橋口和本論(と呼ばせていただく)から受けた重要なヒントは多く、簡単には整理できない。こういうときは整理を後回しにして、記憶が薄れないうちにインスピレーションをそのまま書きとめ、浮かんでくるアイデアをランダムに書き綴っていくしかない。和本の世界はデジタルと親和性があり、その復興が出版の21世紀を創造的なものにするという確信は、今年最大の収穫であった。和本は世界的な文化遺産にとどまらず、出版とテクノロジーのあるべき方向を示している。(写真は奈良絵本『ゑほしおりさうし(烏帽子折草紙)』)
絵巻は絵画(painting)か書物(book)か
橋口さんの講義は絵巻物から始められている。絵巻は書物(book)として扱うべきだ、というのだが、これは容易ならざることだ。現にWikipedia(1)には「絵巻物は、日本の絵画形式の1つで、横長の紙(または絹)を水平方向につないで長大な画面を作り、情景や物語などを連続して表現したもの。」と定義されている。これが常識であり、筆者も子供のころから教科書通り、これを美術的価値から絵画(painting)であると考えてきた。
絵画は実体的(モノ)定義で、書物は機能的定義なので、両立しないものではないが、近代以降、絵画はもっぱら美術作品として、書物は文書あるいは作品性を持った刊行物として見られてきたから、絵巻を書物として見る習慣はないに等しい。絵巻物の専門家は、すべて美術への鑑識眼で語ってきたと言っても過言ではない。文献学者も歴史学者も、絵巻物にはあまり踏み込んでいない。高度な天文学が綴られたマヤ、アステカのコデックスのように「絵文書」というものがないわけではないが、絵巻を書物あるいは文書として扱うということは、絵から文字、活字へと直線的に発展してきたと考えられている人類のコミュニケーション史の常識からみて、幼稚と見做されることを怖れたためではないかと思う。(写真はドレスデン・コデックスと復刻本)
しかし古書肆を営んでおられる橋口さんにとって、絵巻物は必ずしもそう非日常的な美術品であるわけではなく、書物として使われ、流通してきたものであるという実感がある。古美術店ではなく古書肆に入ってくるものが少なくないのはそのためだ。では書物とは何か。
Wikipedia(2)日本語版は、「書物の最も明確な特徴」として、(1)コミュニケーションの道具として役立つことを目的とし、(2)内容を伝えるために文章や絵、記譜法のような視覚的シンボルを用い、(3)実際に流布させるために出版する、という3点を挙げ、そこから「書物の基本的な目的は、携帯性と耐久性という特徴によって読み書きのできる社会において知識と情報を人々に発表、説明、保存し、伝達することである。」という定義を導いている。ちなみに書籍は「糸、糊等で装丁・製本」された書物で、形態が限定されている。これを「電子書籍」にまで拡大適用するのは自動車を「馬なし馬車」と呼ぶよりも不適切で、E-Bookが嫌なら電子書物(英語でe-bookとなる)を使ってほしいのだが、グーテンベルク「書籍」業の人たちが頑張っているので、語義矛盾が通用している。はやく消えてほしい。
和本は読書する社会的空間として存在した
ともかく、日本の絵巻は、書物の定義に合致している。絵巻は何よりも流布するものであった。絵巻が書物でないなら『もしドラ』も書物ではない。平安から江戸にかけて、実際に同じテーマについて、夥しい数の絵巻が描(書)かれ、多くの人々に、読まれ(詠まれ、語られ)てきた。同じテーマの絵巻の伝本・異本が山ほどあるのは、有名画家の贋作がつくられたからというよりは、書物としての需要があり、巧拙はともかく、時代とともに絵や文章が部分的に描(書)き替えられたためである。書物として存在してきた以上、絵画的価値を別として書物として正当に(まず文献学的側面から)評価されるべきだろう。美術品として見れば、絵の巧拙、絵師の名前がすべてであって、文章など(書としての)価値がない限りは注目されない。読まれないままにクズ扱いされたことも多かったろう。
先日、日仏会館で催された『酒飯論絵巻』をめぐるワークショップで、絵巻というものの多様な性格の一端を知ることが出来たが、コミュニケーションの手段であった割には、そこで描かれている事物(服装、建築、食物、武器武具、調度品等々)と風俗、詞書、メッセージについて、分かっていることがあまりに少ないことに驚いた。室町時代後期に誕生した後も生産され続け、狩野派系と土佐派系に大別されている伝本が、なぜ、どのような目的でつくられ、所蔵されたかも、ほとんど分かっていない。しかし、内容の骨格が維持されたまま、かきかえられ、読み継がれてきたことから、もともとは観賞用美術作品でも読書用文学作品でもなかったことだけははっきりしている。いや、美術とか文学というのは、当時にあっては本来中心的な価値でもなかった。(→次ページに続く)