要求が定義され、機能の仕様が合意され、標準が出来る。その後に実装製品が出てくるのだが、ソフトウェア標準の開発者がまず覚悟しなければならないのは、標準化に対価は得られず、よい標準であれるほど、その機能はデフォルトとなり、早晩商品価値を失うということだ。人類に火をもたらしたプロメーテウスの運命。EPUB 3の日本語組版をわれわれはどう生かすべきなのか。海外に出て行くか、日本に入ってくるのを待つか。時間はそうない。(編集子解題)
コンテンツとテクノロジーの対話:(5)『日本語組版処理の要件』と小林敏さん、小野澤賢三さん(その1)
東京電機大学出版局から『W3C技術ノート 日本語組版処理の要件』が発行された。これを受けて、JAGATが出版記念セミナーを開催してくれた。会そのものは、高瀬拓史さん、村田真さん、石井宏治さんらのJLreqがEPUBやCSSに与えた影響についての時宜を得たプレゼンテーションとアンテナハウス、モリサワによる、実際の電子書籍制作現場でのJLreq対応機能実装のデモンストレーション、本サイト主宰の鎌田博樹さん司会によるパネルとQ&Aなど、大変充実していて楽しいものだった。
しかし、当日参加してくれていたogwataさんがいみじくもtwitterで指摘してくれたように、アンテナハウスの小林徳滋社長の発言(ogwataさんのtweetを引用させてもらうけれど)
「今回「日本語組版処理の要件」(以下、JLRec)ができたことで、外国の人は誰でも、たとえばインドのすごく安い会社の優秀な人が、すばらしい日本語組版ソフトを作る可能性はある。するとどうなるか。今、日本で組版ソフトを作っている会社なんかは、あっという間にすっとぶ。」
「逆に言うと、我々は海外出ていかないと絶対勝てない。そういう状況になった。これはJLRecができたことで、マーケットがフラットになってしまったからです。こちらから先に出ていかない限り、絶対勝てないでしょう。そういう怖さはあります。」
この発言は、XML関連のフォーマッターを世界に売って、ビジネスをしているアンテナハウスの経営者のものだけに、切実な実感がこもっている。
じつのところ、ぼく自身は、JLreqがビジネスに及ぼす影響を、ここまではっきりと認識していたわけではない。しかし、このようにはっきりと言われてみると、「そうだよな、当然のことだよな」「ぼくたちのチームがやったことは、善し悪しは措くとして、そういうことなんだよな」と、しみじみ思う。
小林社長の言葉を、ぼくなりに、もう少し敷衍してみたい。
「日本で組版ソフトを作っている会社なんかは、あっという間にすっとぶ」
では、JLreqがなければどうなったか。「あっという間」では、ないかもしれないが、いずれ消えていくのではないか。「日本語は永遠だ、縦組みやルビの文化を継承するためなら、製品(やコンテンツ)が少々割高になっても、消費者は費用負担を惜しまない」という反論があるかもしれない。はたしてそうだろうか。ぼくには、当事者の一人として、ATOKや一太郎で、MS-IMEやWordと戦い、一敗地にまみれた苦い経験がある。70億人を対象として開発する製品と、たかだか1億3千万人を対象として開発する製品とでは、その開発投資に振り向けられる資金に雲泥の差がある。そして、ある製品やシステムを開発するコスト全体の中で、文化依存要素に関わるコストなどは、たかが知れている。
縦組みとルビを実現するためだけに高コストの製品をスクラッチから製品を開発して、縦組みもルビも実現できない低コストの製品に対抗することができるのだろうか。
ぼくには、消費者が縦組みも持たない環境を唯々諾々と受け入れる可能性の方がずっと高いように思われる。
JLreqがあろうがなかろうが、日本の市場だけを対象としてきた会社は、早晩衰退していくのではないか。そして、日本の文字の文化からは、縦組みやルビが消えていくのではないか。
JLreqは、一部の企業の衰退を早める役割を担ったかも知れない。しかし、JLreqは、地球規模で開発されている製品に、縦組みやルビが入る可能性を少しでも高めることが出来たのではないか。EPUB3やCSSに縦組みやルビの機能が盛り込まれることを通して。
だとすれば、小林社長がいみじくも言い放ったように「こちらから先に出ていかない限り、絶対勝てない」ならば、日本語固有の言語文化依存要素を次の世代に継承していくためには、地球規模の視野を持つことは不可欠なのだろう。
小林龍生(こばやし たつお)
1951 年生まれ。東京大学教養学部科学史科哲学分科卒。 Unicode Consortiumディレクター、IDPF理事、W3C日本語レイアウトTF議長、情報処理学会情報規格調査会SC2専門委員会委員、日本電子出版協会 フェローなどとして、ITと言語文化の接点にあって国際標準化の現場で活躍。小学館では学年誌の編集、ジャストシステムでは製品・技術開発に携わったほ か、初期の電子書籍プロジェクト(電子書籍コンソーシアム)も経験している。主著『ユニコード戦記』(東京電機大学出版局、2011)