史料・吉田卯之助「明治中期の古本屋の話」
東京古書組合の機関誌である「古書月報」(昭和10年5号)に載った吉田卯之助の聞書がこの時代の様子を語っている。吉田卯之助は麻布飯倉にあった槍屋(やりや) 清三郎の店に明治15年、16歳の時に丁稚奉公にあがり、後に芝の日蔭町で東国堂を独立開店した人である。飯倉の槍屋というのは維新前まで刀剣などの骨董屋をしていたが、後に洋書の専門古書店(当時は原書(げんしょ) 屋といった)に転向した。中橋にあった文明堂・山口市兵衛と共に洋書界をリードしていた。銀座の十字屋、神田の三省堂、有斐閣などが原書屋として知られていた。その吉田が小僧をしていた明治10年代の様子が述べられている。
「その頃の古本屋は只今のデパート式でなく旧式の呉服屋などのやうな座売式でした。客が店に腰かけますと座布団を出す、火鉢を出す、茶を出す、といふ風で、無論店にも本は並べてありますが、多くは土蔵にしまつてあるのです。老子の良買は深く蔵して空しきが如し、といふ風で仲々趣のあるものでした。何々の本を持つてこい、と主人なり番頭さんに云はれますと、ハイといつて昼でもうす暗い土蔵の中に入つて本を探すのです。沢山の本の中より註文の本を探し出すのは容易なことでないのです。殊に原書です。それを探し出せるやうになるとモウ一人前になつたのも同じです。私などは蔵の中で幾度泣いたか知れません」
「昔は素人の本屋はなく大ていは小僧上りでした。小僧さんは皆勉強をしたものです。和本屋の小僧さんは目録を作り店をしまつて寝るときになつて豆ランプの灯影をたよりに一生懸命研究したものです。槍屋などは原書を主として売買してゐましたので、今迄横文字などは一字もみたこともない私共でもそれをおぼえなければならない苦心は大ていではありません。番頭さんに訊いても教へてくれません。仕方なく字引と首つ引で夜の明けるのを知らないで勉強したのも度々でした」
「明治二十年頃の古本屋は原書屋と和本屋の対立の観がありましたがあらゆる旧套を脱して新しき文明を吸収するに汲々たる当時の国情は原書屋の威勢を高め実に隆々たるものでした」
「その当時の和本屋でおもに売買されたものは漢籍ならば十八史略とか外史とか只今ならば殆どツブシのやうなものが教科書として使用してゐた為め威張つてゐたものです。日本外史などは定価二円廿五銭のものが一円七八十銭位でした。国語も万葉とか玉かつまとか、神道の教科書に使ふものが命脈を保つてゐる位で、その他の和本はツブシ同様の値段でした」
「その頃の和本屋の一流は松山堂でした。この店は和本の硬派もの即ち漢籍国書を主とし、原書なども取扱つてゐたと思ひます。それから浅倉屋、本郷の大島屋伝右衛門、須富(四代目で日本橋須原屋の番頭)、嵩山堂―小林新兵衛、日蔭町の村幸、この店は私と同じ並びで、九尺間口の小さいものでした。主として軟派ものや、俳書、蒟蒻(こんにゃく)本、金平(きんぴら) 本、黄表紙、錦絵等を置き、只今ならば珍本に類するものを取扱つてゐたと思ひます。とにかく当時は欧化万能、今日軟派の珍本が何千円もするのに比較しまして実に微々として振るはなかつたのは実に隔世の感があります」
いったん江戸時代とは反対の方向に大きく動いた振り子だが、やがて明治三、四十年になると落ち着いてくる。振り子は戻りつつあった。しかし、そのとき、江戸時代から続いた和本は、新刊の世界から退場していた。事実上の「壊滅」である。明治二十年はその転換期だったのである。
この明治期の変化は、21世紀の書籍が電子化されていこうとすることの予兆でもある。千年の和本の歴史に対して近代以降の書籍はたかだか百二、三十年の歴史しかない。それがもう終わりを始めようとしている。それも変化のスピードが速い。たんなるデバイスの変化ではなく、制度的な底流から変わっていこうとしていることを見るべきだろう。
そこに進化しすぎた出版界が無かったか? 本をつくる、売る、読む、伝えるという全体像がばらばらになって専門化した結果、それぞれの個々は全体を再構成できなくなってしまったのではないか?「本とは何か」という本質が見えなくなってしまった。来るべき出版像は再び大変動を余儀なくされるだろう。その時、もう一度、「本とは何か」を追究すべきである。 (「書物における明治二十年問題」、著・橋口侯之介、『古書通信』(2012/1~5月号) 連載「江戸の古本屋」より抜粋加筆)
参考文献(橋口侯之介著)
- 『和本入門―千年生きる書物の世界』 (2005、平凡社、2011年9月「平凡社ライブラリー」再版)
- 『続和本入門―江戸の本屋と本づくり』(2007、平凡社、2011年10月「平凡社ライブラリー」再版)
- 『和本への招待―日本人と書物の歴史』 (2011、 角川選書)
- 「文学研究のための書物学」、成蹊大学文学研究科 文献学共通講義のためのページ
- 「誠心堂書店エッセイ」Webサイト
著者プロフィール
出版社勤務を経て、神田神保町の古書店・誠心堂書店二代目。漢籍や日本史などの硬い本を専門にするが、 大衆本も含めた和本全体が守備範囲。著書に『和本入門―千年生きる書物の世界』(平凡社ライブラリー、2011年)、『江戸の本屋と本づくり―続和本入門』(平凡社ライブラリー、2011年)、『和本への招待』(角川選書、2011年)など。