DTPとは、編集者が「自由に」(もちろん制約の中で)何でも出来ると言われて何が出来るか、という話だったのではないか、といま思う。編集子も「版」との苦闘の末に知ったことは、漠然としたイメージでは何も実現できないこと、組版には歴史の中で形成されてきたルールがあるが、実現技術のベースが変われば、先人が直面したあらゆる問題に遭遇するということだった。柚口さんはじつに勇敢な方だった。いまの「電子出版」に最も必要なものだ。 (鎌田 解題)
[大地」とユズさん(2)
承前。『大地が動いた』『普遍論争』という2冊の書籍出版にSuperDTP大地での制作という局面で関わることで多くのことを考えた。
一番大きかったのは、本というものが版面設計の如何によってこうも表情を変えるものか、という感慨だった。版面のことを「ハンヅラ」と呼ぶことがある。「ツラ」とはよく言ったものだ。よく、表紙やカバーが本の顔だと言う人がいるが、多分、本当の顔は、やはりハンヅラなのだ。
『大地が動いた』と『普遍論争』は、その版面の表情がひどく違って見えた。ユズさんとユズ編集工房の仕事が劣っていたとは思わない。当時のDTPの水準からすれば、それは一頭地を抜くものだったことに疑念はない。ユズさんに拘りがなかったわけでもない。その証左に、ユズさんの印字用紙への拘りは尋常なものではなかった。600dpiの(当時としては)最高精細度のレイザープリンターでトナー出力したものをカメラ取りするのだが、ユズさんの指定は、微コートした上質紙。不要な反射を押さえ、トナーの乗りがいい、という。ぼくは、神田中を走り回って何種類もの紙を買い集めて試し刷りをさせられた。その局面では、ユズさんの拘りは中野さんの拘りとなんら変わるところがない。事実、『普遍論争』の印刷にもユズさんが指定した紙を使ったし、製版の上がり具合に対する中野さんの評価も非常に高いものだった。
しかし、版面の表情という点では『普遍論争』に一日の長があった。突飛なたとえだが、『大地が動いた』がビジネススーツを着た中年男性だとすると、『普遍論争』は目鼻立ちの通った紬姿の人妻、といったところだろうか。『大地が動いた』の表情の多くは、大地が用いていたリョービイマジクスの本明朝に起因するところが大きかったのだろう。中野さんは、本明朝の活版活字風の意匠が気に入らずに、その特徴を押さえるために、長体を掛けたり行間を空けたり四方の空間を多く空けたりという指示を繰り出した。結果的に版面全体としての黒みが減り、1行1行がはっきりと浮き出し、まさに目鼻立ちの通った表情となった。
『大地が動いた』と『普遍論争』を巡っては、JEPAにもお世話になった。津野海太郎さんを招いて、ユズさんともどもDTPについてのパネルディスカッションの機会を設けてもらった。その場での『大地が動いた』と『普遍論争』についての津野さんの評価は言わずもがなだが、そのパネルの場でぼくが訴えたかったのは、2冊の本の評価の問題ではなく、同じDTPシステムを用いても、これほどに表情の異なる本が出来上がる可能性がある、という事実だった。
DTPで制作された本の版面を見ただけで、制作に用いられたDTPシステムの善し悪しを即断することは危険なことだ。2冊の本の制作を通してぼくが得た貴重な教訓だった。
ずっと後になって、W3Cのテクニカルノート「日本語組版の要件」の開発でご一緒した小林敏さんが「マイクロソフトのワードを使ったって、やろうと思えばきちんとした組版が出来るよ」と豪語していた。本フォーラム主宰の鎌田さんも、若いころにワードのデフォールトの版面設計に関わったと言っていた。かくいうぼく自身、ジャストシステムに入社して最初にやったことの一つは、当時の一太郎のデフォールトの設定を字間0とし、左右のマージンを大きくしたことだった。DTPであるとワードプロセッサーとであるとに関わらず、フォントの選択と字間、行間の設定は、いわば出力した結果の表情を決定する要諦には違いない。プロはみな、そのことを知悉している。
今思い返すと、講演会の場でのユズさんのSGMLに対する批判も、DTPシステムと出力物との関係と通底するものがあったのかも知れない。そんなことへの拘りが、ぼくの不用意な質問につながったのかも知れない。ともあれ、ユズさんはもういない。そして、ぼくの慚愧も消えない。