書物・出版の成立史とともにあった聖書の変遷は、本の本質についての様々な側面を余すところなく見せてくれる。それは本の脱構築と脱神秘化という今日的課題への回答を考えるわれわれにとって、他では得難いものだ。田川聖書論についての論考の完結編は、翻刻の問題を扱い、版面に対する創造的アプローチの重要性を説いている。「原文に忠実」、「譜面に忠実」というのは聞こえはいいが、じっさいにはフィクションであり、それを墨守すると思考停止に陥る。(編集子解題)
コンテンツとテクノロジーの対話:(4) 田川建三の『書物としての新約聖書』その3
電子書籍の問題を考えるとき、『書物としての新約聖書』との関連でどうしても考えておきたい、もう一つの問題は、翻刻ということだ。(蛇足ながら、翻刻とは「写本・版本などを、原本どおりに活字に組むなどして新たに出版すること。」と国語辞書には解説されている。編集子注)
『季刊哲学12号 電子聖書』に関わる思い出から。
この本には、荒井 献(ぼくはギリシャ語ゼミのできの悪い学生として謦咳に接したことがあるので以後先生と呼ばせていただく)の「プロローグとしてのエピローグ」と題された東京大学における最終講義の記録が載っている。この講義は、マルコ伝の(本来の)最後の部分である16章7節と8節にことよせて、先生御自身の新約研究の積み重ねを振り返ると共に、東京大学退官後の研究への抱負を語るものとなっている。この本の付録につけたフロッピーディスクで、ぼくはこの講義録を換骨奪胎して、そこに引用されているフェミニストの聖書学の視点からの解釈を浮かび上がらせる試みを行った。しかし、ここでぼくが議論したいのは、そのことではない。(写真右は、4世紀のギリシャ語写本によるマルコ伝16章8節の一部)
この論文には荒井先生が取り上げたマルコ伝の個所が、ギリシャ語の原文と荒井先生の先任教授であった前田護郞による翻訳で掲げられている。このギリシャ語原文を『電子聖書』に掲載するに至るまでが大変だった。『季刊哲学』のページネーションを委託していた会社では、ギリシャ語の写植が打てない。中野さんが荒井先生に相談すると、「いいですよ、ラテンアルファベットの音写で」とおっしゃる。中野さんはエディトリアルデザインに関しても、名にしおう鬼だった。ギリシャ語原文での掲載に拘った。最終的には、この引用の部分だけ別途他の会社に依頼して清刷を作ってもらい、それを張り込むことで切り抜けた。(左の絵は聖書をラテン語訳した聖ヒエロニムス)
この経緯を横から見ていて、ぼくはちょっと意外な思いを抱いた。なぜ、荒井先生は、ギリシャ語原文に拘られなかったのだろう、と。
この疑問に答えを与えてくれたのも、『聖書としての新約聖書』だった。
「ではどういうギリシャ語テクストが今日発行されているかというと、これはもう決定版で、すでに何度も言及したネストレのテクストを用いることになる。これは玄人にも(玄人でも普通はこれしか用いない。注解書でも書く時には、それ以上調べることもあるけれども)、ギリシャ語の初級文法が終わった程度の素人でも(本文が非常にわかりやすく印刷されている。加えて定価が安い)、まずこの一冊ということになる。「まず」どころか、ネストレがあまりにみごとである故に、ちょっとほかの印刷公刊本は相手にならないのである。」(p400)
「長年の伝統の結果、さまざまな記号や整理の仕方が確立していて、アパラトゥス(小林注:異本を関係を整理した注)の僅かな面積に嘘みたいに大量の情報を盛り込むことに成功している。」(p400)
ちなみに、このアパラトゥスの記号類は、ユニコードで標準化されて符号位置を持っている。それほどに、このネストレ版は普遍性を持っているのだ。
新約聖書の初期の写本は、ギリシャ語はギリシャ語でも、すべて大文字で書かれている。現代的な意味での句読点もない。聖書テキストの翻刻とは、このような複数ある写本を比較検討して、その系統を整理し、適切な句読点をほどこして、本文を確定していく、というまさに気の遠くなるような作業なのだ。現時点でネストレの最新版は1993年に発行された27版だが、この版が発行された時には、26版との句読点の異同が、神学的な聖書解釈にまで影響を与えるといった議論で斯界が大騒ぎになったことを記憶している。ちなみに、ぼくも、ドイツ語対訳の27版を持っている。(写真右は、エベルハルト・ネストレ)
この個所を読んで、なぜ荒井先生が、ギリシャ語原文に拘らなかったか、というぼくの疑問は氷解した。
