編集子蛇足――電子聖書へのアプローチとドキュメント技術
ジョン・シーボルド(1916-2004)が電算組版システムの開発に乗り出したのは、福音伝道(クエーカー)のためだった。このことは、筆者がこれまで会った中で最も明晰かつ魅力的な人物の一人であるデービッド・グッドステイン(-1997)から聞いた。1990年頃、ボストンだったと思う。聖書(のデータベース)から実践的な知恵を引き出し、伝道する有効な手段が求められ、そのために(生涯のほとんどを失聴者として過ごした)ジョンが電算組版を開発したというのは、筆者にとって衝撃的だった。テクノロジーは目的を実現する方法だが、その目的を知れば、テクノロジーの先の展開は読めるからだ。データベースからハイパーテキストへ、というのは必然でもある。聖書はたしかにテキストのテキスト(コンテキスト)として生まれ、バーチャルなハイパーテキストとして共有されることで発展してきた。つまり聖書はハイパーテキストであることを求めていた。
本は即自的には「読む」ためのパッケージだが、同時に「考え・使う」ための実践的手段でもある。信仰に厚いプロテスタントにとって、聖書は信仰の対象ではなく、信仰実践の手段であり、そのためには「使える」ものでなければならない。家の中に大切にしまっておくだけでは足らず、携帯してつねに道標を求め、機に応じて人々に「正しい教え」を伝えられる利便性が求められる。頭の中にデータベースを構築している聖職者ではない、一般の人々にも「使える」、いわば『豆単』のような聖書を、ジョンは求めた。聖書の「大きな物語」をデータベース化し、庶民の「小さな物語」の知恵の源泉としようと考えたのである。彼がこの仕事をグーテンベルクの42行聖書に比していたことは当然だろう。(右はジョン・シーボルドが1971年、息子ジョナサンと創刊した、シーボルド・レポートの記念すべき第1号。「更新される本としてのニューズレター」である旨が宣言されている。)
聖書は(部外者には)十分すぎるほど研究されてきたので、電子化以前からデータベースは出来ており、バージョン管理、表記言語、用語定義(辞書)など、ほとんどあらゆる角度から厳密に検討され取り扱われてきた遺産がある。デジタル化され、一般向けに提供されたのは1980年代後半だったと思う。Project Gutenbergでも1989年に欽定訳聖書のテキスト版が出ているが、HTML版がいつかは不明。筆者はBiblesoft社の聖書を同じ頃買った。1991年ごろには、データベース(つまり検索可能)聖書はかなり進化しており、複数のバージョンの対照、複数言語(ヘブライ、ギリシャ、ラテン、英語)の用語参照が可能なものが出ていた。1991年にハイパーテキスト版の聖書というのは、少なくとも一般向けでは存在しなかったと思う。
今日では、「HTML5聖書アプリ」はiTunes、Android市場をリードする存在であり、もちろん動的データを含めた対話的アプリケーションとして提供されている(例えばこの記事を参照)。小林・中野版の「ハイパー聖書」は、じつにもったいない企画だったと思う。グーテンベルクやジョン・シーボルドのように、“聖書テクノロジー”は、つねに知識コミュニケーション技術全体の進化をリードしてきたからだ。知識は使うものであり、コンテクストと結びつかなくては有効な知恵とはならない、という課題に人類は取り組んできた。デジタル化は「可動活字」「データベース」以来の衝撃を与えているが、それを超えるのは「ハイパーテキスト」性にあると思う。しかし、その有効な使い方を発見するのは、そう容易ではない。リンクはまだ入り口に過ぎないからだ。(鎌田)