オープン・パブリッシングは、従来の本の電子化をはるかに超えた、知識情報コミュニケーションにおける革命に対応するコンセプトだ。この革命はとうに進行している。ビジネスと社会の対応が遅れているだけだ。グーテンベルクの印刷術は、間もなく世界に伝えられたが、イスラム世界や中国・インドなどの古代文明の地はこれを無視し、日本も同様だった。遅れていた西欧、新興国のアメリカに抜かれた大きな理由だ。
テクノロジーは世界を変えない。変えられるのは人間しかいない
活版印刷技術が西欧の外に出るのに数世紀かかった理由は、かなり重要だ研究テーマだが、日本での理由は比較的はっきりしている。可動活字を使いこなす金属加工などのインフラがないという以上に、江戸時代を通じて、日本の出版文化の中心だった木彫による読本の美的品質にとうてい及ばなかったからだ。木版本は大衆が読む漢字仮名混じり文の流麗さを表現するのに最適で、挿絵も同じ板にレイアウトできた (WYSIWYG)。コストは高いが浮世絵のような彩色画さえ扱えたから、木版はほとんど無敵だったのだ。また、検閲を受けない100部以下の自主出版は筆写で間に合った。現代の水準から見ると能書家はそこらにいた。木版本や写本と比べ、活字本は日本語には向かない、と誰もが思ったろう。ちょうどいまの出版関係者が「縦組・ルビ付・禁則処理・外字」を問題にするようなものだ。
明治に入って活字本が木版本を駆逐したのは、それまでの「日本語出版文化」などを問題とせず、西欧由来の知識情報を大量に受け容れるためだった。おかげで日本の出版文化は大混乱に陥ったが、それは「文明開化」と呼ばれている。木彫・木版本の工芸的自由さ、繊細さは、厳格・無骨な機械式活字印刷に置き換えられた。デジタル出版は、この活字革命に比べたら、大規模な文化破壊 (destruction)を伴うことはない。しかし、ビジネス的には、非常に破壊的(destructiveではなくdisruptiveという意味で)だ。この破壊は知の独占に対するものなのである。これはじつに厄介だ。大規模なコミュニケーション(出版・放送)手段を集団的に独占してきた「第4の権力」のあり方に関わっている。イスラム世界で活字印刷の拡散を阻止したのは、高度な写本文化を背景に経典の解釈を独占するイスラム法学者たちだった。
もちろん、現代の「第4の権力」に、当時のイスラム法学者のような知的道徳的権威はないが、それでも歴史の針を一世代止めるくらいのことはできる。そして「失われた××年」を取り返すことがいかに難しいかは、われわれが身をもって体験しているところだ。以下、コミュニケーションという観点からデジタル出版を考察してみたい。
ネットワーク=コンピュータ=サービス(N-C-S)の銀河系
「ネットワーク」とはその昔、主に放送網を意味していた。放送網は番組制作から・送信・受信までを統一規格でカバーする、集中型の巨大システムだった。1960年代に発展したコンピュータの商業的ネットワークも、同じく集中型である。巨大なホストが端末に画一的なサービスを提供するシンプルなもの。集中型優位の時代は一世代以上続いたので、40代以上のコンピュータ技術者にとって、なおオンラインといえば、銀行のオンラインのような集中型をイメージするだろう。
今日のタブレットのようなパーソナル・コンピュータの構想は、1972年にゼロックスにいたアラン・ケイがDynabookという名称で発表した。サン・マイクロシステムズのジョン・ゲージが「ネットワークはコンピュータだ」と喝破したのは1984年で、UNIXワークステーションが、分散型のネットワーク環境を(主としてカリフォルニア・ベイエリアに)短期間に実現した。1970年代には完成していたハイパーテキスト技術は、科学者や技術者の間で使われ、成熟した。企業もこの環境をローカルに(LAN)導入したが、ビジネスの世界では集中型が主流で分散型は補助的な役割を果たしたに過ぎなかった。会社が集中型なのだからしょうがない。
そして商用インターネットが爆発的に普及を始めた1995年、ネットワークコンピュータ(NC=写真右)がオラクルのラリー・エリソン会長(その他)によって提唱された。インターネットを前提とし、マイクロソフトのOS、インテルのCPUに依存しないコンピュータだったが、高速通信が一般的でなかった当時には時期尚早で、150億円あまりを費やした末に挫折した。しかし、21世紀に入り、ビジネスがサービス指向に転換してくると、むしろNC型のコンピュータが主流となる。スマートフォン、タブレットやE-Readerは、すべてNCのバリエーションだ。クラウドの圧倒的パワーを背景にタッチ式のインタフェースを得ることで、サービス指向型NCは最も安価な選択肢となった。NCSはサプライチェーンを統合するシステムで、それが「マス」ではなくn個の個人をサービスの対象とすることによって、食物連鎖の頂点に立つことになる。
NCは、ネットワーク=コンピュータ=サービス(NCS)の一部として実現した。しかし、Kindleのように、NCは仮想化できるので、電話やPCでさえ、この開放型/半開放型のNCS環境の一部に含めることができる。NCSは放送システムと同じくらい一貫性があり、道路と同じくらいの開放性があるからだ。NCSは音楽やビデオ、放送…と、あらゆるサービスに使える。もちろん新聞・雑誌・書籍の出版にも。しかし、NCSパラダイムのメディアビジネスには大規模なビジネスモデル(ビッグ・ピクチャー)が必要となるのだが、皮肉なことに閉鎖系で成立していた既存の大企業にとって、非閉鎖系への転換は、駱駝が針の穴をくぐるほどに困難なのだ。イスラム法学者にとってそうだったように。だからアップルやアマゾン、Googleのようにコンテンツ以外にも商品を広げられる(つまりメタメディア)「特殊な21世紀型大企業」に限られてしまう傾向がある。これらの巨人たちはガジェット、広告、通販でそれぞれ圧倒的な強味を発揮しながらジャンケンをやっているようなものだ。
まだこのNCSパラダイムに到達している日本企業はいない。メタを指向するよりも、むしろあらゆる手段を使って特殊性(閉鎖系)を守ろうとしているように見える。特権を失うのであれば当然だろう。しかしこれは無益であるばかりでなく、それぞれが体現してきた価値にダメージを生じる。NCSパラダイムでサバイバルする仕方を学ぶにしくはない。(→次ページに続く)