元々の写本の多くは大文字で書かれており、句読点もない。それらを比較検討した上で本文を確定して翻刻する。即ち、翻刻にはすでにある種の解釈が介在している。一方、ギリシャ文字からラテンアルファベットへの音写方法は、確立しており、専門家であれば(ギリシャ語を少しかじっただけのぼくでも)完全に一対一に対応が取れる(ぼくたちの業界の言葉で言えば、ラウンドトリップ・コンヴァージョンが可能)。写本とギリシャ語翻刻との距離に比べればギリシャ語翻刻とラテン・アルファベットへの音写との距離は取るに足りない。
日本語学者の豊島正之さん(キリシタン本研究の泰斗)に「JIS批判の基礎知識」 「『原文に忠実な翻刻』をめぐって」という隠れた名論文がある。1998年、JISやUnicodeに対する論拠が薄く情緒的な反応に流された批判の嵐が渦巻いていたころ書かれたもの。
この論文で、豊島さんは、日本の古典籍を翻刻する際の漢字の包摂について論じている。
「各文献原文に対して『原文に忠実な翻刻』『厳密な翻刻』というものが存在し、それを可能にする為に極力微細な文字区別が必要である、とする主張がある。どうも、この立場には、文字区別を微細に行えば、主観が入り込む余地無く客観的に厳密な翻刻が出来る、という思い込みがある様である。」
「翻刻は、解釈である。」
「実際の翻刻を行えば直ちに分かる事だが、微細な文字区別から出発する事によって解釈が可能になるのではなく、実際の進行は全く逆で、精細な解釈を得て始めて(ママ)まともな文字区別が出来るようになるのが実情である。」(『原文に忠実な翻刻』を巡って)
なんと明解な言挙げであろう。実践に裏付けられた確信に満ちた説得力がある。
文字コードの周辺で活動する人たちの一部に、まさに「厳密な翻刻」を論拠として、符号化された文字の少なさを挙げ連ねる人がいるが、豊島さんは、そのような人たちに対して、現場の実体験を踏まえた上で、全面的な否を唱えているのだ。ぼくもこの豊島さんの論旨に全面的に賛同する。
その上で、15年経過した2012年の電子書籍の状況を瞥見すると、正直なところ、暗澹たる思いを拭い去ることが出来ない。電子書籍の、例えば既存の活版時代の書籍の電子化や、シフトJISで符号化されたJIS X 0208を前提に電子化されたテキストのUnicode化などに関わった人たちの中に、1人でもこの豊島さんの論文を踏まえた上で、電子化テキストの有り得べき翻刻の在り方について思いを馳せた人がいるだろうか。
活版時代のある特定の字母型セットを前提に、ある特定の文選工文化を背景として組まれた版面の、その当時の印刷技術水準(必ずしも劣っていたという意味ではなく)に制約された校訂者の判断を金科玉条として、その当時の翻刻版面の「微細な文字区別」に拘泥しただけの、当事者意識とは無縁の責任回避的な視覚的再現のみを目的化してはいないだろうか。(左は『本邦活版開拓者の苦心』(津田三省堂)の宋朝体による序文)
古典籍の翻刻に限らずとも、活版印刷の時代に出版された書籍の電子化に際して、著者校を通して著者が目を通しているという理由で、やはり印刷現場の制約と、その制約と表裏をなす見識で組まれた版面の維持に拘泥してはいないだろうか。
ぼくは、活版時代の職人の見識を否定するつもりは毛頭無い。全く反対に、活版時代に充溢していた現場の文化が霧散してしまい、それ故に、その文化を批判的に継承することも出来ずに墨守するだけの電子テキスト化の方法に疑義を呈しているのだ。今必要なのは、活版時代の(もしくはシフトJIS時代の)版面を無批判に墨守することではなく(それだったらそれこそ集団的自炊炊き出しで十分だろう)、当時の現場の文化に対する畏敬の念を抱きつつ、それを批判的に継承する電子翻刻の文化を探ることではないか。
ずっと以前、豊島さんに、『書物としての新約聖書』を紹介したことがある。豊島さんが、この田川建三の名入門書を高く評価したことは言を俟たない。(小林龍生)
小林龍生(こばやし たつお)
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951 年生まれ。東京大学教養学部科学史科哲学分科卒。 Unicode Consortiumディレクター、IDPF理事、W3C日本語レイアウトTF議長、情報処理学会情報規格調査会SC2専門委員会委員、日本電子出版協会 フェローなどとして、ITと言語文化の接点にあって国際標準化の現場で活躍。小学館では学年誌の編集、ジャストシステムでは製品・技術開発に携わったほ か、初期の電子書籍プロジェクト(電子書籍コンソーシアム)も経験している。主著『ユニコード戦記』(東京電機大学出版局、2011)