かつて情報社会とか消費社会という言葉があった。その中身は大きく変わっているのだが、何が変わったのかは検証されておらず、漠然と同時の教科書的知識が陳腐化されて生きている。新しい現実と仮想的バリュー・チェーンを発見した企業は「常識」を破壊しつつ成長を続け、そうでない企業は漂流している。それぞれの仕方で消費者/顧客を再発見し、コンタクトできないと、勝負にならない。
紙と印刷によってビジネスとしての出版が生れた。デジタル化によって物理的実体を失い―まだ印刷本の影でしかないとも言えるとしても―モバイルWebの上を移動する存在となったことで、従来の枠にとらわれずに発想する可能性と必要性が生れている。本連載ではさまざまなことを取り上げてきたが、まだ大きな問題が残されている。それは「読者」と「編集」である。畢竟この2つは深い関係にあり、独立して論じると重要な論点が落ちると思われるからだ。これらは筆者も未知の領域で、手懸りも十分ではない。読者諸賢の支援を仰ぎたい。
出版活動は誰のためのものか
筆者は久しくシステムデザインに関心を持ってきた。小さなシステム(例えばゲームアプリ)から複雑なシステム(例えば航空機や会社、そして交通などの社会システム)まで、さまざまなものが対象となるが、中心的なテーマはライフサイクルと最適化だ。それには直接間接に関連する個人やグループを特定するステークホルダー分析が欠かせない。出版は重要な社会システムであると考えているので、これは曖昧ではいけないと考えている。
出版は誰に対して発信されるものだろうか。出版社あるいは書店は誰を相手にビジネスをしているのだろうか。常識的にはお金を払ってくれる消費者(あるいは図書館)なのだが、消費者に対するサービスの質は、一般の小売業に比べても良いとは言いがたい。いやハッキリ言って悪い部類に入るだろう。接客態度、商品知識、情報提供、注文への対応…、顧客体験は、平均的に言って満足感を与えるにはほど遠い。購入窓口をアマゾンに一本化しても、何の感情も沸かないのは、「お客」として相手にされた経験が少なく、愛着が持てる書店があまりに少ないからだ。倉庫か役所の窓口のようだ。出版社にとっては、お客とはまず商品を扱ってくれる取次であり、せいぜい売ってくれる書店で、その先の存在は企画段階で「検討」された後、意識から消えてしまう。読者がブランド・ロイヤルティを感じることは、あまりないだろうし、出版社もそれを重視していない。
「顧客」「消費者」「ユーザー」などの一般的なマーケティング用語は、この業界ではあまり使われない。「読者」が好まれるが、まだ買っても読んでもいない相手に使うのは適当ではない。しかも誤用を続けると錯覚が生じてくるのは避けられない。潜在読者というのは未読者あるいは非読者だ。2000円前後の商品を不特定多数に販売する場合、通常は「消費者」と呼ぶのだが、本は「消費」される(べき)ものではないと考える人々は、たぶん道徳的な発想からこれを嫌う。しかし、商業出版は情報の消費を中心としたビジネスなので、消費者に向き合わないということは現実逃避に過ぎない。それによって「マーケティング」という資本主義に生きる基本的技術から遠ざかる。
同じように「お客」の表現に苦労する業界として、医療とIT、そして行政がある。病院では「お得意様(customer)」と言わず「患者(patient)」と言う。保健・医療サービスで考える場合には「顧客」と言うほかないのだが、医者/病院が相手にするのは患者でなければならないかのように、これは消えない。「金槌しか道具がなかったら何でも釘に見えてくる」ということわざがあるが、それと同じだろう。IT業界は長く「ユーザー」を濫用してきたが、かつて技術者だったユーザーは一般消費者にまで広がり、いまや意味を成さない。出版は権威ある「金槌を持った業界」の一つだ。その場合の金槌は、「編集・制作・流通を含めた専門的装置」だった。出版が三位一体としてのメディアであることは本誌が強調してきた。さて、いまやIT業界と同じく、業界は装置の占用権を喪ってしまった。金槌はいまや誰でも持っている(そこへいくと金槌を独占している行政だけがいたって元気だ)。 →次ページに続く