再販制は単独では成り立たない。日本的価値評価システムが支えていた
それでも、出版関係者はこのシステムを御神体として奉じることを止めないだろう。過去にはうまくいってきたという理由で。では再販制によって何がうまくいっていたのだろうか? それはなぜうまくいかなくなったのだろうか。再販制は(このガラパゴス島の)出版業界にとってよくできたビジネスモデルだった。外部からの侵入を受けずに独自の発展を保証したものだったからだ。出版はオープンであるべきだと考える筆者は評価しないが、業界人にとって悪いシステムではなかったことは認めるしかない。再販制の最大の価値。それは<情報の価格と価値>という、情報商品を販売する上での最大の難問に対して、つねに天下御免の統一的な答えを用意することにある。「定価を見よ!Q.E.D.」。出版関係者は古書店という市場価格の世界を知っており、もちろんその利便性を享受しているが、努めて語らないようにしている。
いまお盆の真っ最中だが、かの有名な梅棹忠夫「お布施の原理」(『情報の文明学』中公文庫)によれば、お布施の額は、坊さんと檀家の格、つまり「そのふたつの人間の社会的位置によってきまるのであって、坊さんが提供する情報や労働には無関係である。まして、お経の経済的効果などできまるのではけっしてない」ということになっている。情報商品については、お札であろうとお布施であろうと映画・音楽・小説であろうと、原価で価格を決定することなどできないということだ。さて価格が形成されるには、供給が有限でなければならず、買い手が購入を判断するためには、ある程度は内容を知る必要がある。版画の印刷はつねに限定され、作品は開示される。ところが、書籍の場合は内容を開示すれば出版社のリスクは最大になり(立ち読みで十分)、著者とタイトルとページ数、定価だけで、あとは知る由もなければ消費者のリスクは最大になる(金返せ)。
こうした価格交渉が不可能な状態で市場を成立させるのが、格というものだろう。格は格付けによって社会性を持つ。坊さんの格には寺格、僧階などあるが、お経など知らなくても、格は垂直的なので誰にもわかりやすい。信じようが信じまいが、対価については「そんなものか」と思わせる鑑定力があるのだ。出版においては大手取次に取引口座を有する版元が発行する本が書店に並べられ、全国紙が書評を掲載することで格が付けられる。価格と価値の関係を(まず市場化せずに)社会化するわけだ。ただし、出版の場合、どちらかといえば坊さん(著者)の僧階より、派遣するお寺(版元)の寺格がものを言い、檀家総代のような取次が正しい価格を決めることになっている。内容については、関連する業界コミュニティの関係者によって評価され、書評が各種メディアで取り上げられ、拡散していく。たいていは、著者/所属コミュニティや版元との関係によって評価は決まる。
再販制は、<価格と価値>に対する「社会的」評価(正当化)の仕組みと一体として機能する。そして編集と活字処理に相当な時間とコストがかかり、一定の格を有する版元が、金銭的リスクを負って世に出す、ということだけで一定の価値保証になってきたのである。これは大小無数のネットワークが複雑に絡み合う伝統的な日本社会の「関係性」を反映したシステムであった。出版は社会的行為だが、日本での出版が日本的相貌(ムラと世間)を示したのは当然といえよう。であればこそ、マーケティングなど不要で、関係性がすべてだったのだ。何世代も続けばガラパゴスこそ永遠であると思う人が多くても不思議ではない。ではなぜこの調和的エコシステムが壊れたのか。答えは簡単。容量である。システムには限界サイズというものがある。出版活動の拡大は、自転車操業の必要の結果だが、もうひとつのデジタル革命であるDTPによる制作コストの低減の恩恵を目一杯使ったのだ。生産能力の限界は技術によって超えられたのだが、品質と評価の体制を無視していた。
過剰供給による出版物の権威性喪失から評価システムの再構築へ
日本的出版システムが確立した1960年当時の新刊点数は1.1万点あまり。2万点を超えたのは1972年。3万点を超えたのは1982年。4万点を超えたのが1992年である。ちょうど10年で1万点増えていった計算だ。それが2002年には7.2万件となった。書籍統計の収録範囲が1995年に改訂されたこともあるが、1990年代からの増加は異常である。これはインターネットの普及とも無関係だ。今にしてみれば、これが評価システムの急速な陳腐化をもたらしたものと思われる。点数の増加が内容の希薄化、品質の劣化を伴わないことはあり得ない。返本は膨大になり、取次は「返本処理工場」まで建設して対応した。自炊業者を訴えた作家たちが見たら卒倒しそうな光景が、日々繰り広げられているのである。これは出版人のモラルとモラールの低下をもたらさないわけはない。1997年以降の衰退の直接的原因は、点数の増加に求められる。ガラパゴスは外圧ではなく内的原因によって衰退したのだ。
もちろん、インターネットが一定の役割を果たしていないわけではない。既成メディアの権威低下を促進したという意味で。しかし、ソーシャルネットワーキングの普及はここ5年あまりの出来事で、アマゾンの読者評と評価システムがマーケティングで力を持つようになったのも、そう古いことではない。自己責任による事態だからこそ、出版社にはなすすべがなかったのである。お布施はなくなっても、「お布施の原理」は不滅である。とすれば、いくら価値を訴求するマーケティングをやっても、出版業界として価値評価システムを再構築できなければ、産業としての再出発を支えることは出来ないだろう。
活字はかつて「公器」とされ、出版は社会に向けてのメッセージ」を意味した。新聞は「不偏不党」の「客観報道」を標榜した。現在でもこれはタテマエとして残っている。放送も同じく「公共の電波」として出発し、文化性と速報性を誇ったが、娯楽と広告の媒体として進化した。ビジネスである以上は、商業性のほうに淘汰圧がかかるのは仕方がない。これら旧“マス”メディアの問題は、公共性・権威性をオーラとして、躊躇なくそれを商売に使ったことだ。「神の代理人」でさえ、免罪符を売りまくれば権威に傷がつき、反抗するものも現れる。とくにコミュニケーション環境が激変する時代には。出版社はバブルが崩壊しても過剰供給をやめないどころか、単独でもバブルをやり切ろうとした。インターネットに脅かされてから慌てて権威性を振りかざしても…というところだ。裸の王様はとりあえず着るものを探したほうがいい。でないと見るのがつらい。
著作物としての独自性を主張できる、まともな本を1冊つくるのは簡単なことではない。昔は著者と編集者が数年がかりでつくったような話はめずらしくなかった。そんな本は7万点のうちに何点あるだろう。紙に文字や写真が印刷されていれば「本」というわけではない。本の形をして出版社から発行されたものが無条件に本と評価される時代は終わった。出版はもともと玉石混交なものだ。玉だけに価値があるわけではなく、石は石の役には立つ。しかし、昔から玉を選ぶ目を持った(人が影響力を持つ)社会だけが高い知性と文化性を育む。石と一緒に玉を捨ててしまう社会は、危機から立ち直ることができない。
建築物の評価がそうであるように、本の評価というのは簡単ではない。執筆・編集を業とするものが必ずしも書評という仕事の専門性を持つわけではない。しろうと評も悪くないが、専門性(明確な基準、多角的視点、言語感覚、バランス…)が共有されていないと価値はない。だからプロが必要なのだが、書評でめしを食える人はいない。しかし、これほど社会的ニーズがあるのだから、ビジネスあるいはソーシャルビジネスとして検討すべきなのかもしれない。いずれ考えてみよう。(鎌田、2012-08-15)