「書物における明治二十年問題」は、私たちが「紙かデジタルか」などという不毛な近視眼的見方を抜け出し、書物の歴史をふまえた創造的な議論に進んでいく重要な手がかりを与えている。本フォーラムでは、これを出発点として前進すべく、橋口侯之介さんと小林龍生さんと鎌田による「鼎談」を企画した。これがさらに分岐を生み、リンクを広げて新しい「書物」の実験にもなることを期待している。まずは鎌田が受け止めたことをまとめておく。(鎌田)
「明治二十年問題」をめぐって:ポスト・グーテンベルクへの視点 鎌田博樹
「この明治期の変化は、二十一世紀の書籍が電子化されていこうとすることの予兆でもある。千年の和本の歴史に対して近代以降の書籍はたかだか百二、三十年の歴史しかない。それがもう終わりを始めようとしている。それも変化のスピードが速い。たんなるデバイスの変化ではなく、制度的な底流から変わっていこうとしていることを見るべきだろう。」(橋口「明治二十年問題」最終パート)
橋口さんの「明治20年問題」は、この40年ほどの出版技術、情報処理技術の変遷(つまり数々の××革命)を直接・間接に目にし、体験してきた私に、軽い眩暈と重たい興奮をもたらしました。一言で云うと、5年前に米国で始まった電子出版革命の行く先を考えるヒントを与えてくれたように感じられたということです。8月の東京の暑さのせいばかりではないと信じ、以下(主としてマーケティングやシステム論から)ポイントを整理してみました。
1. 出版文化=システムの「壊滅」ということ
1.1 木版印刷技術を基盤に、質・量・多様性のいずれでも高い水準を誇った江戸の出版文化は、活字印刷を背景にした明治の新興出版に対応も対抗もできずに壊滅した。
1.2 壊滅したのは、木版を活版に技術的に置き換えたり、出版が企業化したり、問屋と小売の分業を始めたりするような「進化」が不可能であったことを示している。
1.3 出版における「文明開化」とは、自律・分散・協調的な生態系の崩壊と、統制・集中・指令型の人工的システムの構築を意味した。それは大きな文化的損失をともなった。
1.4. 現行の出版システムは、活字印刷に最適化した歴史的存在であり、出版が活字と紙の制約から解放されたデジタル時代には全体として「壊滅」する可能性を持つ。
2. 江戸出版文化の今日的再評価
2.1. 木版文化は、同時代の日本語(とコンテンツ)に最適化した文字の自由闊達な美しさ、木版印刷の美術的価値、和本の装本などで、活字・洋装本にない独自の価値を持つ。
2.2. 江戸の出版エコシステムは、出版・問屋・小売・貸本の兼営、新本と古本の併売、板株の証券化を通じた出版金融(ソーシャル・ファンディング)など高度な合理性を持っていた。
2.3. 出版における「文明開化」を単純に進歩として受け取ることはできない。それは「紙から電子へ」の基盤技術の転換に伴う変化を、単純に進歩とは考えられないのと同じである。
2.4. 江戸の出版システムの最大の長所は、「作るところから売り買いまで本屋と顧客の間が直結していて、それぞれが本に対する意識を共有していた」ことにある。市場は生きていた。
3. グーテンベルク銀河系の黄昏
3.1. 江戸木版の壊滅は重要な教訓を残した。木版の制作と販売に最適化されたシステムは、それゆえに制作や流通を含めて、新技術を導入できず、丸ごと壊滅せざるを得なかった。
3.2. 活字出版は、制作のデジタル化が本格化した1990年代から衰退に向かった。オンライン書店とE-Bookによる出版デジタル化の完成は、現在のシステムの壊滅をも予感させる。
3.3. 現在の出版システムがデジタルを部分的に組み込んで存続することは不可能である。逆にデジタル出版の柔軟性は紙の出版を取り込むことができる。
3.4. デジタル出版は、グーテンベルク銀河を包摂し、それだけでなくグーテンベルク以前の銀河をも再生させることができる。うまくいけばそれは、出版のルネッサンスとなるはずだ。
「書籍の変化とは、それを商う人とそれを支える制度の問題である。」と橋口さんは指摘しています。「制度」は生産・流通・金融におよぶ産業技術/サービス基盤によって構成されるものですから、それらすべてが大きく変化をすれば、書籍の変化は時間の問題なわけですが、書籍を商う人たちは「仲間」意識も強く、従来の形に固執します。価値を主張し、正統性を主張する。そのことによって選択肢を絞るので、だいたい一世代で壊滅する。今回もそうなる可能性は大です。制度は産業・技術基盤を最適に構成すべきものなのですが、書籍を商う人たちが本来ターゲットであるべき読者ではなく、彼らが考える書物 ―すでに歴史的限界を露呈している活字印刷物― を絶対に守るべきものと考えている限り、最適解からは遠ざかってしまう。これは「書物」という社会性のオーラを背負った人々の運命なのかもしれません。
出版は知識の生産と流通、消費に関わる複雑微妙な社会システムであり、知識コミュニケーションのあり様、知識の情報化/情報の商品化のあり様に深く関わります。出版ビジネスの中心が娯楽情報であったとしてもその事実は変わりません。そうした意味で、一つの出版システムの壊滅は社会(文化)を変えるということができるでしょう。それは不可避です。もはや問題は、新しいデジタル出版をどう構築していくかに移っていると思います。現状ではアマゾンが完全にリードした形で、デジタル出版を定義していますが、驚いたことに、それは問屋、書店、古本屋、貸本屋など流通の一切と、時に出版までを兼ねた、「本屋と顧客が直結」し「本に対する意識を共有」できる江戸的出版システムなのです。かつて合理性が否定されたこのシステムが、インターネットとともに復活したわけです。
脱グーテンベルクが、失われた過去の回復を伴うものであるとすれば、そして「本屋と顧客が直結」し「本に対する意識を共有」できるシステムが問題であるとすれば、それはアマゾンでなくてもできるはずです。実際に、江戸出版システムは自律・分散・協調的なエコシステムを実現していました。本質的にはインターネット・パラダイムと親和的なのですから、不可能ではないと考えています。ただ、そのためには、例えば、以下のことを明らかにする必要があるでしょう。
- グーテンベルク・パラダイムとは何だったのか
- グーテンベルク以前とは何か
- ポスト・グーテンベルク・ルネッサンスとは何か
橋口さん、小林さん、そして読者諸兄姉のご参加を切にお願いするものです。よろしくお願いします。(鎌田、2012-08-27)