EPUB3標準に縦組仕様を盛込むプロジェクトの成功のドキュメントについて、できるだけわかりやすく描くのが筆者のミッションである。中心的な役割を果たした人々の話を順次紹介していきたいが、内容は簡単にまとめられるものではないし、それを理解していただくためには、国際標準化という、あまり世間では知られていない背景について、筆者なりにまとめておく必要を感じている。個人的にも20年近く関わったが、理解が進まないことには理由がないわけではない。
「よい標準」はどうつくられるか
国際標準化の「バトル」の現場を生々しく描いたものでは、小林龍生さんの奇書『ユニコード戦記』がある(奇書とは世に稀なという意味です。為念)。しかし、国際標準はゴマンとあり、ユニコードはかなりユニークな標準で、著者もユニークな方なので、一般化できない部分もあり、ここで用語事典などにも載っていないことについて独断的に整理しておきたい。
さて、標準は、コンソーシアムなどが策定するデファクト(de facto)標準と、ISO/IEC/ITU-Tの3つの国際機関や各国国内機関による標準から成るデジューリ(dejure)標準に分かれる。デファクトであっても、「標準」として認知されるためには、原則として無償で、仕様が公開されていなければならないし、コンソーシアムであれば誰でも参加でき、合意された手続き(procedures)に基づいてプロセスが公開されていることが必要とされる。これが「オープン標準」と呼ばれる。これも程度問題だが、十分にオープンでないコンソーシアムは、排他的とみなされ独禁法上のチェックが入る。閉鎖的な日本の「業界」文化とのズレが問題になることも少なくない。
重要なことは、デファクトとデジューリは対立するものではなく、成功したデファクトの多くはデジューリに移行するということだ。前者は市場のニーズに対応して、メーカーやユーザーの第一線のエンジニアやテクノロジストが参加し、必ず実装(製品化)されることを前提として作られる。中には製品が出なかった標準、出ても普及しなかった標準もあるが、それが仕様自体の問題であった場合は、策定にあたった中心人物は評価を落とすだろう。参加する人材の時間コストは高いので、失敗した場合の損失は、参加する企業や個人にとってけっして少なくない。つまり活動にはそうしたプレッシャーがかかる。デジューリの標準はメーカー技術者や研究者などから成る「各国代表」が参加し、体系性、整合性を重視して整備されるが、そのまま市場に対応するものではないので無駄撃ちが多くなる。
市場で成功した(つまり標準として機能することが実証された)デファクト標準は、ISO/IECなどのお墨付きを得て、ほぼ自動的にJISなどの各国標準として導入され、市場における政府の役割の度合いに応じて、各国の業界に採用されて普及する。1990年代に大きな変化があり、グローバル化と市場主導が進んだITでは、とくにデファクトの役割が大きくなった。今日、最も影響力の大きい標準化団体は、ユニコード・コンソーシアム(文字符号)、W3C (Web)、そして筆者が長く関わっていたOMG (技術間の相互運用性)の3つだと思うが、これらの標準は公的標準機関でも特別な扱いを受ける(つまり最速で採択)。公式に「よい標準」だと認められるわけである。
よい標準というはっきりした目安はないが、いちおう (1) 様々に実装されて市場の多様なニーズに応え、(2) 周辺の技術環境の変化を乗り越え、(3) 適正なメンテナンスと拡張がなされる、(という状態が10年余りにわたって続けられる)と認められれば、よい標準といえるだろう。筆者は、上記の3団体は、デファクトやデジューリを超えた、ユニバーサルな標準化団体だと考えている。というのは、文字とWeb、技術間の相互運用性という3つの分野は、今日の情報技術全体を支える基盤標準であり、個々の技術の上位にある、いわば「標準の標準」といえるものをつくっているからだ。
標準化の主役とは
これら3団体は、そのオープンな性格から、各国の企業や民間団体だけでなく、各国の政府機関もメンバーとして参加し、あるいは他の主要標準化団体とリエゾンを持つことから、コンソーシアムを超えた存在として認知されている。これらの団体で標準化に携わる技術的リーダー(作業グループの座長とその経験者)は、別格の尊敬を集めており、企業などの所属が変わっても、あるいは独立しても、引き続きプロセスをリードすることがコミュニティから期待される。逆に言えば、肩書きではなく実績だということだ。(右の図はソフトウェアの評価水準)
EPUB3において、日本には村田 真さんがいた。これがどれほどの意味を持つかを知るには、上記のことを頭に入れていただけばよい。村田さんにはW3Cにおいて、ジェームズ・クラークらとともにXMLの仕様を書いて策定に関わり、その有力なスキーマ言語の一つであるRELAX NGを、同じくクラークと共同で設計し、その仕様をOASIS→ISO/IECの標準とした実績がある。前者は今日のほとんどの標準に使われており、後者は(競合標準はあるが)IDPFでも採用されているから、その仕事は単純に金銭換算しても数億ドル分にはなるだろう。冗談ではなく、世界のリーダーの一人で、日本では国宝級だ。
村田さんのようなテクノロジー・リーダーが尊敬を集めるのは、この変化の激しい世界で、広い視野と将来を見通す透視力を持ち、しかも数多の天才、秀才を輩出する分野で、公平でハイレベルな調整能力を発揮してきたからだ。技術的に優秀であるだけでは、標準化の世界で実績を残せないし、認知され、それなりに尊重はされても、尊敬されることはない。プロとしての技術者のコミュニティが企業から独立していない日本では、ご本人の評価はさほどでもないのだが、今回の主役は村田さんであり、標準化コミュニティにおけるステイタスはもちろん、短期決戦での戦術眼と、同じく国際的に通用するエンジニアを動員できたことが、EGLSの成功の直接的要因であると思われる。 (鎌田、2011-12-03)
追記
本連載の(4)と(5)において、総務省の予算の多くが「中間フォーマット」関係に配分されたかのように誤解を招く記述がありました。事実は、電子出版環境整備事業で10事業が認定されましたが、「電子書籍交換フォーマット標準化プロジェクト」は、最大ではあるものの一つであり、また事業には「EPUB日本語拡張仕様策定」も含まれています。不適切な表現について、関係者および読者各位にお詫びさせていただきます。なおこれらの事業の成果と評価は、総務省のサイトで公開されています。これについては別にご紹介していく予定です。