E-Bookビジネスの最大の逆説は、アマゾンの独占を怖れ、嫌悪する大手出版社が、市場においては(その意図に反して)アマゾンによる独占を助ける行動をとり、それによってアマゾンへの依存度を高めているということだろう。初めて小売価格決定権を手にした大手出版社は、値上げによって消費者を敵に回すという最悪の状況に陥ってしまった。日本でも多くの読者を持つ著名なジャーナリストのダン・ギルモア氏は、衝動買いを止め、図書館と古書店を見直すに至った経緯を英紙Guardianに綴っている。
市場に背を向け、消費者と戦う大手出版社に未来があるか
熱くなった頭を冷まし、新しい刺激を得るには濫読が心地よい。それでもやはり「本と出版」について考えると熱くなる。年末年始で、いくつかの興味深い論考に接したので、紹介しつつコメントしてみたい。この歴史的転換期の焦点は、デジタルを味方とするか敵とするか、そして誰が最もよく利用できるかということだが(テクノロジーは中立ではない)、欧米では大出版社が、その利己的な行動を厳しく批判されている。
国家権力のメディア支配を背景にした鎖国すら困難になる時代だ。市場経済では、デジタルを味方とするか、敵として敗れ、消え去るか―選択は2つしかないのだが、欧米の出版大手は、これを武器とすべく努力しながらも、全体としては扱いきれず、敵を増やしている。彼らの戦い方を単純化すると、E-Bookの値段を出来るだけ高くし、利用価値を出来るだけ低くすることだ。大手出版社はE-Bookの価格をハンパでなく引上げ、図書館での貸出しを制限あるいは拒否した。転換期に最も頼りにすべき味方は消費者だというのに。これはあらゆるソーシャル・マーケティングの努力を無駄にする。
年末に読んだ、ダン・ギルモア氏の英紙The Guardianへの寄稿「E-Book価格の大いなる欺瞞」(12/23/2011)は、日本でも知られるこの著名な米国のジャーナリスト(兼アリゾナ大学ジャーナリズム学部教授)の次のような辛辣な言葉で始まる。
「私は米国の書籍出版業界―少なくとも数十年にわたって業界を支配してきた伝統的大企業―に対し、感謝の言葉を進呈したいと思う。彼らは私が地元の図書館と近所の古書店の価値を再発見するのを助けてくれた。/巨大メディア企業が本来的に持つ性質である貪欲と傲慢を、デジタル世界への対応に際しても遺憾なく発揮することで、彼らはそうしてくれたのだ。」
ギルモア氏の怒りは、もちろん、米国出版界の伝統で消費者の支持を得て存在してきた書店における小売価格の自由を、E-Bookにおいて「廃止」した大手出版社(ビッグシックス)に向けられている。本件の是非をめぐってはニューヨークの裁判所で争われることになるのだが、いずれにせよ2010年のエージェンシー価格制導入以来、6社の新刊ベストセラー本のE-Book価格は、それまでの$10から、$13あるいは$15に跳ね上がった。新刊本は印刷本と同等か、それより高い水準。既刊本はペーパーバックと同等の水準を目指しているようだ。デジタルコンテンツ・ビジネスの歴史では、前例のない大規模な価格上昇だった。
ギルモア氏の読書習慣は、この「逆価格革命」で大いに変わった、という。$10時代に多かった衝動買いはしなくなり、気になる本はもっぱら図書館で予約し、どうしても欲しい本だけ、印刷本で購入するようになり、古書店の利用も増えた。E-Bookで購入するのは廉価な場合のみに止めている。筆者を含む多くの消費者は、経済的理由からギルモア氏に倣っているのだが、デジタル技術は人々の知識情報へのアクセスを容易にするもの、と考えるギルモア氏には、値上げが容認できない。
E-Bookに対して印刷本と同等の価格を設定するのは、顧客にとって不当だと彼は言う。なぜなら、E-Bookの購入者には商品の所有権はなく、利用(販売者が存続している限り閲覧)する権利を借りている状態である。印刷本は所有でき、もちろん他人に貸すことも、譲渡することも出来るのに、E-Bookでは購入者の権利は事実上ないに等しい。E-Book読者を「二級市民」扱いにしながら、「料金」は印刷本の購入価格に連動させることを正当化することは難しい。しかも大手出版社は説明責任すら果たしていない。嫌われる理由には十分だ。米国では、ジャーナリストや知識人は業界ではなく社会(消費者)の味方であるべきという原則があるので、ギルモア氏のような著名人もこぞって批判に回る。
