者は書いたが、その状況は、これを推進した三省デジ懇以後も変わっていない。因習と妄想から解き放たれていないからだ。
昨日の記事に貴重なコメントをいただいたが、日本語組版は難しくないし、変換も同じだ。それはCTS以来数十年にわたる技術者と現場の知恵がルールとして蓄積されているからである。なお相応の手間は必要だが、それも技術的には容易に吸収され、その解決はタダで共有できる。日本以外の国は、もはやこの問題を引き摺ってはいないということを忘れてはいけない。先人の努力は、有難く使わせていただく。文字文化とはそういうものだと思う。活字の変換に関わる技術は、オープンソースとして公開していただきたい。そのために公的資金が必要というなら、十分に出す価値がある。しかし、カネを出すならダラダラと進めてもらっては困る。
「中間フォーマット」はもう出来たのだろうが、姿は見えず、使われてはいない。この程度のものにこんなに時間をかけてどうしようというのだろう。ふつうのビジネスならとっくに出来ている。仕様書が公開され、実装環境もはっきりしている。ふつうの技術者に出来ないことではない。資金と人材を豊富に持った企業の優秀な皆さんが束になって、いくら時間をかけてもなかなかできないとすれば、理由はただひとつ。やりたくない、ということ。時間をかけているほうが、市場に出すよりいいという空気が充満しているということだろう。こんな空気を読まされる技術者に、同情せずにいられない。技術はすぐれて社会的なものである。現在のところ、この不幸なモノづくりの国では、技術者、編集者と消費者が尊重されていない。
オープンソースのCaribreは、新聞・雑誌記事をダウンロードしてKindleで読みたい、という個人的動機で生まれた。日本も同じパラダイムに入らないと、業界の手で出版そのものを圧殺してしまうことになる。 (鎌田、2011-11-18)
追記
本連載の(4)と(5)において、総務省の予算の多くが「中間フォーマット」関係に配分されたかのように誤解を招く記述がありました。事実は、電子出版環境 整備事業で10事業が認定されましたが、「電子書籍交換フォーマット標準化プロジェクト」は、最大ではあるものの一つであり、また事業には「EPUB日本語拡張仕様策定」も含まれています。不適切な表現について、関係者および読者各位にお詫びさせていただきます。なおこれらの事業の成果と評価は、総務省の サイトで公開されています。これについては別にご紹介していく予定です。