Part2:黄表紙へ
挿絵本
江戸時代は基本的に木版本の全盛期である。しかし、写本も絵巻も、芸能も生き続けている。絵巻は奈良絵本として栄え、浄瑠璃が最も人気の高い演劇となる。仮名草子・浮世草子が人気の文芸であり、挿絵が重要な役割をはたす。
黄表紙
18 世紀中頃から19 世紀初頭にかけて一世を風靡した大衆本(草双紙)に黄表紙がある(青本)。絵
巻を1:1.4 の幅で切って冊子本にし、画中詞を増やした絵入小説。これは、絵巻のバリエーションである。題材も初めは子供向きのお伽話だったものが大人向けの書き下ろし文芸になる。(右=『忠臣房受帖』(十返舎一九作)
絵の象徴性
黄表紙は絵の細部に至るまで、意味を持たせることがおこなわれた、たんなる背景と思われるものでも、物語の時代の象徴として描く。これは絵解きとして、中世の仏画にもあったものである。「うがち」という形で風刺的な絵解きが盛んになる。さらに滑稽と『パロディ』は江戸時代初期からの伝統。これらを理解するには読者にもセンスが要求された。19 世紀になると合巻や人情本のように敵討ちや悲恋物が増えるが、浄瑠璃から歌舞伎に人気が移ることと関係しよう。 上=『堪忍袋緒〆善玉』(山東京伝作)
近代的Gの欠点
せっかくの絵巻の迫力やさまざまな技法を現代の冊子状の本で見てしまうとよく味わえない。「絵巻物全集」などと銘打った写真版による画集がたくさん出ているが、どれも例外なく洋装の冊子本である。これでは断面しか見られず、絵巻の最大の見せどころである流れとしての時空表現が感じられない。個々の絵の美術的価値に力点が置かれ、最も楽しく、味わい深い物語としての鑑賞ができないのである。近代のG は「進歩」によって、古い装訂を切り捨ててしまった。絵巻の役割は映像表現に譲ってしまった。江戸時代までは、用途や表現に適した複数の装訂上の選択肢があったのに、洋装一辺倒にしてしまった。これからのEBook には、新しい表現を探って、この選択を取り戻してやるべきだろう。巻子本から冊子本へ、写本から印刷本へという単純な進歩論で和本は語れない。例えば新しい装訂方法が生まれることは進歩で無く、選択肢の拡大である。(下=『鬼窟大通話』(喜三二作))