サービスが違っても価格が一律という矛盾がアマゾンを一人勝ちさせる
出版社がそう思わせようとしているにもかかわらず、コンテンツは独立した商品ではない。出版社がそれを拒否しているからだ。彼らは自ら提供するわけでもないサービスによって価値が変動する素材を「販売」する際に、消費者と書店に一律の「料金」と「手数料」を強制する。書店には売り方の自由は認めない。皮肉なことに、これは消費者がアマゾンで購入することの相対的価値を高め、大手出版社は価格支配と引き換えに市場の支配をアマゾンに委ねることになった。ギルモア氏の「貪欲と傲慢」が著者と消費者をアマゾンに近づけた結果なのだが、もとより「傲慢」な出版社は気にしていない。
人間が歴史的にみて愚かしいことを敢えてするには、それなりの理由がある。その理由は狭いコミュニティの中では自然で当然だったのだが、時間とともに外部には合理的な説明が困難になっており、信仰としか思われない。特権的地位を享受してきたシステムの危機に際しては、そもそも議論の対象から外そうとさえ振舞うので余計に説明能力を失う。
日本では売れ残りの本(平均して約4割)は、システマティックに資源リサイクルに回されるのだが、米国では、卸価格で仕入れ、売れ残りのリスクを負う書店が、客寄せのために最初から損を出す価格で発売したり、何段階かの値下げで買い手を待ち、消費者も値下げを待って買うという市場的なシステムが維持されている。日本では古書店が果たしている役割(市場価格での販売)を、通常の書店が行っているわけだ。大手出版社は、このシステムが(最強のプラットフォームを持つ)アマゾン1社による独占と価格支配につながると考えて、日本の再販制のようなエージェンシー価格制をE-Bookについてだけ導入した。
出版社による小売価格決定権の獲得は、しかし消費者にとっては(法外な)値上げをもたらした。印刷本の相対的価値は護ったが、社会的正当性を失い、デジタル市場での主導権を失ったと言っていい。E-Bookはアマゾンが築いたエコシステムを中心に成長しつつある。中小出版社と自主出版者は、そのエコシステムの最大の受益者といっていいだろう。アマゾンのマーケティング努力は、大手の新刊以外のところで展開されている。しかし、それにもかかわらず大手の本もアマゾンで最も売れることに変わりはない。アイザックソンのジョブズ伝で一番稼いだのはアマゾンだった。つまり、アマゾンの目論見どおり、自由価格制の本を多数擁して売ることで、顧客がアマゾンに集中し、固定価格制の本も自動的に売れるのである。アマゾンの顧客は増大し、独占契約する著者はますます増える。4年以内に、米国の全世帯の20~30%がAmazon Primeのメンバーになるという予測もあり、エコシステムは十分な根拠を持って増殖している。(The Cult of Amazon Prime, By Jason Calacanis, Launch, 01/09/2012)。
ギルモア氏のような読書/購入パターンの変化は、データの裏付けを伴って、これまでにも指摘されており、Kindleのベストセラーリストのランキングと価格の相関が注目されている。E-Bookの廉価本は衝動買い需要を刺激し、ミステリやSF、ロマンスなど重要なジャンルの廉価本で多くのミリオンセラー作家を誕生させた。消費者はスティーブン・キングの新作と新人のデビュー作が同じ15ドルで発売されたなら、後者を買うことは躊躇する。また読者にとってリスクである新人をデビューさせることを、出版社は躊躇するだろう。それによって多くの機会損失が生まれていることは言うまでもない。デジタル時代がかつてと違うのは、大企業の機会損失を利益機会に変換するユニヴァーサル・サービスが存在しうるということだ。 (鎌田、01/16/2012)