「Kindle上陸」が主要日刊紙で間歇的しかし大々的に報じられるようになって半年あまり。確定的な報道のはずが、いずれもほどなく噂にまで格下げされている。噂にもいろいろあるが、米国のネイト・ホフェルダー氏は、この噂をユニコーン(想像上の獣)として扱い、バウカー社の調査を引用して、日本人はE-Bookなど要らないようだから、アマゾンも無駄なカネを使わないほうがいい、とまで言っている(The Digital reader, 04/18)。じっさい。これは異常な事態である。
新聞はそれなりの裏を取って報じたのだろう。どこか(この場合はアマゾン)に頼まれて、言われる通りに書いたという可能性は考えられない。それでは、日経、読売、朝日などの各紙が、揃いも揃ってハズしてしまうという事態が生じたのだろうか。関係者が数十にも達するようなのに、こうも空気が重苦しいのはなぜなのか。
見苦しい出版業界のラインダンス
アップルがiPodやiPhone、iPadでそれぞれのカテゴリーを創造し、圧倒的なシェアを築いたのと同じように、アマゾンはKindleでE-Bookというカテゴリーを創造した。その会社が日本(および世界)で日本(語)のコンテンツを売ってくれるのは大変結構なことだ。新しい市場を創造するのはかなり途方もないエネルギーと技術的先進性が必要で、簡単に真似が出来るものではないことは、アップルやGoogleを見ればわかる。世界のトップ企業が日本でビジネスをし、日本企業と競って市場を成長させてくれることは、消費者にとっても企業にとっても重要なことだと思う。
アマゾンと国内出版社との間の交渉は合意、あるいは契約(調印)にまでいったのか。いったのならばなぜ正式発表がなく、未確認情報ばかりが報道されるのか。おそらくは「合意済み・調印前」の出版社が一定数ありながら、誰かにとって「十分」な数が揃わないのだろう。アマゾンが立ち上げ時期に合わせるために発表を待っているのか、あるいは出版社側が「足並み」を揃えるために、横並びの呼吸を量っているのか。メディアへの出版社の対応を見ている限り、後者である可能性が強い。つまり異常に神経を使っているという印象なのだ。契約はアマゾンと個々の出版社の二者間の契約であり、アマゾン以外との契約で、出版社がこれほど神経を使っているという例は聞いたことがないから、出版界は、アマゾンに対してだけ一種の共同歩調をとって(とらされて)いる可能性が強い。
ではなぜ、他社の動向にそれほど神経を尖らせるのか、なぜ自社の判断で決められないのかと言えば、それは価格(決定権)以外にはないだろう。ここ数年、出版社の関心は、価格問題と電子版権問題(著者の合意)に集中してきた。ちなみにこれは20年前の「電子出版」ブームとは大違いで、新しいメディアに前向きの声はほとんど聞かれていない。現状の「電書」市場の(呆れるほどの)立ち上がりの遅さ、消費者の関心の薄さの原因を問題とするよりも、紙の市場を喰っていないことへの安堵の「空気」が強いほどだ。日本の出版は明らかに危機にあると思うのだが、その危機感はデジタル革命を体現するアマゾンに対して向けられている。これは逆であると言わざるを得ない。
空洞化し、崩落の危機にある再販制
どうも出版界は「前門のアマゾン。後門の再販制空洞化」の間で、深刻なジレンマに進んで陥ってしまったようだ。<再販制護持→電書の定価制→版権のコントロール→国家補助による電子化推進>、という発想で考えている人がいるが、これは不可能であり、メディアとして不名誉な死、すなわち著者と読者の両方から見放されるという最悪の結果で終わるだろう。そもそも紙の本の市場を守るということと再販制護持とは矛盾している。ネットでも電書でもなく、硬直した再販制こそが、15年間で出版市場の3分の1を減らした最大の原因なのだから。このシステムは、じりじりと降りてくる吊り天井のように、出版活動をますます困難にしている。
再販制を維持したい気持ちは理解できる。これには金融・物流・情報の3つの機能が組み込まれており、機能不全に陥っているとはいえ、生活の場として現に動いているシステムなのだ。しかし、もうタイムリミットだ。おそらく2020年までには、出版社の倒産、書店の閉鎖が拡大し、自然崩壊(出版のではなく産業としての解体)に向かう。多臓器不全となり、含み損が一挙に顕在化するからだ。したがって遅くても2015年までには、新本、古本、デジタルを含めた新しい出版流通システムについて合意し、移行をを始めないと、かなり深刻な事態に陥る。著者と読者の両端をつなぐ一貫したシステムを効果的に提供できる存在はアマゾン1社となるからだ。これがハードランディング・シナリオだが、金に困った大出版社には、文化的・社会的な役割を期待できないから、より緩慢なシナリオでも結果はたいして変わらないだろう。(写真上はかつての香港・九龍城)
アマゾンはギョーカイではなく、出版人に信頼される存在になれ
辛らつなホフェルダー氏によれば、日本はE-Bookに敵意を持つ国なのだそうだが、日本人の多くは(2007年以前の米国人と同じように)まだE-Bookを知らないのだから、現在のデバイス、サービス、価格、品揃えで期待が低いのは無理もない。筆者も「紙があり、値段もさほど違わず、デバイスが制限され、将来も読めるか予測できず、何の魅力もない」コンテンツを買っていない。日本人が無関心なら「自炊」までするユーザーが少なくない理由が説明できない。
だから、アマゾンに対しては、他の国を優先するのではなく、「著者と読者の間にいる存在は中間的で、積極的な価値を提供できない限り排除される」という信条を日本で実践してくれることを期待したい。この会社はすでに日本最大の書店で、Kindleに期待する愛書家を有している。必要なのは、電子著作権を持っている現在(および将来)の著者と、コンテンツの価値を知り、出版物としてプロデュースできる出版人、編集者、クリエイターたちだ。彼らは価格革命を前向きに生かす知恵を持っている。日本は豊かな出版の歴史を持ち、版権切れの著作物も無数にある。デジタル・ファーストのビジネスモデルで、リスクを最小化することで、転換期に生きる知恵と心の糧を必要とする人々の期待に応える出版が可能であることはすでに実証された。
アマゾンが本当に消費者のための会社なら、この病める経済大国で、談合を空気として生きてきた、ビジネスマンならぬギョーカイ人に遠慮することなく、著者と消費者の間のラストワンマイルをつなぐ役割を果たせるだろう。 (鎌田)