臨済宗開祖・臨済の言葉に「仏に逢うては仏を殺せ。(中略)…始めて解脱を得ん」というのがある。小林さんは「本を殺す(滅する)ことで大悟し、解脱を得たようだ。ページは本の背で支えられている。背を断たれた本はもはや本ではない。オーラを亡くしたものに物神性を継承させようとするのは不可能だ。ではE-Bookを本と考える根拠は何だろうか。6年前のこの対話は、重要な問題を先取りしていた。
電子出版余談:書物の解体新書第一ラウンド(mixiログから)
以下は、2006年暮れに畏友安斎利洋さんとmixi上で交わした一連のやりとり。冒頭のリンクは、今見るとみんな切れているが、いくつかの裁断機やブックスキャナーの紹介。
[小林]
http://www.aug-inc.com/bookscanner.html
http://www.irextechnologies.com/products/iliad
http://item.plus.co.jp/search/DispDetail.do?itemID=t000100013461&volumeName=00011&sv10=PK-513&searchDataStrings=&sv1=&sv2=&sv3=&sv4=&sv5=&sv6=&sv7=&sv8=&sv9=
http://www.canon-sales.co.jp/documentscanner/dr-2050c/index.html
[安斎利洋] しまった、ツボを押された。
[小林龍生] ふふふ。
[安斎利洋] OPTICBOOK 3600 52,699円(税込)意外に安いですね。A4カラー300dpiで10秒とありますが、気になるのは、スキャンしはじめるまでの時間。
断裁機は、ScanSnapを買ったときに僕も調べました。しかし、大きさと重さに負けた。
本の脱構築という意味では邪道かもしれませんが、最近これを買いました。
[小林龍生] >本の脱構築という意味では邪道かもしれませんが、最近これを買いました。
うちは、これ。楽譜とかのばあいや、ノドがきちんと開くことが重要なのでね。(リンク切れ)
>A4カラー300dpiで10秒とありますが、気になるのは、スキャンしはじめるまでの時間。ギロチンの快感にはまっていて、まだ試していない。試したら報告する。
本の死と復活
今になって思い当たるのだけれど、ちょうど千年期の変わり目あたりに、ぼくは「電子書籍コンソーシアム」という怪しげな官民共同組織で事務局の技術責任者みたいなことをしていたわけだ。村上ファンドの村上世彰さんがまだ経産省にいて、担当窓口だった。で、当時の月刊アスキーか何かの取材で、紙の本を電子化する現場に同行したことがある。そこで、大量の本の背が次々と裁断されるのを見た。たぶん、この時点でぼくの中の何かが毀れたのだと思う。本に対するある種の物神崇拝のような思いが。文字が書かれた紙を綴じるという営為は、グーテンベルクよりもずっと以前、おそらくは、人類が羊皮紙に文字を書き付けることを思いついたころから始まっていたと思うけれど、それとてもある種の文化依存的な営為だったわけだ。ぼくはそのような《本の文化》を支える《神》を殺した。綴じられた本を裁断するという行為は、そのような《神の死》の再現であり、スキャナーでひとまとまりのPDFにするという行為は、新たな姿=物理的な質量を持たない《神の復活》なのだろう。こうして、ぼくは、書物の神の《死と復活の儀式》を日々繰り返すことに、サディスティックな感覚とマゾヒスティックな感覚を綯い交ぜにしたえもいわれぬ快感を覚える。(絵はフラ・アンジェリコ「キリストの復活とマリア」)
[安斎利洋] scansnapを買った当初は、捨ててもいいような雑誌や論文集などを片っ端からやっつけていただけなんだけれど、だんだん大事な本にまで手を初め始めると、本の霊性とはなんだったのかという問題が立ちはだかってくる。それはまさに書物の脱構築ということなんでしょう。デジタル化された本は、百科事典のようにますますアクセスしやすくなるものもあるけれど、デジタル化したとたんに姿を消してしまう本もある。本というインターフェースは、電源もいらないし、パラレルだし、ぱらぱらめくりができる。しかも、本は触覚や嗅覚にも訴える。本は記憶の地図でもある。ギロチンにかけると失われるものが、面白い。
「ギロチン」をキーワードに、書物の脱構築を考えてみたいですね。コミュニティでも作りましょうか。
[小林龍生] この問題は、文化論としてみてもやっかいでねえ。今、イーグルトンの「文化とは何か」を読んでいるんだけれど、一言で言うと大文字の普遍的文化《Culture》と小文字の多様な文化《cultures》のせめぎ合いなわけだ。で、ちょっと見には、《cultures》の方に分があるように見えるけれど、じつは、複数の《culture》の間に、《Culture》の位置を競い合うヘゲモニー争いとかが内包されていたりして、ことはそう容易には整理できない。もう一つ、手に入れてはいてまだ手が着いていないんだけれど、例の《利己的遺伝子》のリチャード・ドーキンスが“The GOD Delusion”(邦訳『神は妄想である』)という本を出した。これもちょっと気になっていてね。
書物にある種の《物神性》を認めるか、単なる《メディア+情報コンテンツ》と考えるかは、それこそ共訳不可能(incommensurable)な価値観の違いでね。おそらく両派の間には、議論なんて成り立ちっこない。安斎さんにしても、二つの価値観の間で、自己が引き裂かれているに違いない。大げさに言えば、この《引き裂かれ感》は、精神分裂というか一つの小さな自己の崩壊なわけだ。
今のぼくは、そのような裂け目を自虐的になめ回している、というか、かさぶたをはがす快感に浸っている、というか。
>「ギロチン」をキーワードに、書物の脱構築を考えてみたいですね。コミュニティでも作りましょうか。どれほどの人が、このような議論に主体的に係わってくれるだろう。
[安斎利洋] 「両派」という闘争になっているうちはまだ幸せなんだけれど、お察しの通り自分のなかでくりひろげられる矛盾だから厄介。
本に立ち上がるアウラに似たクオリアがあるのは確かなことで、もうひとつ確かなのは電子メディアは自覚しているよりずっと稚拙なレベルでしかないということ。本をギロチンにかけながらそこを考えぬく、という戦略に間違いはないと思う。
>どれほどの人が、このような議論に主体的に係わってくれるだろう。
とりあえず二人でもいいわけで。オープンなコミュニティはごめんですね。小林さんは絶対に喧嘩するだろうし。
[小林龍生] >「両派」という闘争になっているうちはまだ幸せなんだけれど、お察しの通り自分のなかでくりひろげられる矛盾だから厄介。
そう。問題は、このような矛盾を自覚している主体の絶対数が少ないということ。
>とりあえず二人でもいいわけで。オープンなコミュニティはごめんですね。小林さんは絶対に喧嘩するだろうし。
ぼくは、物神性固守の守旧派にも、本を単なる紙の束としか見ない新人類にも、常にイライラしている。ことは、そんなに単純ではないだろう、ってね。それで、守旧派を相手にすると新人類的な発言をするし、新人類を相手にすると守旧派的な発言をして、自己分裂を来す。
いずれにしても、URLへの参照だけからここまで反応してくれた安斉さんに敬意と感謝。