前回述べたように、コンソーシアムの標準は「市場」の動き出すのを待たず、その1年以上前から(ニーズが把握できた時点で)着手されるものだ。遅すぎれば市場に出てくる製品やサービスに無視され、早すぎれば技術的環境が変わってしまうリスクが増す。EPUB3の活動が集中した2010年は、市場が動き始めており、アマゾンばかりが目立っていた2009年までとは状況が一変していた。E-Bookの標準フォーマットは重要な意味を持つようになった。
2009-10年は出版の歴史における大転換点
書店最大手のB&Nや、オンラインビジネスの巨人であるアップル、Googleが動いたが、何よりも出版界が、それまでの慎重姿勢を捨て、全体として動き始めた。無風状態が続き、最後までデジタルとは無縁と考えられてきた業界である。これは多くの人の予想を超えたことだったろう。EPUB3への期待は、それ以前とは比較にならないほど大きく、しかも急速に膨らんだ。市場はイノベーションと急成長の歴史的転換点にさしかかっていたのである。IDPFの主要メンバーの一角を占める世界の大手出版社は、遅くとも2010年はじめには、E-Bookが(紙と並んで)出版の主要なフォーマットとなることを実感した。そしてE-Bookには紙の本を簡便に提供する以外にも大きな可能性を秘めていることを理解した。1960年代のペーパーバックの登場による書店チェーンの成立以来の、いやそんなものではない、グーテンベルク以来の歴史的イノベーションが、これから一世代のうちに起きようとしている。2009年には少数派だった、こうした見方は、2010年にはコンセンサスとなって、ほとんどの出版社で取組みが始まった。
米国市場において、この認識の変化をもたらしたのは、なんといっても不況下で停滞する印刷書籍を尻目に、年率150%を超すE-Book市場の成長であり、E-Bookの制作と管理の容易さ、それがもたらす高い利益率だ。これらは以前から言われていたのだが、実感しないと分からない。E-Bookは、出版社にとって成長事業であり、ロングテイルからマスマーケットまでスケーラブルに対応できる理想的な商品でもある。ただ、印刷書籍市場を急速に瓦解させる可能性があることだけが懸念材料だった。日本と事情が違っていたのは、心理的に依存すべき印刷本の再販価格維持制度を持たない一方で、E-Book市場の離陸に必要なすべての課題を、アマゾンがクリアしており、コンテンツさえ十分に揃えば、消費者が選んで購入できる流通環境が整っていたことだ。
“前門のアマゾン、後門のアップル”からの自由を保証する標準
しかし、そのアマゾンはEPUBではないMobiという独自のフォーマットを採用していた。同社はその上でコンテンツやE-Bookの読み進み状況などに関する情報を、他のKindleやKindleアプリと共有できるWhisperSyncのような高度なサービスを提供しており、出版界はこれにロックインされるリスクがあった。デバイスに依存しないで高度なサービスを提供するには、Webの最新標準を使い、アマゾンに近い”2.0″的なサービスを提供できるようにする必要があるが、こうした標準は、メーカーやオンラインストアだけに関係するものではなくなった。企画・制作と流通の境界がはっきりしないデジタル時代では、標準がなければ出版社は市場の支配的プラットフォームに依存するしかない。
そして次に、アップルのiPadがある。2010年春に登場したiPadは、タブレットの市場を創造し、瞬く間にメディアとして定着させた、電子ペーパーによる、違和感のない読書体験とは別の、拡張E-Bookの真価と可能性を、これも疑問の余地がない形で示し、安い価格で普及させた。拡張E-Bookは教育コンテンツでは標準的な機能となることは容易に予想された。アプリの開発においてiPadやiPhoneが採用するiOSに依存すれば、それはアップルの統制下に入ることを意味する。通常のE-Bookで70%あまりのシェアを持つアマゾンと同様、タブレット市場で90%近いシェアを持つアップルも、出版社にとってはパートナーであると同時に警戒すべきライバルという両面を持っていた。対抗策は唯一つ。Webの標準技術を使って、E-Bookのすべてのニーズに応えるE-Book標準を構築すること、つまりIDPFの方向だ。
しかし、EPUB3が土台とするHTML5+CSS3は、現在でもなお成熟途上の標準で、様々なレベルの技術が混在し、何でも出来そうな反面、互換性、相互運用性の点では、平均的技術者が安心して使える(いわゆる「枯れた」技術)ではない。標準化にはじっくり時間をかけているわけにはいかないので、取り扱いには、かなりの細心さと大胆さ(つまりは経験)を必要とした。市場の動きからみて、2010年中には方向性を確定させ、2011年春には仕様を完成させ、秋には最終承認を得て制式化する必要があったと思われる。IDPFはこれをクリアして市場の期待に応えた。
日本にとっては出版の21世紀への最終列車だった
さて、こうした状況から考えると、EPUB3の最大の課題は、アマゾンとアップルという市場のリーダーの独自フォーマットに依存せずに、同等の機能をWebの技術を使って実現できるオープンな標準を提供することであったと言い切れる。フォーマットというと、日本での関心は組版に集中したのだが、国際的には文字組みの問題は一部に過ぎず、しかも縦組ゃルビなどの必要性について共通認識があったわけではない。欧文に関しては、異なる組版フォーマットの相互変換の問題はほぼ解決済みと言ってよく、アマゾンも多くの出版社からEPUB2での入稿を受け容れていた。「構造+スタイル」の指定というやり方は、どんなフォーマットでも変わりはない。アマゾンは最近、MobiからHTML5+CSS3ベース(といって完全にEPUB3ではない)のフォーマットに移行すると発表したが、こうしたことは、問題なくできる。標準があれば、メーカーは「付かず離れず」のスタンスをとることが多い。
しかし、商業出版における縦組を必須と考える日本では、それが出来なければ、いかにEPUB3が新世代の標準でも受け容れる気配はまったくなかった。逆に言えば、「EPUB3に縦組」というのは、日本が21世紀の出版に乗り遅れないためのラストチャンスと言えた。失敗すれば、「縦組をとるか、EPUB3をとるか」という困った選択が待っていた。(鎌田、2011-12-07)