これまで出版が国境を越えるには3つの壁があった。言語/文化、販路、そして出版活動の一切に要するオーバーヘッド・コストだ。これらの壁(リスク)を越えるには、一般的に言って出版社は小さすぎ、出版物は多様すぎる。しかし、その割には、壁を越えた多くの出版物が流入し、その中には成功した出版物が少なくないことは、需要が確かに存在すること、壁が低くなればその分、あるいはそれ以上に市場が拡大する余地があることを示している。そして壁は低くなった。その結果どうなるか。
障壁は消え、日本の巨大な「外国書籍市場」が世界市場につながる
一般書籍と学術書、雑誌を含めた日本の海外文献市場は1,000億円あまりと言われ、オンライン・コンテンツを含めれば決して小さくはない。それにかつてほど活発ではなくなったが、翻訳書出版は書籍市場の1割近くを占める。ジャンルによっては30~50%ということもある。世界的に見ても突出していると思われる。そうした意味では、日本の出版市場の2割あまりは、直接にグローバルな市場の一部であったということになる。海外との結びつきで言えば、日本は諸外国に比べて「国際的」である。あらためてグローバル化などという必要はないほどだ。
にもかかわらずそうした印象があまりないのは、翻訳出版の敷居の高さ、海外出版社の参入を阻み、洋書を法外な高値で販売してきた流通の閉鎖性など、江戸時代に蕃書、洋学を特別なものとして扱って以来、そして米国が占領政策の一環として行った翻訳+出版統制以来の慣習の名残といえる。海外の知的資源の導入は制限・統制されて当たり前という観念が、なお無意識に残っている。国を挙げての英語教育にもかかわらず(あるいはそのせいで)、英語を使える人間は少ないし、意識の上で「外国」は遠い。(写真右は江戸時代にオランダから輸入した天文書)
実体と「意識」の断絶は、日本語が外国人に通じるはずはないとか、日本語は翻訳不可能とかいった、根拠のない言語的閉塞感・孤立感を固定化してきた。その日本固有の孤立感は、ひ弱な日本の知識人や権力エリートが好むぬるま湯の温度を保つには都合の良いものだったが、ひ弱でもない人たちが海外で知られる機会は少なくなる。いまだに「世界の壁」があると信じられているせいだ。日本から知的資源を輸出する事業は、もっぱら外国人の手を借りて行われてきた。だから日本から輸出するものは良くも悪くもマンガばかりで、著しくバランスを欠いている。国内市場(商慣習)を「守って」きた一方で、日本の出版社は海外での可能性から目を背け、機会損失を重ねててきたのだ。
しかし、時代は確実に変わった。出版の国境に立ちはだかる3つの壁のうち、コストの壁は、デジタルコンテンツに関しては事実上消滅した(つまり内外の差はない)。紙についても、現地印刷で下げることが出来るし、なによりもマーケティング・コストが下がることが大きい。そして販路の壁は、リアル書店しか本を扱ってもらう方法がなかった時代とは一変した。卸・小売ルート以外に、オンライン通販と直販という選択肢が広がっている。しかし言語と文化の問題はどうだろう。文化の違いは障害にならないだろうか。それはない。単純に言って、コストとリスクがあってさえ、国内で2000億もの輸入出版市場が出来ている。輸出はこれまで手が付けられてこなかったし、またマーケティングのアプローチが間違ってきた(あるいはそもそもなかった)。本気で取り組めばコミックを除いても数百億規模になって不思議はない。デジタルを味方にすればだが。
日本の出版のグローバル化への可能性が開かれた
これまでは各国の市場が絶対的な前提としてあり、ミステリやSFといったジャンルが後にあったとすれば、これからは、ジャンルを先に、言語を次に、文化圏をその次に考えるということになる。翻訳なしで通用する範囲が大きい英語圏が有利であることは言うまでもないが、逆に言えば、英語にしさえすれば広大な世界市場にアクセスできるということだ。スウェーデン人の無名作家の『ミレニアム』の成功を見過ごすべきではないだろう。(→次ページに続く)