10月31日、有志による私的研究プロジェクトである Project Beyond Gˆ3(以下脱G)の最初の研究会を開催した。G以前の書物と出版の世界について考え、Gによって失われた価値を明らかにすることを通じて、G以後のシステムが創造的であるための要件を定義し、実装・実験につなげていこうという趣旨である。第1回は、本フォーラムの連載でおなじみの橋口 侯之介さんを講師に迎え、まず和本の世界取り上げた。ここに発表資料を掲載する。なお続編である「書入・注釈」は12月1日の研究会を経て掲載予定。)
和本が拓いてきた世界 ─ 脱Gから創造的技術への提案
橋口 侯之介
日本では前近代から豊かな書物文化が根づいていた。それは江戸時代の奥行きのある広がりだけでなく、千年以上の時間軸があった。この時空のなかにG によって失われる以前の書物世界が生きていた。それが何なのか、どのように考えればよいのかを探っていきたい。書物は「読む」ことだけに存在するのでなく、つくる・売る・読む・伝える等の広範な活動が集約された「もの」である。同時にきわめてメンタルな一面をも内包している。そこに流れている「本とは何か」という本質を理解したい。(図は種彦/国貞の『偐紫田舎源氏』 (1829-1842))
Part1:絵巻物の時空表現
絵巻物は物語を絵と詞で表現した日本独自の「書物」である。平安時代から千年の歴史がある。数々のテクニックが駆使され、見て楽しい世界を築き上げてきた。書物がもつ「身体性」も明確である。いったん近代になって滅び、かわって映像表現やアニメの中に生きるが、将来の書籍においても、そこから吸収すべき事柄は多い。これまでの研究は美術史に偏ると拙な絵や江戸時代の絵巻は対象からはずしてしまうし、文学研究からのアプローチは絵より文に重点を置く。書物として広く見る方法が必要である。
巻子本(かんすぼん)とは
唐代までの中国の基本的な装訂。巻物ともいう。日本もこれを受容し、巻子にして漢文で書くことが公家や仏家の規範として中世まで続いた。しかし、本を日常的に見るには不便である。延々とスクロールしていかねばならないし、見終わって巻き戻すのはもっと大変である。そのため、経文のようにふだんから僧侶がよく使うものは折本にした。これならどこでも開け、すぐしまえる。
物語や私家集などの平仮名交じり文には、規範からの自由度があったので、読みやすい冊子(さくし、さうし)にした。粘葉装(でっちょうそう)や結び綴じにして、それを草子(さうし)とも呼んだ。それが冊子本がふつうになる江戸時代まで続いた。
その後は、用途に適した装訂が工夫されてきており、巻子にすることに意味がある書物は、巻物に仕立てた。決して古い方法を捨て去ることはしない。中国では10 世紀、宋代以降冊子本や折本(おりほん)になり、同時に写本から印刷本になり、一気に塗りかわってしまう。
絵巻物とは
草子(=草紙)の一形態が絵巻物である。ストーリー(物語)があって、それに絵を加えたいわば絵物語である。元のテキストは詞書にする。絵が主なので、従である詞はダイジェストにすることが多い。この絵物語はあえて巻子に仕立てた。それは絵の見せ方のためである。絵巻という語は近世以降の呼称で、中世までは、ただ「絵」といった。絵画で事象や物語、信仰を表現する格好のメディアとして独自の位置をしめてきた。知識の伝承は出版物=版本(はんぽん)だけでなく、写本も担った。むしろ絵巻の伝える力は版本以上である。だから、意味をこめて豪華に作るし、大事にしてきた。印刷することがメディアとしての書物だという考えをいったん置いてほしい。
巻子の見方
部屋に座って(当時は男女とも立て膝坐り)巻物も床ないしは低い机に置く。人の肩幅くらい(50~60 ㎝程度)を標準として少しずつ左側をスクロールしながら見ていく。右側も巻いて送り込みながら収めておく。最後に見終わったら、この逆にして戻していく。(→次ページに続く)