デジタルはアナログ(実世界)を経済的に模倣し、再現するものだ。実世界には問題を理解する達人とそれに準じた職人がおり、解決を与える。他方でデジタルは、問題が言語(数学的形式)として与えられさえすれば、忠実に実行する。場に応じる達人の智の言語化は難しい。中途半端なら手間が増え、完璧に噛み合えば職人の仕事はなくなる。アナログは深め、デジタルは追いかける。終わりがないのがいい。(編集子解題)
コンテンツとテクノロジーの対話:(6)『日本語組版処理の要件』と小林 敏さん、小野澤 賢三さん(2)
JLreqは、日本語組版についての背景知識がない技術者にも、縦書きやルビなどの日本語の言語文化に依存する組版要件を実装できる可能性を開いた。しかし、英語版は措くとしても、そもそも《日本語組版処理》の要件が、まとまった形で言語化された歴史はそれほど長くはない。以下は、ぼく自身の狭い経験と、JLTFの主要メンバーである小林 敏さん、小野澤 賢三さんのお話を踏まえて。
日本語の曖昧に対する、職人の智と技、計算機の厳密性の激突
活版の時代、組版に関わる知は、印刷所の現場にあった。職人たちの目と手にあった。
それが組版規則として、言語化というか定式化というかされていく過程は、大きく二つの道筋があった。一つは、編集者や校正者のための校正技術の教材として、もう一つは、電算写植機やCTS (Computerized Typesetting System)のアプリケーションとして。
小林 敏さん(以後、JLTFの慣習に従って小林先生)が、日本エディタースクールの編集者や講師として、校正技術の流れを代表するとするなら、小野澤さんは、最初期の写研電算写植システムの開発技術者として、プログラム開発の流れを代表すると言えるだろう。
この二つの流れは、JIS X 4051“日本語文書の組版方式” (1993)で一つになる。
要求する側としての編集者の知とそれを実現する側としてのシステム実装者の技が真っ正面から角突き合わせたというだけでも、JIS X 4051は画期的な到達点だった。しかし、事後的には、JIS X 4051は少なくとも2つの問題点を内包していた。JLreqはその1つの解決を目指し、もう1つの問題点は、問題点のまま継承することになった。
問題点の1つめ。JIS X 4051は、日本語で書かれた日本人のための日本語組版の規則だった。そのため、この規格を構成する語彙そのものが、日本語の文化的背景を担っており、日本語を読むことが出来、漠然としていたとしても日本語の組版についてのある程度の背景知識がなければ理解することが不可能だ、という根源的な問題を持っていた。すなわち、日本語のリテラシーがあり日本語組版にある程度慣れ親しんだものでなければ、この規則だけで日本語組版システムを開発することは不可能だ、というアポリアを内包していた。
問題点の2つめ。先にも述べたように、日本語組版規則は元来活版の植字職人の現場の知としてあった。そこには、ある種のいい意味でのご都合主義があったに違いない。その場その場の状況に応じて、臨機応変に対応する柔軟性。活字ケースに見当たらない活字があれば、小僧さんに活字屋さんに買いに走ってもらっている間、適当な活字をひっくり返して入れておけばいい。それがゲタなのだが、そのような場当たり主義的な、しかし、現場の状況に即しながら、顧客(作家や編集者)から文句の出ないような解決策を、職人たちは身につけていた。ときには、同じような状況への解決策が、異なる場合もあっただろう。いいじゃないの、読みやすければ。
しかし、デジタル装置によるシステム実装や工業規格の開発という局面では、そのようないい加減さは、許されない。明示的にプログラムされ、規則として明文化された事項のみが意味を持ち、そして、曖昧さが入り込む余地はない。状況に応じて(例えば1行の行長など)臨機応変に対処されていたことがらが、組版規則として明文化されたことにより、規範性と拘束性を持つようになる。禁則処理の対象となる記号類の扱いや縦組みの日本語文中に挿入される欧文文字の向きなど、今現在、巷間喧しい議論が巻き起こっている問題の多くが、職人の智をデジタル装置に実装したり、工業規格として明文化する際に避けることの出来ないアポリアに起因することのように思われる。
この2つ目の問題に対して、JLreqはJIS X 4051の問題点をそのまま引きずっている。いな、日本語組版処理のみならず、多くのデジタルシステムや工業標準が、このようなアポリアを内包しているのではないか。
JLTFが小林 敏さんと小野澤 賢三さんという出自の異なる二人の専門家の参画を得て進めることが出来たのは、本当に僥倖だったと思う。そこには、常に異なる立場からの批判的な視点が存在しており、そのような批判的な視点が、JLreqそれ自体の堅牢性を高めることに大きな寄与をした。
急いで付け加えておくと、阿南さんや加藤さんなどの、優れた技術者でありながら日本語組版についての知見を持たない人たちや、FelixやRichard、Steveなどの、そもそも日本語を母語としない人たちの、時には専門家から見ればばかばかしいような質問も、JLreqの堅牢性とわかりやすさを高めることに寄与したこともまた言を俟たない。
小林龍生(こばやし たつお)
1951 年生まれ。東京大学教養学部科学史科哲学分科卒。 Unicode Consortiumディレクター、IDPF理事、W3C日本語レイアウトTF議長、情報処理学会情報規格調査会SC2専門委員会委員、日本電子出版協会 フェローなどとして、ITと言語文化の接点にあって国際標準化の現場で活躍。小学館では学年誌の編集、ジャストシステムでは製品・技術開発に携わったほ か、初期の電子書籍プロジェクト(電子書籍コンソーシアム)も経験している。主著『ユニコード戦記』(東京電機大学出版局、2011)